山岡荘八を模倣した小説『昭和の嵐 ー東條英機伝ー』第十一章 歴史の法廷・最終章 記憶のかたち

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第十一章 歴史の法廷

 昭和が終わり、平成が始まり、さらに令和の世が訪れてもなお、

 一人の男の名は、歴史の彼方から人々の口に上ることがある。

 東條英樹——

 彼は、戦争を導いた張本人として語られ、

 また一方では、国家の犠牲者、あるいは忠臣としても扱われてきた。

 その評価は、今なお定まってはいない。


 戦後、日本は焦土のなかから立ち上がった。

 GHQの占領政策のもと、民主化と復興が進み、

 かつての軍人や戦犯とされた者たちは表舞台から退いた。

 東條英樹の名も、長く歴史の教科書に断罪された戦争指導者として記されるのみであった。

 だが、時代が流れ、戦争を知らぬ世代が国を動かすようになると、

 その評価にわずかな揺らぎが生じる。


 ある日、一人の歴史学者がこう記した。

「東條英樹は、確かに戦争を推進した。

 だが、彼のみを責めることで、我々は自らの責任を見落としてはいないか。

 昭和という時代そのものが、彼を必要としたのではないか」

 それは、あくまで学術の立場からの問いであったが、

 この発言は一部に大きな波紋を呼び、保守と革新のあいだで激しい議論を巻き起こした。


 一方、英樹の家族もまた、戦後の厳しい世を生き抜いていた。

 長女・和子は、父の死後、静かに東京の片隅で暮らしていた。

 決して父を英雄視することなく、かといって否定もせず、

 ただ、家族の歴史として静かに語り継いだ。

「父は、戦争に負けたのではなく、時代に敗れた人でした。

 でも、家族にとっては、やっぱり優しい人だったんですよ」

 そう言って微笑む和子の姿に、記者は筆を止めた。

 東條英樹の「人間としての顔」は、意外にも身近で、あたたかだった。


 靖国神社には、今も英樹の名が刻まれている。

 そのことに賛否は分かれる。

 「戦犯の合祀を認めぬ」とする外国の抗議もあれば、

 「国に殉じた者として当然」とする声もある。

 ある夏の日、老いた元兵士が靖国の英霊に手を合わせ、呟いた。

「閣下……あの時、あなたに従わなければ、

 わしらは国を失っていたかもしれん。

 だが、家族を失った者もいた。

 どちらが正しかったかは、わしにも、もうわからん……」


 その言葉には、戦後世代には見えぬ葛藤と複雑さが滲んでいた。

 責任とは何か。

 正しさとは何か。

 そして、戦争とは、個人で語れるものなのか。


 平成の終わり、東京大学にて一つの講義が行われた。

 講師は、戦争史を専門とする若き教授。

 テーマは「東條英樹と責任の思想」であった。

「彼は、裁判で『国のために行動した』と述べた。

 だが、『国のため』とは何か?

 国家は民を代表しているのか、それとも権力者の意志か?」

 学生たちは、真剣なまなざしでノートを取り、質問を投げかけた。

「戦争指導者が“正義”を信じていたとしても、それは正義になるのでしょうか?」

「裁かれる者の“誠実さ”は、免罪符になるのですか?」

 問いは尽きず、講義は熱気に包まれた。

 東條英樹という存在は、七十年以上を経ても、なお問いを生み出し続けていた。


 一方、国外においても再検証の動きが始まっていた。

 アメリカの大学で発表された一冊の論文は、

 東京裁判における「戦勝国による一方的正義」の構造を批判的に分析し、

 その中で東條の弁論を「極めて一貫した思想的自己認識の表出」と評価した。

 それに対し、反論も当然あった。

「思想が一貫していても、それが加害の体系であれば評価には値しない」

「被害者の視点から語らねば歴史は繰り返される」

 議論は続き、定まることはなかった。

 それこそが、歴史が“生きている”証でもあった。


 そして、令和七年。

 東條英樹の死後八十年を記念して、一冊の伝記が刊行された。

 その名も——『東條英樹 —信と孤独の昭和—』

 著者は、かつて裁判資料を読み込んだ法学者であり、

 彼はあとがきにこう記していた。

「本書は東條を弁護するものでも、断罪するものでもない。

 ただ、彼という“人間”がいたことを記録する試みである。

 人は、国家に命じられた時、どこまで自由でありうるのか。

 その問いに、読者がそれぞれの答えを見出してくれれば、本望である」


 かくして、東條英樹という男は、

 再び時代の表舞台へと、静かにその姿を現しつつあった。

 彼は、勝者にも、敗者にも、ならなかった。

 ただ、国家という幻想に殉じた一人の人間として、

 今も日本の歴史の奥深くで、問いかけている。

——「あなたは、いま、誰の命令で生きているのか」と。

(つづく)

最終章 記憶のかたち

 令和の初めの夏——

 東京・千代田区。

 緑に包まれた靖国神社の境内には、汗ばむ陽射しの中、

 帽子を手に、背筋を伸ばした老婦人の姿があった。

 彼女の手には、一輪の白い菊。

 名を、東條和子。

 東條英樹の長女であり、父を“戦犯”として失い、

 そして、戦後の荒波を静かに越えてきた人であった。


 和子は、父の名が刻まれた霊璽簿の前で目を閉じた。

 何かを問うでもなく、何かを嘆くでもなく、

 ただ静かに、懐かしむように口を開いた。

「お父様、あれからもう八十年……。

 みんな、お父様のこと、色々言いますけど……

 本当のお父様のことを知ってる人は、もう、誰もいません」

 その声は、神域の風にかき消されるように、ふと消えた。


 平成の終わりから令和にかけて、

 日本社会は“記憶”の整理を迫られていた。

 戦後七十年を超え、戦争体験者の高齢化とともに、

 歴史の語り手が次々とこの世を去った。

 かつての戦争は、現実の「記憶」から、

 次第に「記録」や「想像」の領域へと移り変わりつつあった。

 そのなかで、東條英樹という人物は、

 再び「語られる存在」としてよみがえっていた。


 ある高等学校の歴史副教材には、こう記されている。

「彼は“昭和の独裁者”と呼ばれ、戦争責任を問われ処刑された。

 しかし同時に、“国家の忠実な僕”としても描かれる。

 この二面性をもって、歴史は一つの判断を下さない。

 読者は、自ら考えねばならないのである」

 若者たちは、その文章を読みながら、何かを感じ取ろうとしていた。

 誰もが迷いながら、答えを模索していた。


 静岡の一地方新聞に、ひっそりと掲載された一通の投書があった。

 書き手は、元自衛官の老父。

「私は、かつて東條英樹という名を憎んでいた。

 父を戦争で亡くしたからだ。

 だが今は、あの時代にあの判断を下すことの重さに、少しだけ想像が及ぶ。

 誰かを断罪することは簡単だが、理解する努力こそ、

 平和を守る最初の一歩ではなかろうか」

 その文面は、SNSで静かな共感を集めた。

 時代が変わっても、記憶は人々の心に生きていた。


 ある大学の戦争史シンポジウムでは、

 パネルのひとつに「東條英樹の遺産をどう扱うべきか」が設けられた。

 学者、学生、市民が集い、議論は白熱した。

 ある学生が手を挙げて言った。

「彼は責任者だったと思います。でも、

 それを“ただの悪人”として切り捨てていいのか疑問です。

 誰かが、あの時代に責任を取ることを引き受けた。

 それをどう考えるかが、今を生きる私たちの課題では?」

 その発言に、会場は静まりかえり、

 やがて大きな拍手が湧き起こった。


 そして、ある記念館——

 それは、昭和史を扱う国立施設の一角に設けられた特設展だった。

 展示の中心には、一枚の写真。

 東京裁判の法廷に立つ東條英樹の姿があった。

 展示パネルにはこう記されていた。

「この男が何を思い、何を信じ、そしてどこで誤ったのか。

 我々は、その問いを未だ終えることができていない」

 その前に立ち尽くす来館者の多くが、

 ただ黙ってその写真を見つめていた。


 戦後八十年——

 東條英樹は、英雄でもなく、悪魔でもなく、

 「人間」として歴史に戻ってきた。

 国家というものに殉じ、

 時代のうねりに抗えず、

 最後にはその全責任を一身に背負って散った人。

 その生涯は、いまや「日本人とは何か」を問うための鏡となっていた。


 和子は靖国の帰り、神田の古書店街に立ち寄った。

 そこに、父の遺稿をまとめた一冊が、静かに並んでいた。

 書店の若い店主が声をかける。

「お客様、それ、なかなか読ませますよ。

 文章が、まっすぐで、意外なほど静かなんです」

 和子は、微笑みながら応えた。

「そう……あの人、怒ると怖かったけど、

 本当は、静かな人だったんです」

 その目には、涙ではない、

 懐かしさと穏やかさが宿っていた。


 昭和は、終わった。

 だが、そこに生きた人々の記憶は、

 今も、私たちの問いかけに答えてくれる。

「なぜ、あの時代があったのか?」

「我々は、同じ過ちを繰り返さないか?」

「責任とは、いつ、誰に、どこまであるのか?」

 東條英樹という名は、

 その答えのすべてではない。

 しかし、彼を知ることなくして、

 我々は、昭和を、戦争を、そしてこの国を語ることはできない。


 そして、記憶は続く。

 彼が最期に遺した言葉——

「我が死、祖国に捧ぐ。

 百年の後、この行いの是非、明らかならんことを」

 その百年は、やがて訪れる。

 そのとき、私たちはどのような言葉で、

 東條英樹を、昭和を、語るだろうか。

 その答えは、今を生きる我々一人ひとりのなかにある。

(完)

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