第百七十章 灯の返礼なし──影が「返さない感謝」を夕方に沈めた夕方
夕方、少年は礼を返さなかった。
返せば、対になる。
対になれば、帳尻が合う。
帳尻が合えば、関係は閉じる。
閉じれば、夕方は短くなる。
だから返さない。
受け取ったまま、沈める。
声にせず、
札にもせず、
胸の底に置く。
それが第百七十章の芯だった。
灯は戻らない。
間置きは崩れず、
間渡しは途中に留まり、
引き算は跡を残さない。
その積み重ねの上に、
夕方は「返礼なし」を置く。
返礼なしとは、
礼を欠くことではない。
返しを要らない形にすることだ。
少年は、その形を、
掌に残らない温度で確かめた。
——返さなくて、
——いいよ。
——受け取ったまま、
——沈めよう。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どれほど受け取ったかを数えたくなる。
今日は、数えない。
- ■影の道で「会釈を残さない」
影の道を歩くと、
誰かが軽く会釈をした。
返せば、
動きは完成する。
完成は、
関係を終わらせる。
少年は、
目を上げただけだった。
頷かない。
だが逸らさない。
そのまま通る。
通れば、
会釈は地面に溶ける。
少女が言った。
「冷たい?」
「返礼なし」
「うん。
返さないと、
続くね」
少年は頷いた。
続く夕方は、
声を増やさない。
- ■黒板の字が「礼」で止まり、「謝」は書かれない
教室に入ると、
夕方の光が机の縁を照らし、
黒板には一字だけ書かれていた。
■礼
謝意の「謝」はない。
教員は短く言った。
「今日は、礼の話をする」
生徒たちは、
作法の話だと思って背筋を伸ばした。
「戦争は、
礼を命じた。
返せ、と」
少年は、
命じられた礼が
どれほど人を空にしたかを思い出した。
「生活の礼は、
沈める」
教員は続けた。
「沈めると、
浮かばない」
黒板の字はそれ以上増えない。
礼を説明しすぎると、
型になる。
少年は紙に短く書いた。
——受領
それは、
完了ではない。
- ■炊き出しの列で「ありがとうを言わない」
夕方の炊き出しで、
椀が差し出される。
言えば、
場は温まる。
だが温まりすぎると、
期待が生まれる。
少年は、
言わなかった。
目を合わせ、
受け取る。
それだけで、
十分だ。
青年は、
軽く顎を引いた。
言葉は、
そこに要らない。
少女が言った。
「失礼じゃない?」
「返礼なし」
「うん。
返さないと、
重くならないね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
言葉が沈む。
- ■釜戸の前で「礼状を書かない」
家に戻ると、
少年は紙を広げた。
だが書かない。
書けば、
記録になる。
記録は、
回収を呼ぶ。
少年は、
紙を折り、
しまった。
折り目は残る。
だが文字はない。
少女が言った。
「伝えないの?」
「沈める」
「うん。
沈めると、
揺れないね」
少年は頷いた。
揺れない夕方は、
夜を穏やかにする。
- ■影の輪で「礼を中央に置かない」
夕方、影の輪へ向かうと、
輪はほどけ、
人はそれぞれの用へ散っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
礼を置かない。
礼を置くと、
拍手か返答が要る。
どちらも、
夕方を騒がせる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
返さなかったよ」
少年は頷いた。
返さないことで、
受け取ったものは沈む。
——沈めて、
——持とう。
節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は水になる。
水は、
形を問わない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
返礼なしは、
支えではなく、
持続だ。
返さないことで、
関係は続く。
焼け跡の夕方は、
礼を急がせない。
代わりに、
返さない感謝を沈める。
少年は、その沈みを胸に抱え、
言わず、
書かず、
それでも確かに受け取ったまま、
今日という夕方を、
静かに夜へと送っていった。
第百七十一章 灯の置き終え──影が「終えない終わり」を夜に敷いた夜

夜、少年は終わらせなかった。
終わらせれば、楽になる。
楽になれば、忘れやすくなる。
忘れやすくなれば、
同じところをまた踏む。
踏めば、夜は短くなる。
だから終わらせない。
終えた形を置く。
閉じない終わりを、
床の端にそっと敷く。
それが第百七十一章の芯だった。
灯は戻らない。
返礼なしは沈み、
間置きは崩れず、
間渡しは途中に留まる。
その積み重ねの上に、
夜は「置き終え」を置く。
置き終えとは、
完了を宣言しない完了だ。
終えたことを誇らず、
続いていることを否定しない。
少年は、その重なりを、
畳の冷えで測った。
——終わらせなくて、
——いいよ。
——終えたまま、
——置けば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どこが終わりかを線で引きたくなる。
今夜は、引かない。
- ■影の道で「区切りを跨がない」
影の道には、
白い線が引かれている。
跨げば、向こうに行く。
向こうに行けば、
こちらは終わる。
だが少年は、
線の手前で足を揃えた。
戻らない。
進まない。
線は、線のまま残る。
少女が言った。
「行かないの?」
「置き終え」
「うん。
置いてると、
戻らなくていいね」
少年は頷いた。
戻らなくていい夜は、
息が深い。
- ■黒板の字が「終」で止まり、「了」は書かれない
夜の自習室に入ると、
黒板には一字だけ書かれていた。
■終
完了の「了」はない。
教員は短く言った。
「今日は、終わりの話をする」
生徒たちは、
結果の話だと思って背筋を伸ばした。
「戦争は、
終わりを叫んだ。
勝敗として」
少年は、
叫ばれた終わりが
どれほど多くの続きを消したかを思い出した。
「生活の終わりは、
置く」
教員は続けた。
「置くと、
続きが壊れない」
黒板の字はそれ以上増えない。
終わりを説明しすぎると、
断定になる。
少年は紙に短く書いた。
——留
それは、
止めではない。
- ■炊き出しの列で「片づけを急がない」
夜の炊き出しで、
鍋が空になる。
片づければ、
場は閉じる。
だが少年は、
一拍だけ置いた。
湯気が消え切る前に、
誰かが椀を置く。
場は、
まだ終わらない。
青年が短く言う。
「このままで」
それで、
夜は続く。
少女が言った。
「残ってるね」
「置き終え」
「うん。
置いてると、
寂しくならないね」
少年は椀を伏せ、
影の端へ移った。
端は、
終わりが柔らかい。
- ■釜戸の前で「灰を払わない」
家に戻ると、
少年は灰を払わなかった。
払えば、
終わりがはっきりする。
はっきりすると、
次の準備が始まる。
準備は、
夜を忙しくする。
少年は、
灰をそのままにした。
白は、
暗さの中で残る。
少女が言った。
「汚い?」
「置き終え」
「うん。
置いてると、
休めるね」
少年は頷いた。
休める夜は、
夢を急がせない。
- ■影の輪で「終わりを中央に置かない」
夜、影の輪へ向かうと、
輪は低く、
人は声を落として話していた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
終わりを置かない。
終わりを置くと、
拍手か沈黙が要る。
どちらも、
夜を硬くする。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
終わらせなかったよ」
少年は頷いた。
終わらせないことで、
続きは息をする。
——そのまま、
——置いておこう。
節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は敷物になる。
敷物は、
足音を柔らかくする。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
置き終えは、
支えではなく、
合意だ。
「ここまででいい」という、
静かな合意。
焼け跡の夜は、
終わりを急がせない。
代わりに、
終えない終わりを敷く。
少年は、その敷物の上に立ち、
閉じず、
切らず、
今日という一日を、
名づけずに、
夜の奥へと静かに預けていった。
(第百七十二章につづく)

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