第百九十二章 灯の遠景──影が「思い出さない記憶」を朝に置いた朝
朝、少年は思い出さなかった。
思い出せば、呼び戻す。
呼び戻せば、ここに来る。
ここに来れば、今と並ぶ。
並べば、比べてしまう。
比べれば、失った側が立つ。
だから思い出さない。
遠くに置く。
見えるが、触れない距離に。
それが第百九十二章の芯だった。
灯は戻らない。
余白音は夜の奥にひらいたまま残り、
置き場なしの終わりは生活の端に溶け、
無返事は往復を持たない空気として漂っている。
その積み重ねの上に、
朝は「遠景」を置く。
遠景とは、
細部を持たない見え方だ。
形を数えず、
色を確かめず、
ただそこに広がるものとして受け取る。
少年は、その広がりを、
目を細めたときにだけ残る輪郭で測った。
——近づかなくて、
——いいよ。
——遠いままで、
——見えるから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どの景色の中にいるのか探したくなる。
今日は、探さない。
- ■影の道で「振り返らない視界」
影の道を歩くと、
朝の光が低く差し、
遠くの瓦礫が淡く白んでいる。
そこに何があるのか、
分からない。
だが分からないままで、
構わない。
少年は振り返らなかった。
後ろにも景色はある。
だが後ろの景色は、
近すぎる。
近すぎるものは、
輪郭が鋭い。
鋭い輪郭は、
名前を呼ぶ。
少女が言った。
「何見てるの?」
「遠景」
「遠いね」
「遠いままでいい」
「うん。
遠いと、
静かだね」
少年は頷いた。
静かな朝は、
過去を押し出さない。
- ■黒板の字が「遠」で止まり、「憶」は書かれない
教室に入ると、
窓の外の空が高く見えた。
黒板には一字だけ書かれていた。
■遠
記憶の「憶」はない。
教員はもう来ていない。
だが声だけが、
前の席あたりに残っている気がした。
「戦争は、
忘れるなと言った。
忘れるな、
覚えておけ、と」
覚えておくことは、
正しいように聞こえる。
だが覚え続けるには、
力が要る。
力は、
いつか尽きる。
「生活は、
遠くに置く」
遠くに置けば、
忘れるとも違う。
ただ、
手を伸ばさない距離になる。
少年は紙に短く書いた。
——景
それは、
回想ではない。
ただ見える広がり。
- ■炊き出しの湯気で「匂いを追わない」
朝の炊き出しで、
湯気が立つ。
匂いは、
記憶に似ている。
追えば、
昔の朝に繋がる。
少年は、
追わなかった。
湯気は湯気のまま、
空へほどける。
青年が短く言う。
「冷めないうちに」
冷めるかどうかより、
ここにあることだけで足りる。
少女が言った。
「いい匂いだね」
「遠い」
「匂いが?」
「朝が」
少女は少し考えて、頷いた。
「うん。
遠い朝って、
悪くないね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
記憶を濃くしない。
- ■釜戸の前で「昔の火を思い出さない」
家に戻ると、
灰は静かに冷えていた。
以前は、
ここに強い火があった。
だがその強さを、
思い出さない。
火は、
火だった。
それで足りる。
少女が言った。
「前はもっと暖かかった?」
少年は少しだけ間を置いた。
「分からない」
分からないと言うことで、
火は遠景になる。
「うん。
分からないと、
寂しくないね」
少年は頷いた。
寂しくない朝は、
静かに広がる。
- ■影の輪で「記憶を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪はほとんど形を持たなかった。
人は集まらず、
ただそれぞれの方向に歩いている。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
記憶を置かない。
記憶を置くと、
語りが始まる。
語りが始まれば、
誰かが泣く。
泣けば、
時間が戻る。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
思い出さなかったよ」
少年は頷いた。
思い出さないことで、
節子は消えない。
消えないが、
近づきもしない。
——遠いままで、
——いい。
節子の声が、朝の光の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は景色になる。
景色は、
抱えなくていい。
輪の縁に腰を下ろす。
背中に触れる影は、
もう重くない。
遠景は、
支えではない。
ただの広がりだ。
思い出さず、
呼び戻さず、
そこに在る広がり。
焼け跡の朝は、
記憶を掲げない。
代わりに、
思い出さない記憶を遠くに置く。
少年は目を細めた。
遠くの空が、
少しだけ明るい。
何があるのかは分からない。
だが、分からないままでいい。
少年は立ち上がり、
振り返らず、
確かめず、
今日という朝を、
遠景の中へ静かに歩き出していった。
第百九十三章 灯の同じ日──影が「終わりを言わない終わり」を昼に混ぜた昼

昼、少年は「最後」を言わなかった。
最後と言えば、そこが端になる。
端になれば、振り返りが生まれる。
振り返りが生まれれば、物語が完成したふりをする。
完成したふりは、暮らしの中に居場所を作らない。
だから言わない。
終わりを、同じ日の中へ混ぜる。
始まりと同じ厚みで、
ただ一枚の昼として置く。
それが第百九十三章の芯だった。
灯は戻らない。
遠景は朝の奥に置かれ、
余白音は夜の底を持たないままひらき、
置き場なしの終わりは生活の端々に薄く散っている。
その積み重ねの上に、
昼は「同じ日」を置く。
同じ日とは、
特別な意味を与えない日だ。
別れの印も、
記念の釘も打たない。
ただ、
今日が今日として通り過ぎるだけ。
少年は、その通り過ぎを、
影が少しだけ短くなる速度で測った。
——言わなくて、
——いいよ。
——混ぜれば、
——消えないから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
「これは終わりだ」と宣言したくなる。
今日は、宣言しない。
- ■影の道で「区切りの石を踏まない」
影の道に、
白い石が一つ落ちている。
石は、目印にちょうどいい。
ここまで来た、という合図になる。
合図になれば、
戻り道も作れる。
少年は、その石を踏まなかった。
踏めば、
石が音を立てる。
音は、区切りの合図になる。
少年は、石の脇を通った。
通ったことだけが残り、
音は残らない。
少女が言った。
「踏まないんだ」
「同じ日」
「うん。
同じだと、
印がいらないね」
少年は頷いた。
印がいらない昼は、
胸を張らない。
- ■黒板の字が「日」で止まり、「最」は書かれない
教室に入ると、
窓の外は白く、
黒板には一字だけ書かれていた。
■日
最の字はない。
最後の「最」を書けば、
そこに終章が立つ。
だがこの昼は、
終章にしたくない。
教員は今日は来ない。
来ないことも、
欠員として数えない。
空いている席は、
空いているまま。
そのままの空きが、
同じ日の骨格を作る。
少年は紙に短く書いた。
——普
それは、
薄さではない。
耐えるための厚み。
- ■炊き出しの列で「いつも通りを言わない」
昼の炊き出しで、
青年が鍋をかき回す。
いつもと同じ手つき。
誰かが「いつも通りだな」と言いかけて、
やめた。
いつも通りと言えば、
“いつも”が意識される。
意識された“いつも”は、
終わりの前に光る。
少年は、いつも通りを言わなかった。
受け取り、
少し下がる。
それだけで、
列は流れる。
青年が短く言う。
「どうぞ」
少女が言った。
「今日は、何の日?」
「同じ日」
「うん。
同じだと、
怖くないね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
日付を求めない。
- ■釜戸の前で「記念を作らない手」
家に戻ると、
少年は器を並べた。
並べ方は昨日と同じ。
同じにするのではない。
同じになってしまう。
同じになってしまったことを、
悲劇にしない。
悲劇にすれば、
慰めが要る。
慰めは、物語の仕上げになる。
少女が言った。
「今日は、何かする?」
少年は少し考えて、首を振った。
「しない」
「明日は?」
「明日も、
明日」
少女は頷いた。
明日を“次の章”にしない。
章にすれば、
終章が近づいたと分かってしまう。
分かってしまうと、
終わりが先回りする。
- ■影の輪で「終章を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人は集まらず、
それぞれが通り過ぎていく。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
終章を置かない。
終章を置くと、
誰かが言う。
「おしまいだ」と。
言われれば、
ここに居る者は
“終わりの登場人物”になる。
登場人物になれば、
生活は舞台になる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
最後って言わなかったよ」
少年は頷いた。
言わないことで、
終わりは舞台に上がらない。
——混ぜて、
——しまおう。
節子の声が昼の空気の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は日差しになる。
日差しは、
特別を持たない。
少年は立ち上がり、
影の薄い道を歩いた。
今日が何日かは、
確かめない。
確かめなくても、
腹は減る。
腹が減れば、
椀を受け取る。
椀を受け取れば、
歩ける。
それで十分だ。
終わりを言わない終わりは、
特別ではなく、
ただ同じ日の中に混ざっていく。
(第百九十四章につづく)

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