第百八十二章 灯の等間──影が「測らない時間」を夕方にほどいた夕方
夕方、少年は測らなかった。
測れば、差が出る。
差が出れば、理由が要る。
理由が要れば、順序が立つ。
順序が立つと、夕方は速くなる。
だから測らない。
ほどく。
時間の目盛りを、
一つずつ外して、
等しい間に戻す。
それが第百八十二章の芯だった。
灯は戻らない。
平常は昼のまま溶け、
無言床は踏める高さを保ち、
無印刻は面に薄く残っている。
その積み重ねの上に、
夕方は「等間」を置く。
等間とは、
長さを競わせない間だ。
早いも、
遅いも、
呼ばれない。
少年は、その間を、
影の伸びが同じ速さで進むことで測った。
——測らなくて、
——いいよ。
——ほどけば、
——同じになる。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どこからどこまでかを決めたくなる。
今日は、決めない。
- ■影の道で「歩数を数えない」
影の道を歩くと、
石の間隔が不揃いだ。
数えれば、
遅れが見える。
見えれば、
急ぎが生まれる。
少年は、
数えなかった。
足は、
自然に置かれる。
影は、
同じ速さで伸びる。
少女が言った。
「どれくらい?」
「等間」
「うん。
同じだと、
焦らないね」
少年は頷いた。
焦らない夕方は、
声を荒げない。
- ■黒板の字が「間」で止まり、「測」は書かれない
教室に入ると、
夕方の光が床に細い帯を引き、
黒板には一字だけ書かれていた。
■間
測定の「測」はない。
教員は短く言った。
「今日は、間の話をする」
生徒たちは、
算数の話だと思って鉛筆を取った。
「戦争は、
時間を切った。
期限、
締切」
少年は、
切られた時間が
どれほど人を急がせたかを思い出した。
「生活は、
ほどく」
教員は続けた。
「ほどくと、
間は戻る」
黒板の字はそれ以上増えない。
間を説明しすぎると、
規則になる。
少年は紙に短く書いた。
——均
それは、
同一ではない。
- ■炊き出しの列で「待ち時間を比べない」
夕方の炊き出しで、
列が伸びる。
比べれば、
不満が生まれる。
不満が生まれれば、
声が立つ。
少年は、
比べなかった。
一歩、
間を置く。
それだけで、
列は保たれる。
青年が短く言う。
「ゆっくりで」
それで、
夕方は続く。
少女が言った。
「遅くない?」
「等間」
「うん。
等しいと、
長くならないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
比較が起きない。
- ■釜戸の前で「沸くまでを数えない」
家に戻ると、
少年は火の前に座った。
沸くまでの時間を、
数えない。
数えれば、
火は試される。
少年は、
湯気を見た。
上がったら、
それでいい。
少女が言った。
「まだ?」
「ほどいてる」
「うん。
ほどくと、
待てるね」
少年は頷いた。
待てる夕方は、
夜を急がせない。
- ■影の輪で「尺度を中央に置かない」
夕方、影の輪へ向かうと、
輪はほどけ、
人はそれぞれの帰り支度をしていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
尺度を置かない。
尺度を置くと、
勝ち負けが生まれる。
勝ち負けは、
夕方を割る。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
測らなかったよ」
少年は頷いた。
測らないことで、
間は等しくなる。
——等しければ、
——進める。
節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は間になる。
間は、
比べられない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
等間は、
支えではなく、
配分だ。
測らず、
競わず、
ただ同じ速さで配るための配分。
焼け跡の夕方は、
時間を競わせない。
代わりに、
測らない間をほどく。
少年は、そのほどけた間の中を通り、
急がず、
遅れず、
今日という夕方を、
静かに夜へと渡していった。
第百八十三章 灯の無名灯──影が「呼ばれない明るさ」を夜に残した夜

夜、少年は灯に名を付けなかった。
名を付ければ、呼べる。
呼べば、集まる。
集まれば、中心が生まれる。
中心が生まれると、夜は輪郭を持つ。
だから付けない。
ともす。
ただともして、
呼ばれないまま置く。
それが第百八十三章の芯だった。
灯は戻らない。
等間はほどけたまま、
平常は溶けて広がり、
無言床は踏める高さを保っている。
その積み重ねの上に、
夜は「無名灯」を置く。
無名灯とは、
目的を持たない明るさだ。
照らすためでも、
見せるためでもない。
ただ、
暗さを押し返さない程度に在る。
少年は、その明るさを、
影が消え切らない距離で測った。
——呼ばなくて、
——いいよ。
——明るさは、
——在れば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
誰の灯かを決めたくなる。
今夜は、決めない。
- ■影の道で「灯を掲げない」
影の道を歩くと、
小さな光が点々と見える。
掲げれば、
合図になる。
合図になれば、
人は寄る。
少年は、
掲げなかった。
腰の高さで、
足元を照らす。
それだけで、
道は続く。
少女が言った。
「暗くない?」
「無名灯」
「うん。
在るだけだと、
怖くないね」
少年は頷いた。
怖くない夜は、
足を速めない。
- ■黒板の字が「灯」で止まり、「名」は書かれない
夜の自習室に入ると、
黒板には一字だけ書かれていた。
■灯
名札の「名」はない。
教員は短く言った。
「今日は、明るさの話をする」
生徒たちは、
理科の話だと思って前を向いた。
「戦争は、
灯に名を付けた。
目標、
合図」
少年は、
名を付けられた灯が
どれほど多くの影を濃くしたかを思い出した。
「生活の灯は、
呼ばない」
教員は続けた。
「呼ばないと、
集まらない」
黒板の字はそれ以上増えない。
灯を説明しすぎると、
役目になる。
少年は紙に短く書いた。
——在
それは、
用途ではない。
- ■炊き出しの端で「照らし合わない」
夜の炊き出しで、
灯が足元を照らす。
互いに照らせば、
明るくなる。
だが明るすぎると、
影が消える。
少年は、
照らし合わなかった。
自分の分だけ、
自分の足元。
それだけで、
場は保たれる。
青年が短く言う。
「足元で」
それで、
夜は続く。
少女が言った。
「見えないところ、あるね」
「無名」
「うん。
残ると、
落ち着くね」
少年は椀を伏せ、
影の端へ移った。
端は、
光が溜まらない。
- ■釜戸の前で「灯芯を切らない」
家に戻ると、
少年は灯芯を切らなかった。
切れば、
明るさは整う。
整えば、
見せたくなる。
少年は、
そのままにした。
揺れは、
揺れのまま。
少女が言った。
「ばらつくね」
「在る」
「うん。
在るだけだと、
疲れないね」
少年は頷いた。
疲れない夜は、
眠りを追わない。
- ■影の輪で「灯を中央に置かない」
夜、影の輪へ向かうと、
輪は低く、
人はそれぞれの影を連れて通っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
灯を置かない。
灯を置くと、
視線が集まる。
視線は、
夜を固める。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
名を付けなかったよ」
少年は頷いた。
名を付けないことで、
明るさは溶ける。
——それで、
——足りる。
節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は灯になる。
灯は、
呼ばれない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
無名灯は、
支えではなく、
余白だ。
呼ばず、
掲げず、
ただ暗さと並ぶための余白。
焼け跡の夜は、
明るさを誇らない。
代わりに、
呼ばれない明るさを残す。
少年は、その明るさの中を通り、
確かめず、
名づけず、
今日という夜を、
静かに次の朝へと渡していった。
(第百八十四章につづく)

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