第百八十章 灯の無言床──影が「語らない重さ」を朝に敷いた朝
朝、少年は語らなかった。
語れば、軽くなる。
軽くなれば、持てる。
持てば、運べる。
運べば、置き場が要る。
置き場が要ると、朝は忙しくなる。
だから語らない。
敷く。
言葉の代わりに、
足の下へ、
無言の床を敷く。
それが第百八十章の芯だった。
灯は戻らない。
無印刻は面に残り、
伏せ札は裏のまま沈み、
名残り面は背景に溶けている。
その積み重ねの上に、
朝は「無言床」を置く。
無言床とは、
語らないことで支える平面だ。
説明を拒むのではない。
説明が要らない高さに、
身体を置く。
少年は、その高さを、
靴底に返る反発で測った。
——言わなくて、
——いいよ。
——踏めば、
——分かる。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どの言葉を敷くかを選びたくなる。
今日は、選ばない。
- ■影の道で「足音を残す」
影の道は、
朝露で少し滑る。
声を出せば、
注意が集まる。
だが少年は、
声を出さなかった。
一歩、
また一歩。
足音だけが、
床に残る。
少女が言った。
「静かだね」
「無言床」
「うん。
踏めると、
安心するね」
少年は頷いた。
安心する朝は、
言葉を急がせない。
- ■黒板の字が「床」で止まり、「語」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が床板の継ぎ目をなぞり、
黒板には一字だけ書かれていた。
■床
語の字はない。
教員は短く言った。
「今日は、支えの話をする」
生徒たちは、
建築の話だと思って足元を見た。
「戦争は、
語らせた。
理由、
正当性」
少年は、
語らされた言葉が
どれほど床を抜いたかを思い出した。
「生活は、
敷く」
教員は続けた。
「敷くと、
語らなくて済む」
黒板の字はそれ以上増えない。
支えを説明しすぎると、
標語になる。
少年は紙に短く書いた。
——踏
それは、
判断ではない。
- ■炊き出しの列で「感想を言わない」
朝の炊き出しで、
湯気が上がる。
感想を言えば、
場は和む。
だが和みすぎると、
期待が立つ。
少年は、
言わなかった。
受け取り、
一歩、下がる。
それだけで、
列は流れる。
青年が短く言う。
「足元、気をつけて」
それで、
朝は進む。
少女が言った。
「何も言わないね」
「床」
「うん。
床だと、
滑らないね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
言葉が溜まらない。
- ■釜戸の前で「火の話をしない」
家に戻ると、
少年は火の話をしなかった。
燃えるか、
消えるか。
どちらも、
今日は要らない。
灰の上に、
板を一枚、置く。
それで、
床になる。
少女が言った。
「火は?」
「踏める」
「うん。
踏めると、
進めるね」
少年は頷いた。
進める朝は、
昼を押さない。
- ■影の輪で「言葉を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの用へ通っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
言葉を置かない。
言葉を置くと、
集まりが始まる。
集まりは、
床を抜く。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
言わなかったよ」
少年は頷いた。
言わないことで、
床は続く。
——続けば、
——歩ける。
節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は板になる。
板は、
きしまずに支える。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
無言床は、
支えではなく、
前提だ。
語らず、
飾らず、
ただ踏めるための前提。
焼け跡の朝は、
語りを求めない。
代わりに、
語らない重さを敷く。
少年は、その床の上に立ち、
確かめず、
名づけず、
今日という朝を、
静かに歩き出した。
第百八十一章 灯の平常──影が「戻らない名前」を昼に溶かした昼

昼、少年は特別にしなかった。
特別にすれば、立つ。
立てば、比べられる。
比べられれば、意味が割れる。
意味が割れると、昼は忙しくなる。
だから特別にしない。
平らにする。
昨日も、
今日も、
同じ高さに並べる。
それが第百八十一章の芯だった。
灯は戻らない。
無言床は朝のまま続き、
無印刻は面に薄く残り、
伏せ札は裏のまま沈んでいる。
その積み重ねの上に、
昼は「平常」を置く。
平常とは、
出来事を事件にしない運びだ。
祝わず、
悔やまず、
ただ同じ厚みで時間を通す。
少年は、その厚みを、
影の濃さが変わらないことで測った。
——同じで、
——いいよ。
——今日は、
——今日だから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
今日に名前を付けたくなる。
今日は、付けない。
- ■影の道で「歩幅を揃えない」
影の道を歩くと、
人の歩幅が交差する。
揃えれば、
隊列になる。
隊列になれば、
先と後が生まれる。
少年は、
揃えなかった。
速くも、
遅くもなく、
自分の歩幅で通る。
影は、
並ばずに伸びる。
少女が言った。
「ばらばらだね」
「平常」
「うん。
平らだと、
ぶつからないね」
少年は頷いた。
ぶつからない昼は、
声を荒げない。
- ■黒板の字が「常」で止まり、「特」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が机の縁を均等に照らし、
黒板には一字だけ書かれていた。
■常
特別の「特」はない。
教員は短く言った。
「今日は、普段の話をする」
生徒たちは、
少し肩の力を抜いた。
「戦争は、
特別を作った。
記念日、
決戦」
少年は、
特別が続くほど
平らな日が削られたことを思い出した。
「生活は、
常を置く」
教員は続けた。
「常があれば、
戻らなくていい」
黒板の字はそれ以上増えない。
常を説明しすぎると、
型になる。
少年は紙に短く書いた。
——同
それは、
退屈ではない。
- ■炊き出しの列で「順番を誇らない」
昼の炊き出しで、
配られる量は同じだ。
先でも、
後でも、
同じ。
少年は、
順番を気にしなかった。
来た位置で受け取る。
青年が短く言う。
「いつも通り」
それで、
昼は進む。
少女が言った。
「変わらないね」
「平常」
「うん。
変わらないと、
落ち着くね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
比較が起きない。
- ■釜戸の前で「記念を作らない」
家に戻ると、
少年は印を付けなかった。
今日が何日か、
確かめない。
確かめれば、
節目が立つ。
節目は、
気持ちを立たせる。
少年は、
水を汲み、
器を並べた。
それだけで、
昼は足りる。
少女が言った。
「何もないね」
「常」
「うん。
何もないと、
続くね」
少年は頷いた。
続く昼は、
午後を重くしない。
- ■影の輪で「特別を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの仕事に戻っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
特別を置かない。
特別を置くと、
注目が集まる。
注目は、
平らさを削る。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
普通だったよ」
少年は頷いた。
普通であることで、
時間は溶ける。
——それが、
——いい。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は影になる。
影は、
高さを持たない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
平常は、
支えではなく、
基準だ。
特別にせず、
名づけず、
ただ同じ厚みで続けるための基準。
焼け跡の昼は、
特別を欲しがらない。
代わりに、
戻らない名前を溶かす。
少年は、その溶けた名前の上を歩き、
比べず、
飾らず、
今日という昼を、
午後へと静かに流していった。
(第百八十二章につづく)

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