司馬遼太郎を模倣した小説『蒼穹の翼ー山本五十六伝ー』第十四章

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第十四章|沈黙の前線

 昭和十七年九月。

 ソロモンの海に、乾いた焦げたような風が吹いていた。

 山本五十六は、ラバウルにいた。

 連合艦隊司令長官たる者が、司令部をトラック諸島から南下させるなど、常識ではあり得なかった。

 だが、彼は、己の目で戦場を見ねば気が済まぬ男であった。

 基地に降り立つと、まず鼻をついたのは、腐臭だった。

 兵舎の裏手には、処置されぬ遺体の一部が、密かに積み上げられていた。

 兵たちは、目を合わせようとしなかった。

 皮膚病に罹った者、腹を下し泥水を飲む者。

 すでに兵士とは呼べぬほどやせ細った青年たちが、湿気と蚊の中で目を泳がせていた。

 「五十六閣下、よくぞ……」

 駆け寄ってきた陸軍中佐が頭を下げる。

 「いま、ガ島は……地獄です」

 その声には、説明の余地がなかった。

 ――地獄。

 五十六の脳裏に、日露戦争の最前線がよみがえった。

 だが、今目の前にあるこれは、それよりも陰鬱だった。

 そこに「大義」も「勝利の希望」も、ない。

 ただ、飢え、病、そして報われぬ死があった。

 滑走路の完成を阻止するために、空母と航空隊は次々と出撃した。

 だが、米軍の防空は予想を超えて強固であり、日本機は次々と海へ墜ちた。

 ある日、彼は撃墜から帰還した若い搭乗員と話した。

 その男は、眼の焦点が合っていなかった。

 「お前、名は?」

 「……石原少尉、であります」

 「出身は?」

 「長岡です。……山本閣下の、郷里です」

 彼の声には、皮肉も誇りもなかった。

 その夜、五十六は彼の部屋の灯りが朝まで点いたままだったことを覚えている。

 翌朝、石原少尉の姿は、もはやなかった。

 現場は、もう限界だった。

 それでも、上層部は「持久せよ」と命じる。

 「逆転はありうる」「補給を増やせ」「精神力で凌げ」

 精神力。

 五十六がもっとも忌み嫌う言葉だった。

 補給線は途絶え、増援は届かず、情報は錯綜する。

 彼は手元の報告書を握り潰した。

 紙の角が指に食い込んだ。

 作戦会議では、提案の余地すらなかった。

 彼が「撤退」を進言すれば、「腰抜け」と罵る者もいた。

 海軍中央、軍令部、さらには大本営までが、無言の圧力で彼を縛っていた。

 「……国家の存続を問うているのだぞ、山本君」

 以前、永野軍令部総長が吐いた言葉が、彼の耳を離れなかった。

 それは逆である。

 この戦を続けることこそ、国家の存続を危うくする。

 だが、言葉にはならなかった。

 言っても、誰にも届かぬことを、五十六は知っていた。

 ある日、幕僚の一人が告げた。

 「敵の物量は、我々の十倍です。しかも、一日に二隻、三隻と新造艦が送り出されている。……ガ島は、すでに“取らせておいて潰す”戦略の罠ではないかと、分析しております」

 五十六は、その言葉にうなずいた。

 彼は知っていた。

 この戦は、既に終わっている。

 ただ、それを認める勇気が、誰にもないだけだ。

 夜更け、彼は兵舎の裏手をひとり歩いた。

 空を見上げれば、無数の星がこぼれていた。

 その光を、飢えに耐える若者たちが見ることはないだろう。

 彼らは、泥水の中で、名前も知らぬまま、ただ消える。

 「俺は、何をしているのか……」

 その問いに答える者はいなかった。

 五十六は、海の匂いに混じる死の気配の中で、静かに立ち尽くしていた。

 ――それでも、彼は引かなかった。

 たとえ、これが愚かな消耗戦であろうと、

 たとえ、若者を“間引き”するような命令しかできずとも、

 彼には、退く選択肢はなかった。

 彼は、責任を背負っていた。

 開戦を止められなかったことへの、責任を。

 兵を死地に送り続けることへの、贖罪を。

 それが彼の、沈黙の戦いだった。

九月中旬。

 連合艦隊から派遣された補給船団が、また一つ、海の藻屑と消えた。

 米海軍の制海権はすでに磐石だった。

 “東京急行”と皮肉られた高速輸送船団は、昼夜問わぬ爆撃にさらされ、

 わずかに送った糧秣すら、兵の口に届く前に焼かれた。

 「現地には、芋の茎すら足りておりません」

 参謀が声を低くする。

 「兵の多くは、草と泥で空腹を凌いでおります」

 その言葉に、五十六はただ、眼を閉じた。

 別の幕僚が、低い声で加えた。

 「陸軍側は、“海軍の支援不足”を公然と批判し始めています」

 「……予想はしていた」

 五十六は答えた。だが、その声は怒気とは異なっていた。

 それは、諦念だった。

 陸海軍間の“対立”は、今に始まったことではない。

 だが、戦場においてまで、それが“足を引っ張る”形となるのは、もはや末期の兆候だった。

 「本来なら、ガ島など放棄すべきです」

 参謀の一人が、ぽつりと本音を漏らした。

 「だが、誰も言えない」

 「……言えぬなら、私が行こう」

 五十六が静かに言った。

 「また、お出ましになるのですか? 閣下……」

 補佐官が思わず声を上げる。

 五十六は、わずかに笑った。

 「私が行かねば、この戦は死者の数でしか語られぬ。せめて、生者として記憶しておかねばな」

 同月末、五十六はブイン前線を視察した。

 そこでは、わずか百名足らずの海軍陸戦隊が、

 密林の中で飢え、熱病に倒れ、言葉を失っていた。

 彼がその名を呼んでも、返事はなかった。

 兵は、上官に報告する力すら残っていなかった。

 壕の隅で、痩せた青年が血に塗れた布を口に当てていた。

 「……長官閣下」

 それだけを、かすれる声で絞り出した。

 「俺は……死ぬのか」

 その問いに、五十六は答えることができなかった。

 青年は、笑った。

 「……でも、いいです」

 「?」

 「俺、……米に帰ったら、百姓になりますって、親父と約束してました。でも……」

 彼は、目を閉じた。

 「……もう……田んぼの匂い、忘れました」

 やがて、静かに息を吐いた彼の胸は、二度と上下しなかった。

 死者に階級はなかった。

 名誉もなかった。

 ただ、国策の一点に組み込まれ、地図にすら残らぬ森の中で朽ちていく。

 五十六は、心の奥で「怒り」を感じていた。

 だが、それをぶつける先がなかった。

 この戦争を選んだ者たちは、いまや国の奥で筆を握るのみである。

 最前線に立ち、現実を見つめる者など、ほとんどいなかった。

 自分だけが、なぜこの地にいるのか――

 その問いは、もはや彼自身の中で消えつつあった。

 ラバウルへの帰途、彼は機上で報告書を開いた。

 艦隊の消耗、航空機の損耗、兵の死亡率、補給状況。

 それら全てが、赤と黒の数字で綴られていた。

 だが、そこには「彼らがどう死んだか」は書かれていない。

 彼は、閉じた。

 「この国は、死を軽んじすぎている……」

 独り言のように呟いたその言葉が、機内に重く響いた。

 ラバウル基地に戻った彼を、参謀たちは迎えた。

 「米軍、ヘンダーソン飛行場の拡張を続けております」

 「制空権の確保が急務です」

 「わかっている」

 五十六は答えた。

 ――わかっている。すべて、わかっている。

 それでも、命令せねばならぬ。

 兵を送り出し、艦を進め、弾を尽きるまで撃たせる。

 それが自分の役割であり、同時に罰でもある。

 五十六は、夜のラバウル湾を見つめていた。

 月が出ていた。

 静かな海だ。だが、その下には、沈んだ輸送船と、戻らぬ兵たちが眠っている。

 「俺は……何を守ろうとしているのか」

 その問いもまた、風に消えた。

 だが、彼の背筋は伸びていた。

 彼には、退くことが許されなかった。

 それが、開戦を止められなかった者の責務だった。

 そして――それが、沈黙の中で戦い続ける者の覚悟でもあった。

 昭和十七年十月。

 ソロモンの海は、また血を吸った。

 ラバウルから飛び立った攻撃機隊が、サンタ・クルーズ諸島沖で敵艦を発見、

 夜明けの空を裂くように雷撃と爆撃が重ねられた。

 「命中十数発、米空母一隻撃沈、戦艦一隻大破――!」

 無線電報が連合艦隊司令部に弾むように届く。

 トラック、横須賀、大本営――

 誰もが、その報に歓声を上げた。

 「これぞ日本海軍の底力だ!」

 「神風、ふたたび!」

 新聞各紙は翌朝、“神撃、敵空母を屠る”の見出しで埋め尽くされた。

 軍部も、これを好機と見た。

 ガダルカナルへの再増援、士気の回復、そして世論の巻き返し――

 ――だが、五十六は静かに机上の報告を見下ろしていた。

 その目は、勝利に輝いてはいなかった。

 「閣下、南太平洋海戦は、歴史的勝利ですぞ」

 参謀の一人が声を弾ませる。

 「敵空母二、我が損失軽微。今こそ、反攻の好機と――」

 「……軽微、か」

 五十六は、ぽつりと呟いた。

 彼の手には、別の報告書が握られていた。

 ――翔鶴中破、瑞鶴被弾、搭乗員の損耗甚大。

 しかも、帰還機の半数以上が不時着あるいは未帰還。

 損失した搭乗員の名簿には、若い青年たちの名が並んでいた。

 「……勝ったとは、言い難い」

 彼はそう口にした。

 勝った、というのは、敵が退き、こちらが前進することを意味する。

 だが今、誰も一歩も前に進んでいない。

 あるのは、敵艦の炎と、自軍機の墜落報告だけだった。

 数日後、報道班がラバウルを訪れた。

 彼らは興奮気味に、五十六にインタビューを求めた。

 「閣下、今回の大勝利について一言!」

 その時、彼は一瞬だけ記者の目を見た。

 その目には、何の光もなかった。

 「……勝利か。そうだな……」

 そして、静かに言った。

 「……勝って、何を得たかを問うのは、早すぎるかもしれん」

 記者は、言葉を失った。

 南太平洋海戦は、たしかに“戦果”であった。

 だが、その代償に失ったものの重さを、五十六は誰よりも深く知っていた。

 空母は動けぬ。飛行隊は損耗した。

 補給はますます逼迫し、ガダルカナルには依然として兵が取り残されている。

 勝利とは、いったい何なのか。

 艦を撃沈すれば、戦が終わるのか。

 兵が死ねば、戦況が好転するのか。

 ――違う。

 五十六は確信していた。

 その頃、現地部隊のある中佐から、非公式に一通の手紙が届いた。

 それは、作戦報告ではなかった。

 《閣下。兵たちは、いま何のために戦っているのかを、忘れつつあります。》

 《彼らは命令に従っています。しかし、その命令の先にある“意味”を感じられぬまま、ただ死に向かっております。》

 《若者たちの目に、かつての光はありません。》

 《閣下。もはや、これは“戦”ではなく、“衰弱”です。》

 五十六は、その手紙を読みながら、一人黙していた。

 戦果では埋まらないものがある。

 それは、兵の心であり、国家の精神である。

 戦争とは、兵器のぶつかり合いではない。

 人間の意思と感情が、それに意味を与えるのだ。

 南太平洋海戦は、“勝利”だった。

 だが、それは同時に、“転機”でもあった。

 五十六は、そこで悟った。

 ――この戦争は、もはや“戦術”で変えられる段階を過ぎた。

 勝っても、なお滅びに近づいている。

 であれば、どうするか。

 どうやって、この国を“終わらせるか”。

 その問いが、静かに彼の中に芽生えていた。

第十四章ー完ー

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