佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百五十八章・第百五十九章

目次

第百五十八章 灯の仮止め──影が「外さない結び」を夕方に預けた夕方

 夕方、少年は結びを固めなかった。

 紐は解けないように結べる。

 力を込めれば、ほどけない。

 ほどけない結びは、安心を連れてくる。

 だが安心は、外す手間を隠す。

 外す手間は、後で刃になる。

 だから固めない。

 仮に止める。

 ほどける結び。

 それが第百五十八章の芯だった。

 灯は戻らない。

 乾き縁は保たれ、

 間欠は空けられ、

 片付け残しは残された。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「仮止め」を置く。

 仮止めは、怠慢ではない。

 先送りでもない。

 今を壊さず、

 次に手を渡すための合図だ。

 少年は、その合図を、

 指の腹で確かめた。

 ——強く、

 ——結ばなくていいよ。

 ——ほどけるほうが、

 ——長いから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 耐久を試したくなる。

 今日は、試さない。

 

  • ■影の道で「紐を引きずらない」

 影の道に、

 荷を束ねた紐が落ちている。

 引きずれば、

 跡が残る。

 跡が残ると、

 同じ引きずりが集まる。

 集まると、

 地面は硬くなる。

 少年は、

 紐を拾い、

 仮に結んで、

 脇に置いた。

 脇は、

 通路ではない。

 だが捨て場でもない。

 少女が言った。

「結ばないの?」

「仮」

「うん。

 仮だと、

 邪魔にならないね」

 少年は頷いた。

 邪魔にならない夕方は、

 声を荒らさない。

 

  • ■黒板の字が「結」で止まり、「固」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が机に影を落とし、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■結

 固めるの「固」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、結びの話をする」

 生徒たちは、

 約束の話だと思って身構えた。

「戦争は、

 固く結べと言った。

 命令として」

 少年は、

 固く結ばれた命令が

 どれほど解けなかったかを思い出した。

「生活の結びは、

 仮でいい」

 教員は続けた。

「仮だと、

 外す手が残る」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 結び方を教えると、

 規則になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——外せる

 それは、

 逃げではない。

 保守だ。

 

  • ■炊き出しの列で「袋を縛らない」

 夕方の炊き出しで、

 袋が配られる。

 口を縛れば、

 中身は守られる。

 だが縛らない。

 折るだけ。

 折り目は、

 すぐに戻る。

 青年は、

 結びを求めなかった。

 頷くだけ。

 少女が言った。

「落ちない?」

「仮止め」

「うん。

 仮だと、

 開けやすいね」

 少年は袋を胸に抱え、

 影の端へ移った。

 端は、

 外す余地がある。

 

  • ■釜戸の前で「蓋を縛らない」

 家に戻ると、

 少年は鍋に蓋をのせた。

 重石は置かない。

 置けば、

 密閉になる。

 密閉は、

 匂いを閉じ込める。

 閉じ込めると、

 逃げ場がなくなる。

 少女が言った。

「飛ばない?」

「仮」

「うん。

 仮だと、

 息できるね」

 少年は頷いた。

 息できる夕方は、

 夜を怖がらない。

 

  • ■影の輪で「約束を仮にする」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はゆるく、

人は集まり、

また離れた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

固い約束を置かない。

固い約束は、

外せない影を生む。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
結びを、 
仮にしたよ」 

少年は頷いた。

仮にすることで、

違いは裂けない。

——外せるって、 
——楽だよ。 

 節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は結び目になる。

結び目は、

ほどける。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

仮止めは、

支えではなく、

合意だ。

「今はこれで」という、

静かな合意。

 焼け跡の夕方は、

固さを称えない。

代わりに、

外せる結びを残す。

少年は、その結びを指で確かめながら、

今日という一日を、

解ける形のまま、

夜へと渡していった。

第百五十九章 灯の返し縫い──影が「ほどかない直し」を夜へ縫い留めた夜

 夜、少年は縫い目をほどかなかった。

 ほころびは見える。

 布の端が、ほんの少し擦れている。

 ほどけば、きれいに直せる。

 きれいに直せば、気持ちは軽くなる。

 だが軽さは、やり直しを呼ぶ。

 やり直しは、過去を否定する。

 否定は、夜を尖らせる。

 だからほどかない。

 返し縫いで留める。

 元の縫い目を残したまま、

 戻りながら、補う。

 それが第百五十九章の芯だった。

 灯は戻らない。

 仮止めは外されず、

 乾き縁は濡らされず、

 間欠は守られる。

 その積み重ねの上に、

 夜は「返し縫い」を置く。

 返し縫いは、後戻りではない。

 前へ進みながら、

 後ろを傷つけない技だ。

 少年は、その技を、

 針の重さで思い出した。

 ——ほどかなくて、

 ——いいよ。

 ——戻って、

 ——留めれば。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 正しい縫い目を数えたくなる。

 今夜は、数えない。

 

  • ■影の道で「跡を消さない」

 影の道には、

 昨日の足跡が残っている。

 雨が来れば消える。

 来なければ、しばらく残る。

 少年は、

 箒で消さなかった。

 消せば、

 今日だけの道になる。

 今日だけの道は、

 明日を拒む。

 少年は、

 足跡の脇を歩いた。

 重ねない。

 だが避けすぎない。

 脇は、

 返し縫いの幅だ。

 少女が言った。

「踏まないの?」

「留める」

「うん。

 留めると、

 道が続くね」

 少年は頷いた。

 続く道は、

 夜を短くしない。

 

  • ■黒板の字が「返」で止まり、「解」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■返

 解くの「解」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、直し方の話をする」

 生徒たちは、

 失敗の話だと思って顔を伏せた。

「戦争は、

 やり直せと言った。

 過去を切れ、と」

 少年は、

 切られた過去が

 どれほど人を寒くしたかを思い出した。

「生活は、

 返す」

 教員は続けた。

「返して留める。

 残したまま」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 直し方を教えると、

 採点になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——補う

 それは、

 修正ではない。

 継ぎ足しだ。

 

  • ■炊き出しの列で「言い直さない」

 夜の炊き出しで、

 誰かが短く言い間違えた。

 すぐに、

 別の言葉が続く。

 訂正はしない。

 笑いも起きない。

 少年は、

 言い直さなかった。

 言い直せば、

 最初の言葉が消える。

 消えると、

 場が冷える。

 青年は、

 頷くだけだった。

 それで、

 意味は留まる。

 少女が言った。

「間違えた?」

「返し縫い」

「うん。

 返すと、

 流れるね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 言葉を尖らせない。

 

  • ■釜戸の前で「割れを塞がない」

 家に戻ると、

 器の縁に小さな割れがあった。

 漆で塞げば、

 使える。

 だが今夜は塞がない。

 布を一枚、

 下に敷く。

 受ける。

 割れは、

 割れのまま留まる。

 少女が言った。

「危ない?」

「返し縫い」

「うん。

 受けると、

 壊れないね」

 少年は頷いた。

 受けられた割れは、

 音を立てない。

 

  • ■影の輪で「過去を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は静かで、

人の出入りがゆるやかだった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

過去を置かない。

過去を置くと、

評価が始まる。

評価は、

ほどきを求める。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
ほどかずに、 
留めたよ」 

少年は頷いた。

留めることで、

痛みは針穴になる。

針穴は、

塞がらずに呼吸する。

——そのままで、 
——大丈夫。 

 節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は糸になる。

糸は、

切られない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

返し縫いは、

支えではなく、

持続だ。

前へ進みながら、

後ろを抱く。

 焼け跡の夜は、

完全な修復を求めない。

代わりに、

ほどかない直しを残す。

少年は、その直し方を胸に置き、

灯りを落とし、

過去を切らずに、

静かに眠りへ入っていった。

(第百六十章につづく)

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