山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七章

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――第七章 人質の春――

 江戸の冬は、寒さそのものよりも、寒さを紛らわせるために人が吐き出す湯気と欲と嘘で、いっそう冷えた。

 榊原伊織は深川の長屋に戻ると、まず新兵衛を呼び、低い声で言った。

「信濃へ使いを立てる。母と妹を江戸へ呼ぶ」

 新兵衛は目を剥いた。

「正気か。江戸は網だ。呼べば呼ぶほど、網に絡む」

「網に絡ませぬために呼ぶ」

「理屈が逆だろうが」

 伊織は、懐から証文の写しを取り出した。紙の端に、今日聞いた「富――」の一音を添えて書き込んである。

「志摩屋の裏口に藩の符牒があった。藩内の者が俺を消そうとしている。信濃にいる母と妹は、狙われれば弱い。折れるものから折る――そう言った」

 新兵衛は舌打ちし、床を見つめた。

「……なるほどな。内膳だけじゃねぇ、江戸詰家老にもいる。そいつが藩に手を回してるなら、信濃の家族は確かに危ねぇ」

「だから、俺の目の届くところへ置く」

 新兵衛は、しばらく黙っていたが、やがて吐き捨てるように言った。

「人を呼ぶなら、人も動かす。信濃へ行って戻れる奴は限られてる。役目に向いた者が一人いる」

「誰だ」

「鳶の親方の弟分――名を弥吉ってぇ。足が速い。口が堅い。何より、借りがある」

「借り?」

「昔、俺が命を拾わせた。だから返したがってる」

 伊織は頷いた。

「弥吉に頼め。道中の金は用意する」

「金なら、志摩屋の裏に投げ込むよりはマシだな」

 新兵衛は苦く笑い、すぐに立ち去った。

 伊織はお澪のいる部屋へ行った。お澪は小さな火鉢の前で、布を縫っていた。伊織の袖の裂けたところを、黙って繕っていたのだ。

「お澪」

「はい」

「信濃へ使いを出す。母と妹を江戸へ呼ぶ」

 お澪の針が止まった。

「……ご家族を、巻き込むことになります」

「巻き込まぬつもりでいても、向こうから巻き込まれる。なら、こちらで握る」

 お澪は布を見つめ、静かに言った。

「人質のようですね」

 伊織は、言葉に詰まった。人質――その響きは刺さる。

「……そうだ。だが、俺が縛るのではない。敵に縛られる前に、こちらが守るために縛る」

 お澪は針を置き、顔を上げた。

「守るための縛りでも、縛りは縛りです。伊織さまは……苦しいでしょう」

 伊織は答えなかった。苦しい、と言えば負ける気がした。武士の意地ではなく、人の弱さが露わになる気がした。


 弥吉が旅立った翌日から、伊織は志摩屋の表と裏を張った。

 表では女房や料理屋の者が乾物を買い、番頭が愛想よく頭を下げる。裏では荷の影から人が出入りし、舟が蔵へ向かう。昼と夜で顔が違う家だ。志摩屋が狐なら、その巣は表にはない。

 伊織は、志摩屋の裏口から出入りする男たちの背を数え、足取りを覚え、手癖を見た。武士の癖のある者は三人。町人の皮をかぶった者は五人。弓を使う者の姿は見えぬが、影はある。

 そして三日目の夜、伊織はついに見た。

 志摩屋の裏口から、ひとりの男が出た。背は高く、羽織の襟を立て、顔を半分だけ手拭いで隠している。だが歩き方が、異様に静かだった。足音がない。体重の掛け方が、忍びのそれである。

(御庭番……いや、もっと厄介だ)

 男は舟に乗らず、路地を抜け、寺町へ向かった。伊織は距離を取り、影のように追った。お澪には留守を頼んだ。危険の匂いが濃い。

 男は、以前逃げ込んだ寺――老僧の寺の門前で足を止めた。

(あの寺を狙う)

 伊織の胸がざわめく。寺は拠り所だ。そこが焼かれれば、老僧も消える。消されれば、証文の写しの行方も危うい。

 伊織は、先回りすることを選んだ。

 裏塀を越え、境内へ入る。雪の残る石畳を踏まず、土の上を選ぶ。息を殺し、庫裏へ回る。

 行灯が一つ、まだ灯っていた。老僧は起きている。

「……来たな」

 老僧は、伊織の足音を聞く前に言った。

「狐火か」

「狐火の火元だ。忍びのような男が寺へ向かった」

 老僧は短くうなずいた。

「わしも感じておった。お前が志摩屋へ踏み込んだ以上、次はここへ来る。――だが、それより」

 老僧は伊織の目を見据えた。

「信濃へ使いを出したな」

 伊織の背筋が固くなった。

「……なぜそれを」

「江戸の闇は、川の水のように回る。お前が動けば、波が立つ。その波は信濃にも届く」

 伊織は拳を握った。動いたこと自体が、敵に知らせた可能性がある。

「間に合うでしょうか」

「間に合うかどうかは、弥吉次第だ。だが、間に合ったとしても――」

 老僧は言葉を切り、静かに言った。

「江戸へ呼べば、敵は必ずそれを嗅ぎつけ、途中で襲う」

 伊織は歯を食いしばった。想定していた。だが言われると重い。

「迎えに行く」

「お前が動けば、志摩屋の監視が外れる」

「……」

 老僧の言葉は正しい。だが動かねば、人が死ぬかもしれぬ。

 そのとき、境内の外で笛が鳴った。短く、二度。あの合図だ。

 老僧が呟いた。

「来た」

 庫裏の障子が、すっと開いた。

 そこに立っていたのは、志摩屋の裏口で見た背の高い男だった。手拭いを外し、顔を晒している。年の頃は四十前。目が冷たい。笑っているのに、温度がない。

「坊主。まだ生きていたか」

 老僧は立ち上がり、僧衣の袖を整えた。

「お前こそ、よくここへ来られた。富――」

 老僧が名を言いかけた瞬間、男の目が鋭く光った。

「口が滑ったな」

 男は懐から短筒を抜いた。火縄の匂いがする。

 伊織は間に合わなかった。撃てば老僧が死ぬ。抜けば撃たれる。

 その瞬間、庫裏の奥から、ひとりの女が飛び出した。

 お澪だった。

「やめて!」

 男が一瞬、目を奪われる。女がここにいるはずがない。そこに隙が生まれた。

 伊織は踏み込んだ。短筒を払う。火花が散り、弾は天井を貫いた。男が短刀へ持ち替える。

「榊原伊織……邪魔をするな。お前の家族を守りたいなら」

 伊織の胸が凍った。

「もう手を回したか」

 男は笑った。

「動いた者は皆、名を残す。使いを出しただろう。弥吉。足の速い男だ。だが足が速いほど、目立つ」

 伊織は怒りを押し殺した。怒りは刃を鈍らせる。

「名を言え」

「名? 名など……」

 男は短刀を翻し、伊織の喉元を狙う。伊織は受け、体を沈め、肘で男の腕を打った。短刀が弾かれる。伊織はそのまま懐へ入り、相手の胸倉を掴んだ。

「富――の名を言え!」

 男の目が笑った。嘲りの笑いだ。

「言えば、すべてが崩れる。お前の藩も、お前の義も――」

 伊織は拳を振り上げた。

 だが、拳は止まった。

 男の背後、障子の隙間に、もう一つの影があった。弓を引いている。矢尻が、伊織の胸を狙っている。

(伏兵……!)

 伊織が身を捻ると同時に、矢が放たれた。

 矢は伊織を外れ――お澪の肩へ刺さった。

 お澪が小さく息を飲み、膝をつく。血が布に滲む。

「お澪!」

 伊織の声が、初めて乱れた。

 男はその隙を逃さず、伊織の腕を払い、後ろへ飛び退いた。闇の中へ溶けるように消える。弓の影も同様に消えた。

 庫裏に残ったのは、血の匂いと、老僧の静かな吐息だけだった。

 伊織はお澪を抱え、矢を折って抜いた。血があふれ、手が赤くなる。お澪は痛みに顔を歪めながらも、伊織を見上げて言った。

「……ごめんなさい。役に立とうとして……」

「黙れ」

 伊織は低く言った。怒っているのではない。震えを押し殺すためだ。

「お前は……」

 言葉が続かなかった。守ると言いながら守れぬ。武士の義を語りながら、目の前の命ひとつ守れぬ。

 老僧が静かに言った。

「折れるものから折る。……奴は、お前の心を折りに来た」

 伊織は唇を噛んだ。血の味がした。

「富――の名は」

「今の男は、その名を口にさせぬために来た。つまり、富――が核心だ」

 老僧は、お澪の傷を見て目を伏せた。

「娘は、人質になったな」

 伊織は、お澪の手を握った。小さく、冷たい。

 そして悟った。

 家族を江戸へ呼ぶことは、守るための策だったはずが、敵にとっては――より都合のよい人質を増やす策でもある。

 波瀾万丈とは、戦いの激しさではない。
 正しいと思った一手が、次の不幸を呼ぶことだ。

 伊織はお澪を背負い、雪の残る境内を出た。夜空は澄み、星は冷たく瞬いている。江戸の闇は、その星の冷たさに似て、容赦がなかった。

 だが伊織の胸の内には、ひとつだけ燃えるものがあった。

 富――で始まるその名を、必ず掴む。
 掴んで、折られたものを――折らせた者の手を、今度は折る。

 その決意だけが、深川の冷たい夜を、かろうじて歩かせていた。

(第八章につづく)

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