山岡荘八を模倣した小説『昭和の嵐 ー東條英機伝ー』第三章 参謀の眼・第四章 満洲の風

目次

第三章 参謀の眼

 大正三年、春。

 東京市麹町、陸軍大学校の門前に、ひとりの青年将校が姿を現した。黒革の軍靴を鳴らし、軍帽の庇を低くかぶり、その背筋は直線のごとくに伸びていた。

 ——東條英樹、三十一歳。

 既に少佐の階級を帯びていた彼は、若き参謀候補として、この日のために研鑽を重ねてきた。陸大入校とは、帝国陸軍において将来を約束された者のみが許される、いわば「選ばれし者」の証であった。

 大正日本は、まだ穏やかな時代であった。

 日露戦争の栄光を経て、大陸に確たる橋頭保を築いた日本帝国は、英仏露との協調の中で外交を展開しつつあった。だが、その裏では、対中進出の野望と、内地における社会主義運動の胎動とが、確実に時代を動かしつつあった。

 ——陸大の講堂には、厳格な空気が漂っていた。

 英樹の机の上には、『独逸軍制講義』、『日露戦史』、『山砲兵戦術』、そしてプロイセン参謀本部の原理に関するドイツ語の文献が積まれていた。彼はそれを一冊ずつ、あたかも経典を読むように読破していった。

 ある日、戦術研究の発表で、英樹は敵中突破による包囲殲滅策を論じた。参謀本部から派遣された教官が言った。

「君は、全体戦略よりも、人的士気の統制に重きを置いている。これはプロイセン流とは異なるが、興味深い」

 英樹はただ一礼し、静かに応じた。

「兵は、機械に非ず。士魂に依りて戦場を制するものと心得ます」

 この発言が、のちに彼の軍政観、そして国家統制思想の基礎となる。

 陸大生活の三年は、英樹にとっても苦難に満ちたものであった。論文提出と戦術図の作成、深夜の戦例研究と地形解析。彼は病を得ることも、怠ることもなく、ただ黙々とそれに耐え、遂には卒業成績上位者として、参謀本部への配属を命じられた。

 その内示が下された夜、英樹は一人、陸大の校庭に立ち、満月を仰いだ。

 その胸にあったのは、栄誉でも野心でもない。

 ——ただ、使命。

 自らの身を以て、国家の礎たらんとする使命であった。

 翌年、英樹は満州視察団の一員として、再び大陸に渡る。

 この視察行こそ、彼の運命を決定づける契機であった。

 大連、旅順、奉天、そして長春——。かつて日露戦争の激戦地となったそれらの地を、英樹は丹念に踏査した。だが、単なる地形調査に留まらず、彼は現地の鉄道施設、軍政機構、植民政策の実態をも調べあげた。

 あるとき、南満州鉄道の監督官との会談で、英樹はこう述べた。

「兵を持つより、鉄路を持つことが支配であると知るべきです」

 この一言に、傍らの幕僚が顔をしかめた。

 だが英樹は言を続けた。

「鉄路とは、民を運び、資を運び、思想を運ぶもの。これを制するは、銃剣ではなし得ぬ」

 この視察の成果は、帰国後「満洲防衛戦略意見書」としてまとめられ、参謀本部に提出された。報告書は後年、関東軍の行動指針の先駆となり、一部では「東條文書」として密かに複写され、将来の構想に利用された。

 ——このころから、東條の名は、陸軍内部で次第に重みを持ち始める。

 彼は現場将校として部隊に根を張る一方で、時に軍政、時に情報部門の改革にも関与し、その剛直なる性格と、倫理に基づく統治理念によって、「小官なれど侮れぬ」との評を得るに至った。

 だが、その一方で、彼の非妥協的な姿勢は、柔軟性を欠くとの批判をも招いた。

 特に陸軍内の派閥抗争、すなわち統制派と皇道派の対立が顕在化するなかで、東條は表立っては派閥に属さず、あくまで「法と制度の支配」を掲げて中立を装ったが、実際には、軍政機構の統一を是とする統制派に思想的に近い立場をとっていた。

 その立場は、次第に彼を、軍の「制度と統治」の専門家として位置づけることとなる。

 大正十二年、関東大震災。

 東京が炎上し、帝都が阿鼻叫喚の渦に包まれるなか、英樹は直ちに軍部の命を受け、治安維持部隊の一員として出動する。

 彼は冷静に部隊を指揮し、過激派の騒動鎮圧と物資配給の整理にあたった。だがその一方で、混乱の中における朝鮮人・社会主義者に対する過剰取締の是非について、内部で意見書を出し、「法と秩序は、非常時にこそ厳格に守らるべし」と主張した。

 このとき彼の中で、ひとつの信念が確立する。

 ——国家は情に動かず、法に拠らねばならぬ。

 そしてその法は、軍の内にも外にも、統一して貫かれるべきである。

 この「秩序至上主義」とも言うべき東條の信念が、のちの内閣総理大臣としての冷厳なる統治へとつながっていくのである。

 だが、彼はまだ若かった。

 このとき三十六歳。道半ばにして、東條英樹は、まだ「将」とも「統帥」とも呼ばれてはいなかった。

 彼はただ一人の軍人であり、戦略家であり、そして国家の行く末を、沈黙のままに見つめる思索者であった。

 その眼差しの先にあったものは——

 まだ誰も知らぬ、昭和という嵐であった。

(つづく)


第四章 満洲の風

 昭和六年九月十八日。

 夜の帳が降り、満洲・柳条湖を轟音が引き裂いた。

 爆発——。

 南満洲鉄道の線路が一部破壊され、それを口実に日本軍が中国軍への攻撃を開始したのである。

 この、いわゆる「柳条湖事件」は、やがて「満州事変」と呼ばれ、帝国日本の大陸進出の分水嶺となる。

 だが、そのわずか数週間前、英樹は参謀本部の命を受け、関東軍憲兵隊司令部への転属を命じられていた。

 階級はすでに中佐。

 年齢は四十代に入っていた。

「関東軍……か」

 東條英樹は命令書を静かに巻き、深々と一礼して私室へ戻った。

 机上には『孫子』『ニーチェ全集』『統帥綱領』が整然と並び、その横に置かれた日記帳に、彼は短く記した。

「ここより、国家の命運に近づくこととなる」

 それが、彼の運命を決定づけることになるとは、この時まだ誰も知らなかった。


 関東軍——。

 その存在は、日本陸軍の中でも特異な地位を占めていた。

 元来は南満洲の利権を防衛するために設置された駐屯軍であったが、日露戦争以降、大陸政策の尖兵として、時に中央の指示すら無視し独断専行する軍閥として知られていた。

 特に昭和初期、石原莞爾と板垣征四郎という異能の将校によって、独自の対中政策と軍事行動が構築されつつあった。彼らは大陸における「満州国」建国を視野に、天皇・内閣の統制を超えた行動を準備していたのである。

 ——英樹はその中に、突如として放り込まれた。

「君が東條か。話には聞いておる。陸大首席、参謀本部、内地治安の統制……いかにも真面目すぎる」

 そう言って英樹を迎えたのは、関東軍参謀副長・板垣征四郎であった。

 野性味を湛えた眼差しと、豪放磊落な物腰。

 それは、東條のような律義な人物とは対極にある性格であった。

 「国家のため、秩序のため」という信念に生きる英樹にとって、関東軍の空気は異様であった。

 上意下達の常識が通用せず、各将校がまるで国家の一機関であるかのように語り、動いていた。

「ここでは、天皇の詔勅より、時局の機先が優先される」

 あるとき石原莞爾がそう言った。

 彼の構想する「世界最終戦争論」は、東條にとっては空理空論にしか映らなかった。

「軍人とは現実に生きねばならぬ。観念に生きるは学者の業だ」

 東條は心中でそう吐き捨てたが、決して表には出さなかった。

 やがて柳条湖事件が起こり、事変は現実のものとなった。

 現地の中国軍はあっけなく潰走し、わずか数日で奉天・長春が陥落した。

 満州は日本軍の実効支配下に置かれ、満洲国建国の機運が高まっていく。

 この時、英樹は憲兵司令部として、軍紀の維持に全力を尽くしていた。

 略奪、暴行、報復……。

 兵たちの心は高揚し、規律は緩んでいた。

「我らは占領軍ではない。秩序の守護者である。私刑は許さぬ。軍紀を乱す者は容赦なく処断する」

 東條の怒声が、司令部の空気を震わせた。

 彼は、兵卒が現地人を殴打した事件では、その場で査問を行い、即日帰国処分とした。

 将校が商人から私物を巻き上げた際には、自らが現地に赴き、謝罪と賠償を行った。

「我らが文明を背負う者として、大陸に秩序をもたらさねば、帝国の正義は地に落ちる」

 ——そう語る東條の姿は、一部の将兵からは「憲兵あがりの堅物」として疎まれたが、他方で「武人の中の官人」として、密かに敬意を集めてもいた。

 ある夜、板垣が言った。

「東條、君のような男が、我らを裁く日が来るかもしれん」

 英樹は答えなかった。

 ただ、満州の広漠たる夜空を仰ぎ、沈黙のまま星を見ていた。


 翌昭和七年、満洲国建国が宣言される。

 溥儀が皇帝として即位し、日本は傀儡政権の裏側からこれを支える体制を整える。

 東條はこのころ、憲兵司令から軍務局へと転じ、行政と警察機構の整備に関与することとなった。

 ——国家の枠組みを、ゼロから造る。

 それは、東條のような秩序至上主義者にとって、ある意味、理想郷でもあった。

 軍と民、皇帝と議会、教育と情報。

 彼は徹底して法と制度による支配構造を作り上げようとし、現地民の言語・習慣・統治意識まで記録に取り、法典の草案にも関与した。

 このとき彼が残した手記がある。

「大東亜に秩序をもたらすとは、剣ではなく律法の支配にあり。

 だが、それを可能とする剣を持たぬ者が、語るに足らぬ理想を抱いてはならぬ。

 我、剣を持ち、そして律法を立てん」

 ——この思想こそ、のちに「統制国家・東條体制」と呼ばれる政治の出発点であった。

 だが同時に、英樹の中には、ひとつの暗い影も芽生えつつあった。

 それは、「法の名を借りて、己が秩序を強いることは、果たして正義なのか」という問いであった。

 満洲の冬は長く、暗い。

 雪に閉ざされた哈爾濱の街に立つとき、英樹の脳裏には、かつて母が語った言葉がよぎった。

「力は使うためにあるのではなく、抑えるためにこそ授けられるものよ」

 彼はその夜、一冊のノートにこう書き残している。

「己が信ずる正義が、万人にとって正義たりうるか——。

 それを問うてはならぬと知りつつ、なお、心のうちで問い続ける我がある」

(つづく)

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