――第三章 影踏みの宿場――
夜が白みはじめるころ、雪はやんでいた。
宿場の屋根には厚く積もった雪が鈍く光り、東の空だけが淡い朱に染まっている。人の気配はまだ乏しく、鶏の鳴く声だけが遠くで聞こえた。
榊原伊織は、血の匂いの残る部屋に立っていた。
刺客の亡骸は、すでに宿の主と下男に頼んで裏手へ運ばせてある。浪人同士の果し合いということにしておけば、深く詮索されることもあるまい。
脇腹の傷は浅かったが、油断すれば旅に障る。布で固く巻き、息を整えた。
(藩の剣……間違いない)
あの踏み込み、刃の返し方。幼いころから体に叩き込まれた型に酷似していた。
密命を受けたのは、つい七日前のことだ。それがもう漏れているとすれば、疑うべき相手は限られる。
神谷内膳。
だが、あの男が直に刺客を放つだろうか。いや、それほど浅慮な人物ではない。ならば――
「お侍さま」
振り返ると、お澪が立っていた。顔色はまだ優れないが、瞳には昨夜とは違う決意の色があった。
「もう発たれるのですか」
「ああ。日が高くなる前に出る」
お澪は少しためらい、やがて言った。
「お願いがございます。わたしを……江戸までお連れくださいませ」
伊織は黙った。
「父の遺した証文は、必ず誰かに届けねばなりません。ですが一人では、昨夜のような者にまた襲われるでしょう」
「それを持つ限り、危険は増す」
「承知しております。それでも参ります」
声音は静かだが、揺らぎがなかった。
伊織はしばらく考えた。密命の途上で女を連れるのは本意ではない。だが証文の内容は見過ごせぬ。もしあれが真であれば、藩を揺るがす大事である。
「……足手まといになるな」
お澪の顔が、ほのかに明るくなった。
「心得ております」
二人が宿場を出たのは、朝霧のまだ残る刻であった。
街道は雪解けの水でぬかるみ、踏むたびに草鞋が重くなる。冬枯れの田畑の向こうに、低い山並みが連なっていた。
しばらく無言で歩いていたが、やがてお澪が口を開いた。
「お侍さまは……本当は、どちらのお方なのですか」
「浪人だと言ったはずだ」
「浪人にしては、背負っておられるものが重すぎるように見えます」
伊織は苦笑した。
「人は皆、何かしら背負っている」
「ですが、お侍さまは逃げておられない」
その言葉に、不意に父の面影がよぎる。
源右衛門もまた、不器用なほど正直に生きた男だった。損を承知で曲がったことを嫌い、そのために禄を減らされても、ただ一言「武士であるゆえ」と言った。
(私は……どうだ)
義のためと言いながら、心のどこかで家族の安寧を願っている。どちらが真か、自分でもわからぬ。
昼過ぎ、二人は小川のほとりで足を止めた。氷の割れ目から、細い水音がする。
お澪が懐から握り飯を取り出した。
「粗末ですが」
「ありがたい」
一口かじると、冷えた体に米の甘みが沁みた。
そのとき、向こう岸に三つの影が現れた。
旅装ではあるが、歩き方が違う。周囲に気を配る目つき――追手だ。
伊織は小声で言った。
「立つな。平然としていろ」
影は橋を渡り、まっすぐこちらへ向かってくる。
「道を尋ねたい」
先頭の男が言った。だが視線は、お澪の帯のあたりに注がれている。
「江戸へ出る近道はどちらだ」
「知らぬな。こちらも旅の身だ」
男はにやりとした。
「ならば、その包みを見せてもらおうか」
次の瞬間、伊織は立っていた。
「断る」
風が止まったような静けさ。
男たちは抜刀した。
橋の上は狭い。三人同時にはかかれぬ。そこが勝機だった。
一人目が踏み込む。伊織は刃を受け流し、膝を払った。男は雪解けの泥に倒れ込む。
二人目が横から斬る。体を沈め、柄で顎を打ち上げる。白目をむいて崩れた。
最後の一人は、明らかに腕が立った。刃が重い。
「何者だ、貴様」
「それを問う前に、名を名乗れ」
「御庭番、とでも言えばよいか」
伊織の胸がわずかにざわめいた。幕府の隠密――その名を騙るだけの度胸か、それとも。
男の太刀筋は鋭く、容赦がない。数合打ち合ったのち、伊織はわずかに間を外し、踏み込んだ。
刃が男の肩を裂く。
男は後ずさり、血を押さえながら笑った。
「もう遅い。証文のことは、江戸でも知れている」
「誰が動いている」
「……知りたければ、深川へ行け」
言い終えると、川へ身を投げた。冬の水が跳ね、すぐに静まる。
伊織は追わなかった。
(深川……)
江戸の中でも、町人と浪人が入り混じる土地だ。金の流れも複雑と聞く。
お澪が震える声で言った。
「幕府まで関わっているのでしょうか」
「わからぬ。だが、ただの横領では済まぬ話だ」
その夜、二人は山裾の小寺に宿を借りた。
老僧は何も問わず、粥を出してくれた。火にあたりながら、お澪がぽつりと言う。
「父は、正しい人でした。だから殺されたのでしょうか」
伊織はしばらく答えなかった。
「正しさは、ときに人を孤立させる」
「それでも、曲げてはならぬのでしょう?」
伊織は火を見つめた。
父の言葉がよみがえる――武士とは、損得ではなく、恥で道を選ぶものだ。
「曲げぬ者がいる限り、世はまだ崩れぬ」
お澪は静かにうなずいた。
やがて寝静まったころ、伊織は一人、本堂の縁に出た。
雲間から月がのぞき、雪を淡く照らしている。
密命はすでに敵に知られ、幕府の影すらちらつく。もし内膳が黒なら、藩そのものが揺らぐ。
(私は、何を守るのだ)
主家か、義か、それとも――真実か。
答えはまだ出ない。
だが胸の奥で、何かが静かに形を変え始めていた。藩に仕える一武士としてではなく、一人の人間として、この不正を見届けねばならぬという思いが。
遠くで、狼の遠吠えが響いた。
江戸は、もう近い。
だがそこは同時に、引き返せぬ境でもあった。
榊原伊織は刀に手を置き、目を閉じた。
その刃が次に向く先は、果たして敵か、それともかつての味方か――まだ誰にもわからない。
(第四章につづく)

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