第百六十四章 灯の置き影──影が「追わない形」を昼に残した昼
昼、少年は影を踏まなかった。
踏めば、遊びになる。
遊びになれば、勝ち負けが生まれる。
勝ち負けが生まれると、
影は形を持ちすぎる。
形を持ちすぎた影は、
やがて人を引きずる。
だから踏まない。
並べる。
置いて歩く。
それが第百六十四章の芯だった。
灯は戻らない。
置き息は胸に残り、
余白灯は点けられず、
置き石は動かされない。
その積み重ねの上に、
昼は「置き影」を置く。
置き影とは、
追いかけない影だ。
遅れも先行も主張せず、
ただ同じ地面に落ちる。
少年は、その影の距離を、
足元の温度で測った。
——追わなくて、
——いいよ。
——同じところに、
——落ちてれば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どちらが本体かを決めたくなる。
今日は、決めない。
- ■影の道で「影に名前を付けない」
影の道を歩くと、
瓦礫の縁で影が歪む。
頭が長くなり、
足が欠ける。
欠けた影に、
名前を付ければ、
意味が生まれる。
意味が生まれると、
理由が要る。
少年は、
歪みをそのまま通した。
通せば、
影は形を保たない。
保たないから、
持ち帰れない。
少女が言った。
「変な影」
「置き影」
「うん。
置いてくと、
軽いね」
少年は頷いた。
軽い昼は、
言葉を増やさない。
- ■黒板の字が「影」で止まり、「像」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が床に影を置き、
黒板には一字だけ書かれていた。
■影
像の「像」はない。
教員は短く言った。
「今日は、影の話をする」
生徒たちは、
図形の話だと思って前を向いた。
「戦争は、
影を像にした。
敵影、
英雄影」
少年は、
像になった影が
どれほど多くの足を止めたかを思い出した。
「生活の影は、
置く」
教員は続けた。
「置くと、
追わなくて済む」
黒板の字はそれ以上増えない。
影を説明しすぎると、
象徴になる。
少年は紙に短く書いた。
——同席
それは、
同一ではない。
- ■炊き出しの列で「視線を合わせない」
昼の炊き出しで、
人の影が重なる。
重なれば、
視線が交差する。
交差すれば、
順番が気になる。
少年は、
足元の影だけを見た。
前の人の影とも、
後ろの人の影とも、
重ならない位置。
少し横へ。
半歩だけ。
青年が短く言う。
「次」
それで、
流れは乱れない。
少女が言った。
「見ないの?」
「置き影」
「うん。
置いてると、
押さないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
影が休む。
- ■釜戸の前で「影を拭かない」
家に戻ると、
釜戸の前に影が溜まっている。
煤の影、
器の影、
布の影。
拭えば、
影は消える。
消えれば、
きれいになる。
きれいになると、
使い道が決まる。
少年は、
拭かなかった。
影は、
置かれるためにある。
少女が言った。
「暗い?」
「置いてる」
「うん。
置いてると、
急がないね」
少年は頷いた。
急がない昼は、
午後を割らない。
- ■影の輪で「影を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人は自然に離れていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
影を置かない。
影を置くと、
誰かの形になる。
形になると、
守りが要る。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
影を、
追わなかったよ」
少年は頷いた。
追わないことで、
影は足に絡まない。
——並べば、
——それでいい。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は影になる。
影は、
置かれる。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
置き影は、
支えではなく、
同伴だ。
前にも後ろにもならず、
ただ同じ地面に、
同じ時間を落とす同伴。
焼け跡の昼は、
影を掴ませない。
代わりに、
追わない形を残す。
少年は、その形と並び、
重ならず、
離れすぎず、
今日という時間を、
静かに次へ渡していった。
第百六十五章 灯の渡し余白──影が「持たせない重さ」を夕方へ運んだ夕方

夕方、少年は荷を持たせなかった。
持てば、進める。
進めば、役に立つ。
役に立てば、居場所ができる。
居場所ができると、離れにくくなる。
離れにくくなると、夕方は短くなる。
だから持たせない。
渡すとしても、重さを渡さない。
空いた手のまま、余白を渡す。
それが第百六十五章の芯だった。
灯は戻らない。
置き影は並び、
置き息は胸に留まり、
余白灯は点けられない。
その積み重ねの上に、
夕方は「渡し余白」を置く。
渡し余白とは、
引き受けないことを責めない幅だ。
幅があれば、
手は開いたまま動ける。
少年は、その幅を、
指の間を抜ける風で確かめた。
——重さは、
——持たなくていいよ。
——手は、
——空けておこう。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
何をどれだけ持つべきかを量りたくなる。
今日は、量らない。
- ■影の道で「荷を分けない」
影の道に、
まとめられた荷が置かれている。
分ければ、軽くなる。
軽くなれば、運びやすい。
だが分けると、
責任も分かれる。
分かれた責任は、
行き先を探し始める。
少年は、
荷の脇を通った。
触れない。
押さない。
通るだけ。
通れば、
荷は荷のまま留まる。
少女が言った。
「手伝わないの?」
「渡し余白」
「うん。
余白があると、
急がないね」
少年は頷いた。
急がない夕方は、
声を荒らさない。
- ■黒板の字が「渡」で止まり、「負」は書かれない
教室に入ると、
夕方の光が机の端に影を落とし、
黒板には一字だけ書かれていた。
■渡
負担の「負」はない。
教員は短く言った。
「今日は、渡し方の話をする」
生徒たちは、
受け渡しの手順だと思って前を向いた。
「戦争は、
重さを渡した。
命令として」
少年は、
渡された重さが
どれほど人を黙らせたかを思い出した。
「生活は、
余白を渡す」
教員は続けた。
「余白があると、
戻れる」
黒板の字はそれ以上増えない。
渡し方を説明しすぎると、
義務になる。
少年は紙に短く書いた。
——空手
それは、
拒否ではない。
- ■炊き出しの列で「受け取りを急がない」
夕方の炊き出しで、
差し出された器がある。
受け取れば、
次が進む。
だが少年は、
一拍だけ待った。
器は、
その拍の中で軽くなる。
青年が目で合図をする。
少年は受け取る。
それで、
流れは途切れない。
少女が言った。
「遅れた?」
「余白」
「うん。
余白があると、
こぼれないね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
受け渡しが静かだ。
- ■釜戸の前で「持ち替えない」
家に戻ると、
少年は道具を持ち替えなかった。
右手から左手へ。
替えれば、
慣れが生まれる。
慣れは、
油断を呼ぶ。
少年は、
置いた。
置いて、
手を空けた。
空いた手は、
次を急がせない。
少女が言った。
「手、空いてる」
「渡し余白」
「うん。
空いてると、
楽だね」
少年は頷いた。
楽な夕方は、
夜を怖がらない。
- ■影の輪で「重さを中央に置かない」
夕方、影の輪へ向かうと、
輪はほどけ、
人は出たり入ったりしていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
重さを置かない。
重さを置くと、
誰かが背負う。
背負えば、
立場が生まれる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
重さを、
渡さなかったよ」
少年は頷いた。
渡さないことで、
関係は軽いまま保たれる。
——軽く、
——行こう。
節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は余白になる。
余白は、
誰も縛らない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
渡し余白は、
支えではなく、
通過だ。
手ぶらのまま、
夕方を越えるための通過。
焼け跡の夕方は、
重さを引き受けさせない。
代わりに、
持たせない重さを残す。
少年は、その軽さを手の甲に感じ、
受け取りすぎず、
渡しすぎず、
今日という時間を、
静かに夜へと運んでいった。
(第百六十六章につづく)

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