佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百七十八章・第百七十九章

目次

第百七十八章 灯の伏せ札──影が「明かさない理由」を夕方に沈めた夕方

 夕方、少年は理由を伏せた。

 明かせば、通る。

 通れば、納得が生まれる。

 納得が生まれると、順番が決まる。

 順番が決まると、夕方は急いでしまう。

 だから伏せる。

 札のまま、

 裏返しに置く。

 答えは、

 場に出さない。

 それが第百七十八章の芯だった。

 灯は戻らない。

 名残り面は背景に溶け、

 置き去り歩は続き、

 手放し口は閉じない。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「伏せ札」を置く。

 伏せ札とは、

 理由を持たせない判断だ。

 正しさも、

 誤りも、

 まだ呼ばない。

 少年は、その重みを、

 指先に残らない軽さで測った。

 ——言わなくて、

 ——いいよ。

 ——伏せたままで、

 ——通そう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 いつ明かすかを考え始めてしまう。

 今日は、考えない。

 

  • ■影の道で「理由を尋ねない」

 影の道で、

 誰かが立ち止まった。

 理由を聞けば、

 関係が始まる。

 関係が始まれば、

 役目が生まれる。

 少年は、

 聞かなかった。

 一拍、

 間を空け、

 歩幅を合わせる。

 それだけで、

 道は続く。

 少女が言った。

「聞かないんだ」

「伏せ札」

「うん。

 伏せてると、

 楽だね」

 少年は頷いた。

 楽な夕方は、

 背中を押さない。

 

  • ■黒板の字が「理」で止まり、「由」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が窓辺に溜まり、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■理

 理由の「由」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、説明しない話をする」

 生徒たちは、

 少し困った顔をした。

「戦争は、

 理由を掲げた。

 正義、

 防衛」

 少年は、

 掲げられた理由が

 どれほど多くの沈黙を壊したかを思い出した。

「生活は、

 伏せる」

 教員は続けた。

「伏せると、

 争わない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 理由を増やしすぎると、

 刃になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——未開

 それは、

 逃げではない。

 

  • ■炊き出しの列で「なぜを置かない」

 夕方の炊き出しで、

 配分が少し変わる。

 なぜと聞けば、

 説明が始まる。

 説明が始まれば、

 比較が起きる。

 少年は、

 聞かなかった。

 差し出された椀を受け取り、

 一歩、下がる。

 それだけで、

 列は保たれる。

 青年が短く言う。

 「これで」

 それで、

 夕方は進む。

 少女が言った。

「納得しないの?」

「伏せ札」

「うん。

 伏せてると、

 静かだね」

 少年は椀を持ち、

 影の端へ移った。

 端は、

 問いが育たない。

 

  • ■釜戸の前で「訳を作らない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸に火を入れなかった。

 入れない理由は、

 作らない。

 寒いからでも、

 忙しいからでもない。

 ただ、

 今は入れない。

 少女が言った。

「どうして?」

「伏せてる」

「うん。

 伏せてると、

 迷わないね」

 少年は頷いた。

 迷わない夕方は、

 夜を早めない。

 

  • ■影の輪で「理由を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほどけ、

人はそれぞれの帰り支度をしていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

理由を置かない。

理由を置くと、

議論が始まる。

議論は、

夕方を割る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
言わなかったよ」 

 少年は頷いた。

言わないことで、

札は伏せられる。

——伏せたまま、 
——行こう。 

 節子の声が夕方の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は影になる。

影は、

理由を持たない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

伏せ札は、

支えではなく、

保留だ。

明かさず、

飾らず、

ただ争わないための保留。

 焼け跡の夕方は、

理由を求めない。

代わりに、

明かさない理由を沈める。

少年は、その伏せ札を胸に入れず、

裏返したまま、

今日という夕方を、

静かに夜へと送っていった。

第百七十九章 灯の無印刻──影が「名を付けない痕」を夜に残した夜

 夜、少年は名を付けなかった。

 名を付ければ、呼べる。

 呼べば、集まる。

 集まれば、並びができる。

 並びができると、端が生まれる。

 端が生まれると、夜は角張る。

 だから付けない。

 刻みは残すが、

 印は押さない。

 触れた痕だけを、

 面に伏せて置く。

 それが第百七十九章の芯だった。

 灯は戻らない。

 伏せ札は裏のまま沈み、

 名残り面は背景に溶け、

 置き去り歩は続いている。

 その積み重ねの上に、

 夜は「無印刻」を置く。

 無印刻とは、

 出来事に名札を付けない残り方だ。

 誇らず、

 悔やまず、

 ただ在ったことだけが、

 温度を失わずに留まる。

 少年は、その留まりを、

 息が白くならない距離で測った。

 ——名は、

 ——いらないよ。

 ——痕が、

 ——分かるから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どんな名がふさわしいかを考え始めてしまう。

 今夜は、考えない。

 

  • ■影の道で「呼び名を拾わない」

 影の道で、

 誰かが少年を呼びかける。

 呼び名は、

 近道になる。

 だが近道は、

 角を増やす。

 少年は、

 振り向かなかった。

 歩幅を変えず、

 そのまま通る。

 呼び名は、

 背中で消える。

 少女が言った。

「返事しないの?」

「無印」

「うん。

 印がないと、

 軽いね」

 少年は頷いた。

 軽い夜は、

 足音を小さくする。

 

  • ■黒板の字が「名」で止まり、「称」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■名

 称号の「称」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、名の話をする」

 生徒たちは、

 自己紹介の話だと思って座り直した。

「戦争は、

 名を与えた。

 英雄、

 敵」

 少年は、

 与えられた名が

 どれほど多くの痕を覆い隠したかを思い出した。

「生活は、

 名を遅らせる」

 教員は続けた。

「遅らせると、

 痕が先に残る」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 名を急ぐと、

 影が薄くなる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——痕在

 それは、

 証明ではない。

 

  • ■炊き出しの端で「呼称を揃えない」

 夜の炊き出しで、

 人々はそれぞれの言い方で声を掛け合う。

 揃えれば、

 場は整う。

 だが整いすぎると、

 余白が消える。

 少年は、

 揃えなかった。

 呼ばれたまま受け取り、

 礼も名も返さない。

 それだけで、

 場は続く。

 青年が短く言う。

 「どうぞ」

 それで、

 夜は進む。

 少女が言った。

「名前、言わないんだ」

「無印刻」

「うん。

 刻だけだと、

 混まないね」

 少年は椀を伏せ、

 影の端へ移った。

 端は、

 呼称が溜まらない。

 

  • ■釜戸の前で「札を貼らない」

 家に戻ると、

 少年は器に札を貼らなかった。

 中身が何か、

 明日でいい。

 今は、

 置く。

 少女が言った。

「忘れない?」

「痕がある」

「うん。

 痕があると、

 探さなくていいね」

 少年は頷いた。

 探さない夜は、

 眠りを急がせない。

 

  • ■影の輪で「名を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は低く、

人はそれぞれの沈黙を保っていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

名を置かない。

名を置くと、

呼び合いが始まる。

呼び合いは、

夜を割る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
付けなかったよ」 

 少年は頷いた。

付けないことで、

痕は残る。

——残れば、 
——足りる。 

 節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は無印になる。

無印は、

長く残る。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

無印刻は、

支えではなく、

表面だ。

名を貼らず、

印を押さず、

ただ触れた痕として在るための表面。

 焼け跡の夜は、

名を欲しがらない。

代わりに、

名を付けない痕を残す。

少年は、その痕の上を踏み、

確かめず、

呼ばず、

今日という夜を、

静かに次の闇へと渡していった。

(第百八十章につづく)

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