山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第一章

目次

――第一章 落日の城――

 冬の気配は、まだ暦の上にあるばかりであったが、北から吹き下ろす風にはすでに骨の芯へ沁み入る冷たさがあった。

 信濃国松代藩の外れ、小高い丘に築かれた古城・葛尾城は、夕映えの中に沈もうとしていた。石垣の隙間に生えた枯草が、風にあおられて細く鳴る。その音は、まるでこの城が長年抱えてきた嘆きを、ひそやかに吐き出しているようであった。

 城下では、近ごろ妙な噂が流れていた。藩の財政は底をつき、年貢の取り立ては厳しさを増し、家中では主君の病が重いともいう。だが武士というものは、たとえ足もとが崩れかけていようとも、それを顔に出してはならぬ。表向きは静まり返り、ただ冬支度だけが粛々と進められていた。

 その日、城の裏手にある弓場で、一人の若侍が黙々と的を射ていた。

 名を、榊原伊織といった。二十五歳。百五十石取りの小身の家に生まれたが、剣術、弓術ともに人並み以上で、ことにその沈着な気性は、年寄役の目にもとまっていた。

 弦音が、ぴん、と澄んだ。

 矢は過たず、的のほぼ中央に突き立った。

「見事だな、伊織」

 振り向くと、弓場の入口に老人が立っていた。藩の軍学師範、戸沢半十郎である。六十を越えてなお背は伸び、白い眉の下の目は油断なく光っていた。

「まだまだでございます」

 伊織は頭を下げた。

「風を読み違えました」

「読み違えてあれか。若い者は末恐ろしい」

 半十郎はそう言いながら歩み寄り、的をしばらく眺めたあと、ふと声を低めた。

「伊織、おまえに役目が回るやもしれぬ」

「役目、でございますか」

「うむ。まだ内々のことだがな……城中が騒がしい」

 それ以上は言わず、老人は口をつぐんだ。だが伊織には、それだけで十分であった。近ごろ上役たちの顔つきが険しいこと、使者の出入りが増えていること、すべて思い当たる。

「いずれ呼び出しがあろう。それまで軽々しく動くな」

 半十郎は言い残し、風の中へ去っていった。


 榊原家は、もとは甲斐武田家に仕えた足軽大将の末であったという。だが幾度もの主家替えを経て、いまでは名ばかりの家柄である。父の源右衛門は実直な男であったが、融通が利かず、上役に逆らって禄を減らされたこともあった。

 その父が三年前、流行り病で急死してから、家の重みはすべて伊織の肩にかかった。

 母のお滝は病みがちで、妹の志乃はまだ十七。縁談の一つも整えてやらねばならぬ。

 夕刻、家へ戻ると、囲炉裏の火が赤々と燃えていた。

「お帰りなさいませ」

 志乃が立ち上がる。どこか儚げな面差しは母に似たが、瞳には強い光があった。

「母上はどうだ」

「今日はお加減がよろしいようです。先ほどまで針仕事を」

 奥を見ると、お滝が静かに微笑んだ。

「伊織、寒かろう。手を温めなさい」

 伊織は火にかざした手のひらを見つめながら、不意に、守るべきものの重さを思った。武士の務めとは、主君に命を捧げることだと教えられてきた。だが、この小さな家を支えることもまた、逃れられぬ務めではないか。

「兄上、なにかおありですか」

 志乃が問う。

「いや……まだ何も」

 そう言いながら、胸の奥にわだかまる予感を振り払えなかった。


 三日後、登城の命が下った。

 案内されたのは、普段足を踏み入れることのない奥書院である。障子を隔てた向こうに、藩の家老・神谷内膳が座していた。

 内膳は五十がらみ、色の浅黒い、能面のように表情の動かぬ男であった。

「榊原伊織、面を上げよ」

「はっ」

「そちは、戸沢半十郎の推挙と聞く。剣は立ち、口は堅く、情に流されぬとな」

 伊織は答えず、ただ畳を見つめた。

「単刀直入に言う。そちに江戸へ下ってもらう」

 思わず顔を上げた。

「江戸、でございますか」

「うむ。藩の命運に関わることだ」

 内膳は声をさらに落とした。

「実は……御家中に、密かに幕府へ内通している者がおる」

 伊織の背筋に、冷たいものが走った。

「証はまだ薄い。だが放っておけば、お家は改易も免れまい」

 改易――その二字は、武士にとって死にも等しい。

「江戸詰の重役の中に、怪しい動きがある。そちには供もつけぬ。浪人を装い、探ってまいれ」

「なぜ、私めに」

「小身ゆえ、かえって目立たぬ。それに……」

 内膳は一瞬だけ、視線を柔らげた。

「榊原家は代々、裏切りとは縁遠い」

 それは誉れであったが、同時に重荷でもあった。

「承知、いたしました」

 言葉は自然に出た。だがその瞬間、母と妹の顔が胸をよぎる。

 内膳は続けた。

「この役目、命を落とすやもしれぬ。辞退しても咎めはせぬ」

 伊織は、静かに首を振った。

「武士として生まれました以上、逃げる道はございません」

 内膳は小さくうなずいた。

「出立は七日後だ」


 帰路、空には早くも雪が舞いはじめていた。

 城の石垣に白いものが触れ、すぐに消える。そのはかなさが、なぜか胸に迫った。

(戻れぬ旅になるやもしれぬな)

 ふと、そんな思いがよぎる。

 家へ着くと、伊織はすべてを母に打ち明けた。お滝はしばらく黙っていたが、やがて言った。

「よいか、伊織。武士は己のために生きるのではない。だが……」

 そこで言葉を切り、弱々しく笑んだ。

「必ず、生きて帰りなさい」

 志乃は、声もなく袖で目を押さえていた。

「泣くな。まだ死ぬと決まったわけではない」

「でも……兄上は、昔から無茶をなさる」

 伊織は苦笑した。

「無茶ではない。務めだ」

 その夜、囲炉裏の火が落ちるまで、三人は取り留めのない話を続けた。幼い日のこと、父の思い出、春になれば咲く庭の梅のこと――どれも、失いたくないささやかな日常であった。


 出立の朝。

 空は抜けるように晴れていた。雪をいただいた遠山が、青く光っている。

 門口で、母が小さな守り袋を差し出した。

「おまえが生まれたとき、寺からいただいたものです」

「母上……」

「武運など祈りはしない。ただ、人として恥じぬ道を選びなさい」

 伊織は深く頭を下げた。

 志乃は最後まで気丈に笑っていたが、伊織が背を向けたとき、小さく嗚咽が漏れた。

 振り返らなかった。振り返れば、足が止まると知っていたからだ。


 城下を出ると、街道はすぐに冬枯れの野へ続いた。旅姿の伊織は、もはや一介の浪人にしか見えぬ。

 だが胸の内には、榊原の名と、藩の行く末が重く横たわっていた。

 峠にさしかかったとき、ふいに背後から馬の蹄の音がした。

「待たれよ!」

 振り向くと、一騎の武士が駆け寄ってくる。

 戸沢半十郎であった。

「これを渡し忘れた」

 差し出されたのは、短い脇差である。

「わしが若いころ使っていた。いざというとき、迷うな」

「師範……」

「伊織」

 老人はまっすぐ見据えた。

「世は移ろう。武士の在り方も、いずれ変わるやもしれぬ。だがな――どんな世になろうと、人の義だけは捨てるな」

 伊織は、刀を受け取り、深々と礼をした。

 顔を上げたとき、胸の中の霧がわずかに晴れた気がした。


 峠の頂に立つと、故郷の城が遠く霞んで見えた。

 あの城を守るため、自分はどこまで行けるのか。

 風が吹き抜ける。

 伊織は草鞋の紐を締め直し、江戸への長い道へ足を踏み出した。

 そのとき彼はまだ知らなかった。

 この旅の果てに、己の信じてきた武士の道そのものを問い直す出来事が待ち受けていることを。

 そして、裏切りは思いもよらぬところから芽吹いていることを。

 冬空の下、榊原伊織の影は細く伸び、やがて街道の彼方へ溶けていった。

(第二章につづく)

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