――第五章 狐火の名――
千鳥屋の炎は、深川の夜空を赤く染めた。
火の粉が川風に乗って舞い、提灯の灯と混じり合って、まるで狐火が無数に走るように見える。町人は叫び、桶を抱えて駆け、半鐘がやけに遅れて鳴り出した。だが、この騒ぎは人を救うためというより、騒ぎに紛れて何かを消すためのものに思えた。
榊原伊織は、お澪の手を引いたまま、裏長屋の隙間を縫うように走った。背後からは追う足音と怒声が断続的に迫る。火事場の喧騒の中では、追手が町方なのか、博徒なのか、あるいは別の何かなのか、見分けはつかぬ。ただ、こちらを狙う目が確かにある。
「こっちだ!」
先を行く、目の笑わぬ男が曲がり角で手招きした。男は慣れた足取りで、狭い路地を選び、人の少ない方へ導く。火事場の人混みを避けるように、だが追手の気配を切るように。
伊織は息を整えながら男の背を見た。
(この男――敵ではないのか)
だが信用するには、まだ札が足りない。男は味方を装う敵かもしれぬ。江戸の闇は深く、裏切りは息をするように行われる。
やがて男は小さな寺の裏門へ滑り込み、闇に紛れるように扉を押し開けた。境内は静まり、雪の残る石畳が月の光を淡く返している。
「入れ」
三人は本堂の脇を抜け、庫裏の土間へ入った。中は炭の匂いがして、明かりは行灯が一つ。そこに座っていたのは、白髪の老僧――いや、僧衣を着てはいるが、背筋の伸び方がただの坊主ではない。
老僧が目を上げ、伊織を見た。
「よう来たな、榊原伊織」
伊織の胸がひやりとした。名が、次々に割れていく。偽名が意味をなさぬ。
「……あなたは」
「名乗るほどの者でもない。だが、戸沢半十郎とは古い」
戸沢半十郎。その名を出され、伊織はわずかに身構えを解いた。半十郎と縁があるなら、少なくとも内膳の手先ではない可能性がある。
老僧はお澪へ目を向ける。
「娘よ、怪我はないか」
「はい……ありがとうございます」
老僧は短くうなずき、伊織に言った。
「火事は、証文を焼くためだ。お前が持つ紙切れ一つで、江戸の糸が切れる。だから燃やしたかった。だが燃やしきれなかった」
伊織は懐を押さえた。証文はまだある。
「あなたは何を知っている」
老僧は行灯の火をじっと見つめた。
「知っていることは多いが、言葉にすれば人が死ぬ。江戸はそういう町だ。――まず、あの寺を案内した男の名を聞け」
男は舌打ちした。
「坊主、余計なことを言うな」
「余計なことではない。榊原が生き延びるには、誰の手に乗っているかを知る必要がある」
男はしぶしぶ口を開いた。
「俺の名は、久世新兵衛」
「藩士か」
「元だ。松代の江戸詰にいた。だが、内膳の連中に目をつけられて、追い出された。今は――江戸の底で生きてる」
伊織は新兵衛の手の甲の傷を見た。武家の剣呑な暮らしが刻んだ傷だ。嘘ではあるまい。
「なぜ俺を助ける」
新兵衛は笑ったが、やはり目は笑わない。
「助けてるんじゃねぇ。藩が腐ってるなら、腐ったところを削ぎ落とさなきゃならねぇ。俺は藩に捨てられたが、藩の土まで捨てたわけじゃない」
伊織は黙った。武士の義と、個人の怨み。その両方が混じっている。
老僧が言った。
「今夜のうちに、証文の写しを取れ。原本が奪われても、写しが残れば火は消えぬ」
伊織はうなずいた。理にかなっている。
墨と紙が用意され、伊織は震える指で数字を写し始めた。お澪は隣で灯を支え、老僧は外の気配を聞いている。新兵衛は戸口に立ち、刀の柄に手を置いたまま動かない。
写しが半ばを過ぎたころ、境内の外で犬が吠えた。
次いで、乾いた笑い声。
「坊主の寺に隠れたか。どうりで見つからぬ」
新兵衛の顔色が変わった。
「……来やがった」
伊織は筆を置き、立ち上がる。
戸の外で足音が止まり、戸板がどん、と叩かれた。
「開けろ。御用だ」
老僧が低く言った。
「町方ではない。声が軽い。だが数はいる」
新兵衛が歯を鳴らした。
「御用商人の手下だ。金で動く狐どもだ」
「狐?」
伊織が問うと、新兵衛が短く答えた。
「深川で金を回す連中の合言葉だ。『狐火』――火事場で仕事をする」
伊織の胸に、ひとつの形が浮かび上がった。千鳥屋の火事。狐火。証文。
戸板が再び叩かれる。今度は乱暴で、板が軋んだ。
「開けねぇなら、破るぞ!」
新兵衛が伊織に目配せした。
「裏へ抜ける。寺の裏手に井戸がある。そこから隣の長屋へ抜けられる」
老僧が静かに首を振った。
「遅い。裏にも回っておる。逃げれば追われ、追われれば証文が奪われる」
「ではどうする」
老僧は、伊織の目をまっすぐ見た。
「ここで、一度火を消す。追手の首を取るのではない。名を取るのだ」
「名?」
「狐火を束ねる者の名を聞き出せ。あやつらは金で動く。金の主がいる。その名を得れば、次の一手が見える」
伊織は一瞬迷った。ここで戦えば、寺が血で汚れる。老僧もお澪も危険だ。だが逃げれば、ただ追われ続けるだけだ。
(波が高いなら、波頭を叩くしかない)
伊織は刀を抜いた。冷えた鉄の匂いが、肺の奥まで入る。
「新兵衛、裏を固めろ。お澪は奥へ」
お澪が唇を噛み、うなずいた。
戸が破られた。
雪を踏み砕きながら、三人の男がなだれ込む。頭巾をかぶり、短い槍を持ち、目がぎらついている。町方の捕り物ではない。金で雇われた者の目だ。
「証文を出せ。命は取らねぇ」
先頭の男が言った。
「命を取らぬと言う者ほど、命を軽く見る」
伊織は低く返した。
男が槍を突き出す。伊織は半身になり、柄で槍を払って懐へ入った。峰打ち。男が呻いて倒れる。だが後ろの二人が同時に来た。左右から槍が伸びる。
伊織は床を蹴って後ろへ跳び、柱を背にした。槍は柱に刺さり、動きが止まる。その一瞬――伊織は斬り下ろさず、槍の柄を断ち切った。刃が木を裂き、槍が短くなる。
「な、なんだこいつは!」
二人の顔色が変わる。殺さぬ。だが容赦もしない。相手の動きを奪うだけで十分だ。
そのとき、さらに外から三人が入ってきた。数が増える。伊織は息を吐いた。ここで長くは保たぬ。
だが、老僧が不意に声を張った。
「狐火の主は誰だ! 誰が金を出しておる!」
男たちは一瞬、目を見合わせた。答える義理はない。だが、人は問いに弱い。黙れば黙るほど、心のどこかが揺れる。
伊織はその揺れを見逃さなかった。
倒した男の髪を掴み、顔を上げさせる。
「名を言え」
男は血を吐き、笑った。
「知りてぇか……榊原伊織。お前の名まで割れてんだ。なら俺たちの名なんざ――」
伊織の拳が頬を打った。骨が鳴る。
「狐火の主だ」
男の目が泳いだ。そこへ老僧が静かに近づき、耳元で囁いた。
「言わねば、そなたの家族がどうなるか――金主はそこまで見ておる」
男はびくりと震えた。脅しではない。江戸の闇の現実だ。誰もがそれを知っているから、恐れる。
「……名は……『志摩屋』だ」
「志摩屋?」
伊織が繰り返すと、男は慌てて首を振った。
「違う、違う、志摩屋は表だ。裏の名は……『志摩屋の御用口』……その先は――」
男の言葉が途切れた。
外から、鋭い笛の音がした。短く、二度。合図だ。
男たちの顔色が変わる。
「退け!」
誰かが叫び、侵入者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。まるで、口を割った男を置いてでも去ることが最優先であるかのように。
伊織が外へ出ようとした瞬間、闇の向こうから矢が飛んだ。
ひゅ、と空気を裂く音。
伊織は咄嗟に身を捻ったが、矢は肩口をかすめ、熱い痛みが走った。
次の矢が来る前に、新兵衛が戸口へ身を投げ出し、叫んだ。
「伏せろ! 弓だ!」
闇の中で、何者かが低く笑った気がした。姿は見えぬ。だが射方は確かだ。訓練された弓。町人の腕ではない。
(藩の者か……幕府の者か)
伊織は肩の血を押さえ、歯を食いしばった。矢を放った者は、名を聞き出したことを許さぬ。つまり――志摩屋という名は、要だ。
老僧が静かに言った。
「見えたな。狐火の主は、商いの皮をかぶり、武家の腕で口を塞ぐ。志摩屋はただの入口。奥にいるのは、武家の名だ」
「江戸詰家老か」
老僧は答えなかった。ただ、行灯の火を見つめて言った。
「今宵、名を一つ得た。代わりに、お前の肩に矢が刺さった。これが江戸の取引だ」
お澪が震えながら近づき、伊織の傷に布を当てた。
「ごめんなさい……わたしのせいで……」
「違う」
伊織は短く言った。
「お前の父が命を賭けたものだ。ここで捨てれば、死んだ者が浮かばぬ」
新兵衛が外を窺いながら言う。
「坊主、これ以上ここにゃいられねぇ。次は寺ごと燃やされる」
老僧は淡々とうなずいた。
「その通り。榊原、お前は志摩屋を探れ。だが表を叩くな。表は囮だ。裏へ回れ。志摩屋の出入りを張り、誰が『御用口』を通るか見極めろ」
「御用口……」
「金の出入り口だ。そこを通る者が、糸を引く」
伊織は証文の写しを懐へ入れ、原本はさらに奥へしまい直した。
火事場で狐火が走るように、江戸の闇は、燃えるものを好む。ならば――こちらが燃え尽きぬよう、火の芯を握らねばならぬ。
庫裏を出る前に、伊織は老僧へ頭を下げた。
「恩は忘れぬ」
「恩などいらぬ。借りは必ず返る。それが世だ」
新兵衛が鼻で笑った。
「世の理屈を語る坊主ほど、腹が据わってやがる」
三人は裏門から出た。深川の火事の残り香が、まだ風に漂っている。町は騒ぎ疲れ、灯はまばらだ。だが闇は濃く、目に見えぬ糸があちこちで張られている。
伊織は歩きながら、心の中で名を反芻した。
(志摩屋――御用口――武家の腕)
そして、もう一つ。
矢を放った者の笑い。
あの笑いは、戦場の笑いではない。遊ぶ者の笑いだ。人の命を駒として動かす者の笑い。
榊原伊織は、肩の痛みを押さえ、深川の闇の中へさらに踏み込んでいった。
狐火の名を掴んだ以上、次に燃えるのは――
相手の腹か、こちらの命か。
(第六章につづく)

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