第百七十六章 灯の置き去り歩──影が「戻らない歩幅」を朝に渡した朝
朝、少年は戻らなかった。
戻れば、確かめられる。
確かめれば、安心が来る。
安心が来れば、置いてきたものが重くなる。
重くなると、歩幅は狭まる。
だから戻らない。
置き去りにする。
忘れるのではなく、
拾い直さない。
それが第百七十六章の芯だった。
灯は戻らない。
手放し口は閉じられず、
持ち越し影は軽く送られ、
通し音は途切れない。
その積み重ねの上に、
朝は「置き去り歩」を置く。
置き去り歩とは、
歩きながら拾わない決意だ。
捨てない。
だが振り返らない。
少年は、その決意を、
足裏の摩擦で測った。
——拾わなくて、
——いいよ。
——歩けば、
——残るから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
何を拾うべきかを選びたくなる。
今日は、選ばない。
- ■影の道で「立ち止まり癖を外す」
影の道には、
拾い物が落ちている。
紐、
紙片、
欠けた金具。
拾えば、
役に立つかもしれない。
だが少年は、
足を止めなかった。
跨ぐ。
踏まない。
それだけだ。
少女が言った。
「もったいない?」
「置き去り歩」
「うん。
置いてくと、
進むね」
少年は頷いた。
進む朝は、
背中を丸めない。
- ■黒板の字が「歩」で止まり、「返」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が床に細い線を引き、
黒板には一字だけ書かれていた。
■歩
引き返すの「返」はない。
教員は短く言った。
「今日は、歩き方の話をする」
生徒たちは、
姿勢の話だと思って背筋を伸ばした。
「戦争は、
引き返すなと言った」
少年は、
引き返せなかった道が
どれほど人を削ったかを思い出した。
「生活は、
戻らなくていい」
教員は続けた。
「戻らないのは、
前進とは違う」
黒板の字はそれ以上増えない。
歩き方を説明しすぎると、
訓練になる。
少年は紙に短く書いた。
——通行
それは、
目的ではない。
- ■炊き出しの列で「忘れ物を探さない」
朝の炊き出しで、
誰かが言った。
「何か落とした」
探せば、
列は止まる。
だが少年は、
探さなかった。
列は、
流れのまま進む。
青年が短く言う。
「あとで」
それで、
朝は続く。
少女が言った。
「冷たい?」
「置き去り」
「うん。
置いてくと、
流れるね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
滞りがない。
- ■釜戸の前で「昨日の灰を見ない」
家に戻ると、
少年は釜戸を見なかった。
昨日の灰が、
どんな形かは確かめない。
確かめれば、
手を出したくなる。
少年は、
水を汲み、
器を置いた。
それだけで、
朝は足りる。
少女が言った。
「見ないんだ」
「拾わない」
「うん。
拾わないと、
軽いね」
少年は頷いた。
軽い朝は、
昼を押さない。
- ■影の輪で「戻り道を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの歩幅で通っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
戻り道を置かない。
戻り道を置くと、
比較が始まる。
比較は、
足を止める。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
戻らなかったよ」
少年は頷いた。
戻らないことで、
歩幅は保たれる。
——それで、
——進める。
節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は足音になる。
足音は、
前へ出る。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
置き去り歩は、
支えではなく、
継続だ。
拾わず、
戻らず、
ただ続けるための継続。
焼け跡の朝は、
忘れ物を責めない。
代わりに、
戻らない歩幅を残す。
少年は、その歩幅で、
拾わず、
振り返らず、
今日という朝を、
確かに前へと運んでいった。
第百七十七章 灯の名残り面──影が「向けない視線」を昼に残した昼

昼、少年は振り向かなかった。
向けば、確かめられる。
確かめれば、形が立つ。
形が立てば、意味が生まれる。
意味が生まれると、昼は言葉を欲しがる。
だから向けない。
視線を残す。
背後ではなく、
正面の端に、
名残りとして置く。
それが第百七十七章の芯だった。
灯は戻らない。
置き去り歩は続き、
手放し口は開いたまま、
残り火は触れない距離にある。
その積み重ねの上に、
昼は「名残り面」を置く。
名残り面とは、
見たことを主張しない面だ。
見たかどうかを問わず、
ただ在ったことだけを通す。
少年は、その面を、
頬に当たる光の斜めで測った。
——向けなくて、
——いいよ。
——面は、
——残るから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どこを見たかを言いたくなる。
今日は、言わない。
- ■影の道で「角を覗かない」
影の道の角に、
物陰がある。
覗けば、
確かになる。
確かになれば、
説明が始まる。
少年は、
覗かなかった。
角を越え、
そのまま進む。
影は、
正面に落ちる。
少女が言った。
「気にならない?」
「名残り面」
「うん。
残ってると、
気にならないね」
少年は頷いた。
気にならない昼は、
足を早めない。
- ■黒板の字が「面」で止まり、「向」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が壁に淡い面を作り、
黒板には一字だけ書かれていた。
■面
向くの「向」はない。
教員は短く言った。
「今日は、見方の話をする」
生徒たちは、
観察の話だと思って前を向いた。
「戦争は、
向けさせた。
敵へ、
正面へ」
少年は、
向けさせられた視線が
どれほど多くの背中を切ったかを思い出した。
「生活は、
面を残す」
教員は続けた。
「面があれば、
向かなくていい」
黒板の字はそれ以上増えない。
見方を説明しすぎると、
正解になる。
少年は紙に短く書いた。
——余向
それは、
視線の余りだ。
- ■炊き出しの列で「見送らない」
昼の炊き出しで、
人が去る。
見送れば、
別れになる。
別れになれば、
言葉が要る。
少年は、
見送らなかった。
手元を見て、
椀を置く。
それだけで、
流れは続く。
青年が短く言う。
「次」
それで、
昼は進む。
少女が言った。
「冷たい?」
「名残り」
「うん。
残ってると、
切れないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
視線が重ならない。
- ■釜戸の前で「壁を見る」
家に戻ると、
少年は壁を見た。
鍋でも火でもなく、
ただ壁。
壁は、
返事をしない。
しないから、
向けなくていい。
少女が言った。
「何見てるの?」
「面」
「うん。
面だと、
静かだね」
少年は頷いた。
静かな昼は、
午後を割らない。
- ■影の輪で「視線を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの作業に戻っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
視線を置かない。
視線を置くと、
注目が始まる。
注目は、
時間を止める。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
向かなかったよ」
少年は頷いた。
向かないことで、
面は残る。
——残れば、
——進める。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は光になる。
光は、
正面に落ちる。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
名残り面は、
支えではなく、
背景だ。
向けず、
呼ばず、
ただ残るための背景。
焼け跡の昼は、
視線を集めさせない。
代わりに、
向けない面を残す。
少年は、その面の前を通り、
確かめず、
名づけず、
今日という昼を、
午後へと静かに渡していった。
(第百七十八章につづく)

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