佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百五十章・第百五十一章

目次

第百五十章 灯の縁石──影が「止まらない流れ」を許した夕方

 夕方、少年は縁石に腰を下ろした。

 座ったが、止まらなかった。

 止まらなかったのは、立ち上がらなかったからではない。

 流れを切らなかったからだ。

 道の端にある縁石は、歩行を止めるためのものではない。

 車道と歩道を分け、雨水を流すためにある。

 流すための硬さ。

 少年は、その硬さに身を預けすぎなかった。

 それが第百五十章の芯だった。

 灯は戻らない。

 耳土は湿りを保ち、

 土間は踏み固められず、

 夜露は乾かされない。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「縁石」を置いていく。

 縁石は境界だが、遮断ではない。

 水を止めない。

 音を止めない。

 人の歩みも止めない。

 少年は、止めない境界のあり方を、

 夕方の体重で確かめた。

 ——止まらなくて、

 ——いいよ。

 ——流れて、

 ——縁に触れるだけ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どちら側にいるかを決めたくなる。

 今日は、決めない。

 

  • ■影の道で「縁に立ち続けない」

 影の道は、夕方になると人が増える。

 行く人、戻る人、迷う人。

 少年は縁石に座り、

 一息ついた。

 だが長くは座らない。

 長く座ると、

 通り道が居場所になる。

 居場所になると、

 守りが要る。

 少年は、

 立ち上がり、

 一歩だけ進んだ。

 一歩は、宣言ではない。

 流れへの合図だ。

 少女が言った。

「もう行く?」

「流す」

「うん。

 流すと、

 混まないね」

 少年は頷いた。

 混まない夕方は、

 声を荒らさない。

 

  • ■黒板の字が「縁」で止まり、「境」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が床に長い影を落とし、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■縁

 境の「境」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、縁の話をする」

 生徒たちは、

 縁を人間関係の言葉として思い浮かべ、

 少し身構えた。

「戦争は、

 境を強めた。

 越えるな、と」

 少年は、

 越えられなかった境が

 どれほど人を滞らせたかを思い出した。

「生活の縁は、

 触れる」

 教員は続けた。

「触れて、

 流す。

 止めない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 縁を説明しすぎると、

 線になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——触れるだけ

 その言葉は、

 線の外に置かれた。

 

  • ■炊き出しの列で「列の外に腰を下ろす」

 夕方の炊き出しで、

 列は曲がり角まで伸びていた。

 少年は列の中に立たず、

 縁石に腰を下ろした。

 列の外。

 だが離れすぎない。

 離れすぎると、

 呼び戻される。

 縁石は、

 待つための高さを持つ。

 待ちすぎない高さ。

 立ち上がれば、

 すぐに列に戻れる。

 青年が目で合図をした。

 少年は立ち、

 半歩で列に入る。

 それで、流れは切れない。

 少女が言った。

「ずるくない?」

「止めてない」

「うん。

 止めないなら、

 いいね」

 少年は椀を受け取り、

 縁石の影に戻った。

 影は、

 冷やすだけで留めない。

 

  • ■釜戸の前で「縁に鍋を置かない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸の前に立った。

 鍋は置かない。

 置くと、

 火を起こしたくなる。

 起こすと、

 夕方が夜へ急ぐ。

 少年は、

 釜戸の縁に手を触れ、

 温度だけを確かめた。

 確かめるが、

 使わない。

 縁に触れて、

 流れを読む。

 少女が言った。

「使わないの?」

「触った」

「うん。

 触るだけだと、

 急がないね」

 少年は頷いた。

 触るだけの行為は、

 次を強要しない。

 

  • ■影の輪で「境界を置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほどけかけていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

境界を置かない。

境界を置くと、

内と外が生まれる。

生まれると、

どちらかが滞る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
縁に、 
触れただけだよ」 

 少年は頷いた。

触れるだけで、

十分だ。

越えなくていい。

塞がなくていい。

——流れて、 
——いいよ。 

 節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は縁石を伝う水になる。

水は、

止まらない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

縁石は、

休むための線であって、

留まるための壁ではない。

 焼け跡の夕方は、

止まり場を与えない。

代わりに、

縁に触れる時間を与える。

少年は、その短い触れ方を覚えることで、

今日もまた、

人の流れを滞らせず、

自分の歩みを、

静かに夜へつないでいった。

第百五十一章 灯の余熱──影が「消さない温度」を抱いた夜

 夜、少年は余熱に手をかざした。

 火はない。

 赤も、炎も、音もない。

 だが、確かに残っている温度。

 触れれば分かるほどではない。

 離れれば忘れてしまうほどでもない。

 その間にある、名づけにくい温かさ。

 少年は、それを消さなかった。

 消せば、安心は早い。

 だが安心は、早すぎると空白を作る。

 空白は、何かを入れたくなる。

 入れたくなると、急ぐ。

 だから消さない。

 余熱のままにしておく。

 それが第百五十一章の芯だった。

 灯は戻らない。

 縁石は流れを止めず、

 耳土は音を混ぜ、

 土間は踏み固められない。

 その積み重ねの上に、

 夜は「余熱」を残す。

 余熱は、使うためにあるのではない。

 次を急がせないためにある。

 少年は、その役目を、

 手のひらで確かめた。

 ——すぐ、

 ——冷まさなくていいよ。

 ——まだ、

 ——通ってるから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 何度かを知りたくなる。

 今日は、知らない。

 

  • ■影の道で「焚き跡を跨がない」

 影の道の脇に、

 古い焚き跡があった。

 黒く、

 乾いて、

 だが中心に、

 まだ温度が潜んでいる。

 跨げば、

 何も起きない。

 だが跨ぐと、

 終わったことになる。

 少年は、

 焚き跡の縁を回った。

 回ることで、

 余熱は余熱のまま残る。

 残れば、

 夜は急に冷えない。

 少女が言った。

「火、ないね」

「余熱」

「うん。

 余熱だと、

 怖くないね」

 少年は頷いた。

 怖くない温度は、

 眠りを浅くしない。

 

  • ■黒板の字が「余」で止まり、「冷」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■余

 冷やすの「冷」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、余りの話をする」

 生徒たちは、

 余りを無駄だと思ってきた顔をした。

「戦争は、

 余りを嫌った。

 無駄だと切った」

 少年は、

 切り捨てられた余りが

 どれほど人を凍えさせたかを思い出した。

「生活の余りは、

 余熱だ」

 教員は続けた。

「余熱があるから、

 夜は割れない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 説明が増えると、

 管理になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——残す

 それは、

 使わないという選択だ。

 

  • ■炊き出しの列で「鍋底をかき混ぜない」

 夜の炊き出しで、

 鍋は片づけに入っていた。

 底に少し、

 温かさが残っている。

 かき混ぜれば、

 均一になる。

 均一になると、

 配れる。

 配れると、

 もう一度、列ができる。

 青年は、

 かき混ぜなかった。

 蓋をして、

 余熱に任せた。

「明日まで」

 短く言う。

 それで十分だ。

 明日がある、という温度。

 少女が言った。

「今、使わないの?」

「余熱」

「うん。

 余熱だと、

 待てるね」

 少年は、

 鍋から立ちのぼる気配を、

 目で追った。

 触らない。

 だが忘れない。

 

  • ■釜戸の前で「灰を払わない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸の前に座った。

 灰はそのまま。

 払えば、

 きれいになる。

 きれいになると、

 次に火を入れたくなる。

 少年は、

 灰に手を入れず、

 余熱の気配だけを感じた。

 気配は、

 指示を出さない。

 指示を出さない温度は、

 人を急かさない。

 少女が言った。

「使わないの?」

「残す」

「うん。

 残すと、

 夜が続くね」

 少年は頷いた。

 続く夜は、

 朝を怖がらない。

 

  • ■影の輪で「温度を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は低く、

 静かだった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

温度を置かない。

温度を置くと、

誰かが温めようとする。

温めようとすると、

火が要る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
余熱を、 
消さなかったよ」 

 少年は頷いた。

消さないことは、

燃やすことではない。

ただ、

通り過ぎるのを待つことだ。

——そのまま、 
——待ってて。 

 節子の声が、夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は温度になる。

温度は、

言葉より長く残る。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

余熱は、

支えではなく、

合図だ。

「まだ終わっていない」という、

静かな合図。

 焼け跡の夜は、

完全な冷却を求めない。

代わりに、

余熱を抱いたまま眠ることを許す。

少年は、その許しの中で、

今日という一日が、

急かされずに

次へ渡っていくのを、

確かに感じていた。

(第百五十二章につづく)

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