佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百七十二章・第百七十三章

目次

第百七十二章 灯の残り火──影が「消さない温度」を朝に渡した朝

 朝、少年は火を消さなかった。

 消せば、きれいになる。

 きれいになれば、始められる。

 始められれば、進める。

 進めば、置いてきたものが背後になる。

 背後になると、振り返りたくなる。

 だから消さない。

 残す。

 赤でも白でもない、

 触れない温度を残す。

 それが第百七十二章の芯だった。

 灯は戻らない。

 置き終えは敷かれ、

 返礼なしは沈み、

 間置きは崩れない。

 その積み重ねの上に、

 朝は「残り火」を置く。

 残り火とは、

 火ではなく、灰でもないものだ。

 再燃を約束せず、

 消滅を宣言しない。

 少年は、その温度を、

 手の甲に来ない距離で測った。

 ——消さなくて、

 ——いいよ。

 ——触れないところに、

 ——残そう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どの火を残すかを選びたくなる。

 今日は、選ばない。

 

  • ■影の道で「息を当てない」

 影の道に、

 朝の風が通る。

 息を当てれば、

 火は起きる。

 だが少年は、

 息を当てなかった。

 通すだけ。

 風は風のまま、

 温度を揺らす。

 少女が言った。

「寒くない?」

「残り火」

「うん。

 残ってると、

 平気だね」

 少年は頷いた。

 平気な朝は、

 声を急がせない。

 

  • ■黒板の字が「火」で止まり、「消」は書かれない

 教室に入ると、

 朝の光が机に淡い影を落とし、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■火

 消火の「消」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、温度の話をする」

 生徒たちは、

 理科の話だと思ってノートを開いた。

「戦争は、

 火を消せと言った。

 跡形なく」

 少年は、

 消された火が

 どれほど多くの語りを奪ったかを思い出した。

「生活の火は、

 残す」

 教員は続けた。

「残すと、

 近づかなくて済む」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 温度を説明しすぎると、

 管理になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——余温

 それは、

 触らない約束だ。

 

  • ■炊き出しの列で「温め直さない」

 朝の炊き出しで、

 鍋が少し冷めている。

 火を足せば、

 湯気は戻る。

 だが少年は、

 足さなかった。

 ぬるさは、

 舌を急がせない。

 青年が短く言う。

 「これで」

 それで、

 朝は進む。

 少女が言った。

「ぬるい?」

「余温」

「うん。

 余温だと、

 待てるね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 温度が揺れない。

 

  • ■釜戸の前で「灰を寄せない」

 家に戻ると、

 少年は灰を寄せなかった。

 寄せれば、

 片づく。

 片づけば、

 始められる。

 だが今日は、

 寄せない。

 散ったままの白は、

 朝を急がせない。

 少女が言った。

「汚れない?」

「残り火」

「うん。

 残ってると、

 落ち着くね」

 少年は頷いた。

 落ち着く朝は、

 昼を割らない。

 

  • ■影の輪で「温度を中央に置かない」

 朝、影の輪へ向かうと、

 輪は薄く、

人はそれぞれの速さで通っていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

温度を置かない。

温度を置くと、

近づきすぎる。

近づきすぎると、

火傷が生まれる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
火を、 
消さなかったよ」 

 少年は頷いた。

消さないことで、

触れない距離が保たれる。

——それで、 
——歩ける。 

 節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は余温になる。

余温は、

近づかせない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

残り火は、

支えではなく、

距離だ。

消さず、

起こさず、

ただ触れないための距離。

 焼け跡の朝は、

完全な消火を求めない。

代わりに、

消さない温度を残す。

少年は、その温度のそばに立ち、

息を当てず、

手を伸ばさず、

それでも確かに朝であることを、

静かに受け取っていた。

第百七十三章 灯の通し音──影が「鳴らさない合図」を昼に置いた昼

 昼、少年は合図を鳴らさなかった。

 鳴らせば、集まる。

 集まれば、始まる。

 始まれば、役割が決まる。

 役割が決まると、遅れが生まれる。

 遅れが生まれると、昼は急ぐ。

 だから鳴らさない。

 音を通す。

 鳴らさず、止めず、

 ただ通過させる。

 それが第百七十三章の芯だった。

 灯は戻らない。

 残り火は触れない距離にあり、

 置き終えは敷かれたまま、

 返礼なしは沈んでいる。

 その積み重ねの上に、

 昼は「通し音」を置く。

 通し音とは、

 知らせるための音ではない。

 気配として、

 通り過ぎるだけの揺れだ。

 少年は、その揺れを、

 耳の奥ではなく、

 胸の空きで受け止めた。

 ——鳴らさなくて、

 ——いいよ。

 ——通れば、

 ——分かるから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どの音が合図かを決めたくなる。

 今日は、決めない。

 

  • ■影の道で「足音を揃えない」

 影の道を歩くと、

 足音が重なりそうになる。

 揃えれば、列になる。

 列になれば、先頭が要る。

 先頭が要れば、

 後ろは追う。

 少年は、

 一歩だけ間を空けた。

 空けすぎない。

 詰めすぎない。

 足音は、

 重ならずに通る。

 少女が言った。

「ばらばらだね」

「通し音」

「うん。

 通ってると、

 楽だね」

 少年は頷いた。

 楽な昼は、

 息を詰めない。

 

  • ■黒板の字が「音」で止まり、「号」は書かれない

 教室に入ると、

 昼の光が窓枠を鳴らさずに揺らし、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■音

 号令の「号」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、音の話をする」

 生徒たちは、

 音楽の話だと思って前を向いた。

「戦争は、

 号で動かした。

 笛、

 太鼓」

 少年は、

 鳴らされた音が

 どれほど多くの足を同時に動かしたかを思い出した。

「生活の音は、

 通す」

 教員は続けた。

「通すと、

 止まらない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 音を説明しすぎると、

 合図になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——揺

 それは、

 命令ではない。

 

  • ■炊き出しの列で「呼び声を使わない」

 昼の炊き出しで、

 鍋が移動する。

 呼べば、

 人は寄る。

 だが少年は、

 呼ばなかった。

 鍋は、

 自然に人の前を通る。

 青年が短く言う。

 「ここ」

 それで、

 列は保たれる。

 少女が言った。

「呼ばないんだ」

「通し音」

「うん。

 通ると、

 乱れないね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 音が滞らない。

 

  • ■釜戸の前で「蓋を鳴らさない」

 家に戻ると、

 少年は蓋を静かに置いた。

 鳴らせば、

 合図になる。

 合図になれば、

 始まりが立つ。

 少年は、

 鳴らさずに置いた。

 置かれた蓋は、

 そこにあるだけだ。

 少女が言った。

「静かだね」

「通し音」

「うん。

 静かだと、

 長いね」

 少年は頷いた。

 長い昼は、

 午後を割らない。

 

  • ■影の輪で「合図を中央に置かない」

 昼、影の輪へ向かうと、

 輪は薄く、

人はそれぞれの作業を続けていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

合図を置かない。

合図を置くと、

集まりが始まる。

集まりは、

時間を折る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
鳴らさなかったよ」 

 少年は頷いた。

鳴らさないことで、

時間は途切れない。

——通せば、 
——続くよ。 

 節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は揺れになる。

揺れは、

止められない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

通し音は、

支えではなく、

流れだ。

鳴らさず、

止めず、

ただ通していくための流れ。

 焼け跡の昼は、

合図を欲しがらない。

代わりに、

鳴らさない合図を残す。

少年は、その合図のない揺れの中で、

集めず、

散らさず、

今日という昼を、

午後へと静かに流していった。

(第百七十四章につづく)

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