佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百五十四章・第百五十五章

目次

第百五十四章 灯の渡り板──影が「踏み切らない勇気」を置いた夕方

 夕方、少年は渡り板の前で立ち止まった。

 川というほどではない。

 溝というほど浅くもない。

 雨水が集まって、細く流れている。

 その上に、一本の板が渡してある。

 踏めば向こうへ行ける。

 向こうへ行けば、近道だ。

 近道は、早さを約束する。

 早さは、正しさに似た顔をする。

 似ているから、間違えやすい。

 少年は、その板を踏まなかった。

 踏まないことで、夕方は長くなる。

 それが第百五十四章の芯だった。

 灯は戻らない。

 余白線は引かれず、

 呼吸孔は塞がれず、

 余熱は消されない。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「渡り板」を置く。

 渡り板は、渡るためにある。

 だが、渡らない選択もまた、

 生活の一部だ。

 少年は、渡らないことで、

 川の音を聞いた。

 音は、渡った先では聞こえない。

 ——急がなくて、

 ——いいよ。

 ——回り道も、

 ——地面だよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どちらが正しいかを比べたくなる。

 今日は、比べない。

 

  • ■影の道で「近道を選ばない」

 影の道は、夕方になると分かれ道が増える。

 瓦礫の隙間、

 崩れた塀の裏、

 誰かが通った痕。

 痕は、近道を示す。

 だが痕は、

 同じ足を集める。

 集まると、

 地面は硬くなる。

 少年は、

 痕を避け、

 少し草の多い道を選んだ。

 草は足を取る。

 だが足を取る分、

 歩みは遅くなる。

 遅い歩みは、

 周りを見る余裕を残す。

 少女が言った。

「遠回り?」

「踏み切らない」

「うん。

 踏み切らないと、

 落ちないね」

 少年は頷いた。

 落ちない夕方は、

 夜を怖がらない。

 

  • ■黒板の字が「渡」で止まり、「捷」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が窓から傾き、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■渡

 捷径の「捷」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、渡る話をする」

 生徒たちは、

 成功の話だと思って顔を上げた。

 だが教員は、

 成功を語らなかった。

「戦争は、

 踏み切れと命じた。

 今だ、と」

 少年は、

 踏み切らされた多くの足が

 戻れなかったことを思い出した。

「生活は、

 踏み切らない」

 教員は続けた。

「踏み切らないことで、

 戻る道が残る」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 渡り方を教えると、

 競争が始まる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——戻れる

 それは、

 臆病ではない。

 持続のための言葉だ。

 

  • ■炊き出しの列で「順番を飛ばさない」

 夕方の炊き出しで、

 列の途中に空きができた。

 前の人が離れ、

 後ろが詰まっていない。

 今なら前へ行ける。

 だが少年は、

 一歩を出さなかった。

 出れば、

 小さな近道になる。

 だがその一歩は、

 誰かの視線を集める。

 集められた視線は、

 やがて言葉になる。

 少年は待った。

 待つことで、

 列は自分で形を戻す。

 少女が言った。

「行かないの?」

「渡らない」

「うん。

 渡らないと、

 列が荒れないね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 踏み切りを作らない。

 

  • ■釜戸の前で「火を跨がない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸の前に立った。

 灰の中に、

 まだ温かいところがある。

 手を入れれば、

 火を起こせる。

 起こせば、

 すぐに温まる。

 だが少年は、

 跨がなかった。

 跨ぐと、

 戻れなくなる。

 戻れなくなると、

 夜が短くなる。

 少女が言った。

「寒くない?」

「踏み切らない」

「うん。

 踏み切らないと、

 余熱が守られるね」

 少年は頷いた。

 守られた余熱は、

 朝まで持つ。

 

  • ■影の輪で「決断を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほどけ、

 人の出入りが自由だった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

決断を置かない。

決断を置くと、

踏み切る者と、

踏み切れない者が分かれる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
板を、 
渡らなかったよ」 

 少年は頷いた。

渡らないことで、

両岸は残る。

残れば、

また選べる。

——選べるままで、 
——いいよ。 

 節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は流れになる。

流れは、

板の下を静かに通る。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

渡り板は、

支えではなく、

誘惑だ。

誘惑を踏まない足が、

今日の夕方を

長く、

壊さずに保っている。

 焼け跡の夕方は、

踏み切る勇気だけを褒めない。

代わりに、

踏み切らない勇気を残す。

少年は、その勇気を胸に置き、

また一歩、

遠回りの地面へ足を下ろした。

第百五十五章 灯の片付け残し──影が「終わらせない手順」を夜へ渡した夜

 夜、少年は片付けを終えなかった。

 終えなかったというより、

 終えないところで手を止めた。

 床には、使い終えた器。

 壁際には、畳みきれない布。

 どれも、放置ではない。

 次に触れる位置に、

 次に触れる向きで、

 残してある。

 少年は、その残し方を間違えなかった。

 終わらせない手順。

 それが第百五十五章の芯だった。

 灯は戻らない。

 渡り板は踏まれず、

 余白線は引かれず、

 呼吸孔は塞がれない。

 その積み重ねの上に、

 夜は「片付け残し」を置く。

 片付け残しは、怠けではない。

 明日への持ち越しでもない。

 今夜を割らないための、

 静かな段差だ。

 少年は、その段差に足を引っかけないよう、

 灯りを低く保った。

 ——終わらせなくて、

 ——いいよ。

 ——続けられる形で、

 ——置いておこう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 完了の印を付けたくなる。

 今夜は、付けない。

■影の道で「掃き切らない」

 影の道を歩くと、

 小さな石や灰が残っている。

 箒があれば、

 一気に掃ける。

 だが少年は、

 掃き切らなかった。

 掃き切ると、

 明日の足が速くなる。

 速くなると、

 夜が短くなる。

 少年は、

 通る分だけを払い、

 端に寄せた。

 寄せた端は、

 境ではない。

 気配だ。

 少女が言った。

「汚い?」

「残す」

「うん。

 残すと、

 夜が壊れないね」

 少年は頷いた。

 壊れない夜は、

 呼吸が深い。

■黒板の字が「残」で止まり、「完」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■残

 完成の「完」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、残し方の話をする」

 生徒たちは、

 失点の話だと思って身構えた。

 だが教員は、

 点数を語らなかった。

「戦争は、

 完了を急いだ。

 終わったことにした」

 少年は、

 終わったことにされた痛みが

 どれほど夜を長くしたかを思い出した。

「生活は、

 残す」

 教員は続けた。

「残すことで、

 続きが暴れない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 残し方を教えると、

 規則になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——途中

 それは、

 投げ出しではない。

 橋だ。

■炊き出しの列で「鍋を磨かない」

 夜の炊き出しで、

 鍋は洗われ、

 だが磨かれていない。

 磨けば、

 光る。

 光れば、

 次を呼ぶ。

 次を呼ぶと、

 列が戻る。

 青年は、

 水を切り、

 伏せただけだった。

「また、明日」

 短い言葉。

 少女が言った。

「きれいにしないの?」

「残す」

「うん。

 残すと、

 明日が静かだね」

 少年は、

 伏せられた鍋の底に、

 夜の重さを見た。

 重さは、

 置けば済む。

■釜戸の前で「布を畳みきらない」

 家に戻ると、

 少年は布を手に取った。

 畳めば、

 角が揃う。

 揃うと、

 棚に入れたくなる。

 棚に入れると、

 取り出す理由が要る。

 少年は、

 半分だけ畳み、

 端を見せた。

 見える端は、

 呼び水だ。

 少女が言った。

「だらしない?」

「続き」

「うん。

 続きが見えると、

 迷わないね」

 少年は頷いた。

 迷わない夜は、

 夢を荒らさない。

■影の輪で「完了を置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は低く、

人の出入りがゆっくりだった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

完了を置かない。

完了を置くと、

拍手が要る。

拍手が要ると、

静けさが割れる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……
片付けを、
終わらせなかったよ」
 少年は頷いた。

終わらせないことで、

続きは夜に溶ける。

溶ければ、

争いの角が取れる。

——途中で、
——いいよ。
 節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は手順になる。

手順は、

人を急がせない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

片付け残しは、

支えではなく、

呼吸だ。

吸って、吐く。

吸い切らず、

吐き切らず。

 焼け跡の夜は、

完了を褒めない。

代わりに、

終わらせない手順を残す。

少年は、その手順を胸に置き、

灯りを落とし、

夜を壊さないまま、

静かに目を閉じた。

(第百五十六章につづく)

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