第一章 杉の香かおる幼時
明治十一年七月三十日、東京市麻布區飯倉町——。
蝉時雨が降る夏の午後、陸軍大学校教官・東條賢藏中佐の屋敷に、ひとりの産声が高らかに響いた。長男である。
「おぎゃあ——おぎゃあ……」
母・東條やゑが汗にまみれながらも安堵の笑みを浮かべる。その傍らに、産婆の声が慎ましく響いた。
「丈夫なお子でございます」
このとき生を受けた男児こそ、後の昭和の激動を一身に引き受け、遂には東京裁判の法廷に立ち、極東の嵐の象徴ともなる、東條英樹その人である。
屋敷の裏手には小さな庭があり、初夏に植えられたばかりの杉の若木が、かすかに香りを放っていた。やがてこの杉は、英樹の少年期にわずかな憩いを与える場所ともなろう。だがその未来を、誰ひとり知る由はなかった。
東條家は、代々武士の家系に連なり、父・賢藏は明治の新政府にあって軍制確立の先駆をなした人物である。幼き英樹は、すでにその父の背中を追うかのように、軍人としての道を運命づけられていた。
英樹が言葉を覚え、歩みを始めるころには、明治日本もすでに国家としての体裁を整え、文明開化の光と影が混在する中にあった。赤煉瓦の建物が市中に建ちはじめ、人力車と馬車が交差する雑踏のなか、少年英樹は静かに成長していく。
ある日、父・賢藏は、英樹を膝にのせ、真剣な面持ちで言った。
「お前は軍人の子だ。人の上に立つ者は、まず己を律せねばならぬ。学問と武道、その両輪を以て、国を支える礎となるのだ」
その声は柔らかくも厳しさを帯び、少年の心に深く刻まれた。英樹は幼心に、「己を律する」とは何かを問うた。それが彼の生涯を通じての主題となる。
十歳を迎えるころ、英樹は近隣の少年たちの中でもひときわ目立つ存在であった。無駄口を叩かず、常に姿勢正しく、礼を重んじ、読書に耽る時間を好んだ。父の書棚から抜き取ったのは、山鹿素行の『中朝事実』、佐藤一斎の『言志四録』、そして陽明学の諸書であった。徳と義に関する一節一節を、彼は写本にして書き写した。
ある年の春、英樹は病床の祖母に湯を運び、毎朝欠かさず床前に座していた。母・やゑがその姿を見て涙をこぼしたとき、賢藏は静かに呟いた。
「この子は、武士の血を継いでおる」
だが、武士の道とは、時代の中で変質を余儀なくされる。明治の日本は、欧米列強に伍すため、軍備拡張と富国強兵に邁進していた。陸軍士官学校、海軍兵学校、帝大法科——。国家は次代の担い手を選別し、育てんとした。
英樹が十三にして士官学校への志を口にしたとき、父は一言も反対せず、むしろそれを当然のことと受け止めた。
「お前には血脈と意志がある。だが、それだけでは真の軍人とはなれぬ。世に生きる者として、民の痛みを知り、国の行く末を見通せ。そうしてこそ、忠義は真価を発する」
それからの日々、英樹は水のように知識を吸い、火のように鍛錬に励んだ。体は痩せていたが、眼光は鋭く、常に遠くを見据えていた。道場では竹刀を振るい、書院では筆を走らせた。
十五の春、彼は陸軍幼年学校に入学を果たす。
その入学式の朝——。
東京の空は青く澄み、桜がほころびかけていた。母・やゑが手ずから縫った袴をつけた英樹は、門の前で静かに一礼した。そして父に向かい、低く頭を垂れる。
「行って参ります」
父は無言でうなずき、背を押した。その手にはかすかな震えがあったが、それを英樹は感じなかった。ただ、自らが一つの道に足を踏み入れたことを、重く受け止めていた。
それが、東條英樹の、軍人としての第一歩であった。
このときすでに、彼の背には帝国の運命が乗りかけていた——。
(つづく)
第二章 士官たるの道
明治二十九年、春。
陸軍幼年学校・竹橋分校の門をくぐる少年東條英樹の面差しには、年端もいかぬ者のそれとは思えぬ、沈着な覚悟が宿っていた。胸には父・賢藏の言葉、「己を律する者、軍を律す」の一節が刻まれていた。
当時の幼年学校は、実に苛烈であった。
軍規、礼法、隊列行進、そして明治天皇の勅語に基づく忠誠教育。それらは、少年らしき面影を一掃せんとばかりに、若き心身を鍛え抜いた。しかもそれを叩き込む教官らは、皆、征韓・西南の戦役を潜り抜けた歴戦の士である。荒々しく、しかして理路整然たる指導のもと、英樹は一言の泣き言も漏らさなかった。
軍靴を鳴らして校庭を走る。木剣を手に朝夕稽古に励む。教室では『兵制大意』や『戦術綱要』の書をひもとき、深夜まで復誦を重ねた。
が、その姿は常に静かであり、喚くことなく、眉ひとつ動かさぬまま、ただ学び、ただ鍛えた。
同房の士童らは、やがてこう呼んだ。
「鉄面の東條」
その異名に英樹は微笑まなかった。だが内心では、「人に信を得るとは、顔にあらず行いにて示すものなり」と心に記していた。
——かくて三年が過ぎた。

明治三十二年、英樹は陸軍士官学校への進級試験に首席で合格する。すでに陸軍内では、「英樹、父に劣らぬ器なり」との評判が、少壮の将校らのあいだで囁かれていた。
そのころ、日本は日清戦争に勝利し、台湾の植民地経営を進めつつあった。だが勝利の陰に、三国干渉の屈辱があり、国民の間には不穏な気流が漂い始めていた。
「国力を挙げて、再び列強に伍すべし」
それが明治政府の国是であった。
士官学校では、戦術と兵学に加え、帝国憲法、ドイツ式の参謀理論、地政学といった、当時最新の軍学が採り入れられていた。英樹はことさら法律と政治思想に関心を示し、なかでも山県有朋の国防論を繰り返し読み、「軍人とは剣をもって国策を体現するものなり」との認識を深めていく。
同級生の中には、「それでは軍人が政治をするということになるではないか」と、揶揄する者もあった。だが英樹は、あくまで真顔で言い返した。
「軍は政治に従う。されど、政治に非ずして国を滅ぼすとき、剣を抜くもまた軍人の本懐であろう」
その言葉に、教官すら言葉を失ったという。
——士官学校の三年間を終え、明治三十五年。
東條英樹は、少尉任官の辞令を受け、第一歩を軍籍の中に記すこととなる。配属先は第十五連隊。これが、彼にとって初の実地部隊であり、真の意味での「軍人東條英樹」の誕生の刻であった。
その年の冬、父・賢藏のもとに、英樹が書き送った手紙がある。
「御父上。私、初陣を迎えるが如き心持にて、日々兵を導いております。軍務は厳しきことながら、これこそ男児の道と心得ます。御恩に報ゆるは、唯ひとえに命をもってしてのみかと存じ奉り候」
その文面に、賢藏は長く黙し、やがて静かに言った。
「この子は、もう戻らぬ」
父の言わんとしたのは、英樹が単に家を出て自立したという意味ではない。彼がもはや、「国家に身を捧げる」道を選び、私情を捨てたことを悟ったのである。
明治の末、日本は急速に列強との対立姿勢を強め、やがて日露の雲行きが怪しさを増していく。
その折、英樹は将校の教育旅行として、朝鮮および満州方面を訪れる機会を得た。鉄道敷設、砲台構築、現地の軍政制度を視察し、その国境線の緊張感を肌で感じ取った。
「この地を制せざれば、日本の安全は無きに等し」
そう記した英樹の報告書は、当時の大本営幕僚の目に留まり、若干二十代半ばにして、英樹は陸軍大学校進学候補者として内定されることとなる。
その栄誉を受けた夜、英樹は静かに父母の仏壇に手を合わせた。すでに母・やゑは前年、肺病にて没していた。少年の日、枕辺に立ち湯を持ち寄った姿を、英樹は心に浮かべていた。
母の死は泣かぬことで送った。軍人たる者、悲しみもまた内に収める。だが、その奥底には、ふるえるような愛惜が、確かに燃えていた。
やがて年号は明治から大正へと変わる。
天皇崩御の大喪に際し、英樹は整然とした歩調で儀仗兵として葬列に加わった。その行進の中で、彼は自らの胸に語りかけた。
「明治の遺志、今より我らが継ぐ。大正の世も、乱れなきように」
そうして、彼の士官としての第一期は終わり、次なる段階——帝国の中枢たる参謀本部への門が、静かに開かれつつあったのである。
(つづく)
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