第百八十四章 灯の薄明──影が「区切らない朝」を朝に迎えた朝
朝、少年は目を覚ましたが、起き上がらなかった。
起き上がれば、朝になる。
朝になれば、昨日が終わる。
終われば、切り替えが要る。
切り替えが要ると、朝は境目を持つ。
だから起き上がらない。
横になったまま、
薄く明るくなるのを待つ。
夜と朝のあいだに、
名前のない時間を残す。
それが第百八十四章の芯だった。
灯は戻らない。
無名灯は夜の奥で揺れ、
等間はほどけたまま、
平常は溶けて地面に広がっている。
その積み重ねの上に、
朝は「薄明」を置く。
薄明とは、
朝だと断言しない明るさだ。
起床でも、
始業でもない。
ただ、暗さが引いていく途中。
少年は、その途中を、
瞼の裏が白くなる速さで測った。
——まだ、
——いいよ。
——ここは、
——途中だから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
夢か現かを分けたくなる。
今日は、分けない。
- ■影の道で「朝を呼ばない」
外に出ると、
道はまだ冷えている。
朝だと声にすれば、
人が動き出す。
動き出せば、
役目が生まれる。
少年は、
呼ばなかった。
ただ歩く。
影は、
薄く、
足元に貼りつく。
少女が言った。
「もう朝?」
「薄明」
「うん。
途中だね」
少年は頷いた。
途中の朝は、
歩幅を決めない。
- ■黒板の字が「明」で止まり、「朝」は書かれない
教室に入ると、
窓の外が白くなっている。
黒板には一字だけ書かれていた。
■明
朝の「朝」はない。
教員は短く言った。
「今日は、境目の話をする」
生徒たちは、
始まりの話だと思って姿勢を正した。
「戦争は、
境目を消した。
夜も、
昼も」
少年は、
境目が消えたことで
どれほど人が疲れ切ったかを思い出した。
「生活は、
薄くする」
教員は続けた。
「薄くすると、
越えなくていい」
黒板の字はそれ以上増えない。
境目を説明しすぎると、
線になる。
少年は紙に短く書いた。
——途
それは、
始点でも終点でもない。
- ■炊き出しの場で「挨拶を置かない」
朝の炊き出しが始まりかける。
誰かが「おはよう」と言いかけて、
やめた。
そのまま、
鍋が開く。
少年は、
挨拶をしなかった。
挨拶は、
朝を確定させる。
青年が短く言う。
「そのままで」
それで、
場は動く。
少女が言った。
「言わないんだ」
「途中」
「うん。
途中だと、
柔らかいね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
朝になりきらない。
- ■釜戸の前で「火を起こさない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
火は入れない。
だが消えてもいない。
灰の奥に、
夜の温度が残っている。
少女が言った。
「寒い?」
「薄明」
「うん。
待てる寒さだね」
少年は頷いた。
待てる朝は、
急がせない。
- ■影の輪で「始まりを置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
人は集まっていない。
集まらないまま、
それぞれがそこにいる。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
始まりを置かない。
始まりを置くと、
合図が要る。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
まだ、
始めなかったよ」
少年は頷いた。
始めないことで、
時間はほどける。
——そのまま、
——でいい。
節子の声が朝の白さに溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は薄明になる。
薄明は、
区切らない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
薄明は、
支えではなく、
猶予だ。
始めず、
終えず、
ただ明るくなっていくための猶予。
焼け跡の朝は、
はっきりとした朝を求めない。
代わりに、
区切らない明るさを迎える。
少年は、その薄明の中で、
起き上がらず、
名づけず、
今日という一日が
自然に立ち上がるのを、
静かに待っていた。
第百八十五章 灯の行き違い──影が「会わないまま続く道」を昼に延ばした昼

昼、少年は会わなかった。
会えば、確かになる。
確かになれば、言葉が要る。
言葉が要れば、関係が立つ。
関係が立つと、昼は折れ目を持つ。
だから会わない。
行き違う。
同じ道を、
同じ時刻に、
別の向きで通る。
それが第百八十五章の芯だった。
灯は戻らない。
薄明は朝の背を押さず、
無名灯は夜の名残を残し、
等間はほどけたまま続いている。
その積み重ねの上に、
昼は「行き違い」を置く。
行き違いとは、
交わらない接触だ。
触れず、
避けず、
ただ同じ空気を共有する。
少年は、その共有を、
影が一瞬だけ重なる薄さで測った。
——会わなくて、
——いいよ。
——同じで、
——足りる。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どこで会ったかを思い出してしまう。
今日は、思い出さない。
- ■影の道で「視線を合わせない」
影の道で、
向こうから誰かが来る。
視線を合わせれば、
挨拶が生まれる。
挨拶が生まれれば、
名前が要る。
少年は、
視線を落とした。
足元だけを見る。
影は、
交差して離れる。
少女が言った。
「知らない人?」
「行き違い」
「うん。
行き違うと、
軽いね」
少年は頷いた。
軽い昼は、
歩幅を乱さない。
- ■黒板の字が「違」で止まり、「会」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が机の角をなぞり、
黒板には一字だけ書かれていた。
■違
会合の「会」はない。
教員は短く言った。
「今日は、違いの話をする」
生徒たちは、
対立の話だと思って身構えた。
「戦争は、
違いを集めた。
敵、
味方」
少年は、
集められた違いが
どれほど道を狭めたかを思い出した。
「生活は、
違いを通す」
教員は続けた。
「通すと、
会わなくて済む」
黒板の字はそれ以上増えない。
違いを説明しすぎると、
壁になる。
少年は紙に短く書いた。
——擦
それは、
衝突ではない。
- ■炊き出しの列で「顔を覚えない」
昼の炊き出しで、
人が次々に替わる。
顔を覚えれば、
次が来る。
次が来れば、
期待が生まれる。
少年は、
覚えなかった。
受け取り、
一歩、離れる。
それだけで、
列は続く。
青年が短く言う。
「どうぞ」
それで、
昼は進む。
少女が言った。
「また会う?」
「行き違い」
「うん。
会わなくても、
困らないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
記憶が溜まらない。
- ■釜戸の前で「待ち合わせをしない」
家に戻ると、
少年は時刻を決めなかった。
決めれば、
会う理由が生まれる。
理由が生まれれば、
遅れが立つ。
少年は、
湯を汲み、
器を置いた。
来るなら来る。
来なくても、
同じだ。
少女が言った。
「一人?」
「同じ」
「うん。
同じだと、
寂しくならないね」
少年は頷いた。
寂しくならない昼は、
午後を折らない。
- ■影の輪で「出会いを中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの方向へ通っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
出会いを置かない。
出会いを置くと、
物語が始まる。
物語は、
道を曲げる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
会わなかったよ」
少年は頷いた。
会わないことで、
道は延びる。
——延びれば、
——歩ける。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は道になる。
道は、
分岐を持たない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
行き違いは、
支えではなく、
連続だ。
会わず、
避けず、
ただ同じ昼を延ばすための連続。
焼け跡の昼は、
出会いを誇らない。
代わりに、
会わないまま続く道を延ばす。
少年は、その延びた道の上を歩き、
確かめず、
呼ばず、
今日という昼を、
午後へと静かに送り出した。
(第百八十六章につづく)

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