佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百四十六章・第百四十七章

目次

第百四十六章 灯の薄荷──影が「痛みを冷ます匂い」を拾った夕方

 夕方、少年はふと、空気が少しだけ冷たく匂うことに気づいた。

 冷たいのではない。

 冷たく感じる匂い。

 湿った土の匂いでも、煤の匂いでもない。

 鼻の奥がすっと通るような、薄い薬草の匂い。

 たぶん、どこかの瓦礫の隙間に生えた草だろう。

 たぶん、誰も気にしない匂いだ。

 だが少年は、その匂いで胸の奥の痛みが少し冷めるのを感じた。

 灯は戻らない。

 呼び水は満たさず、脈は急がせず、余白は埋められない。

 その積み重ねの上に、夕方は「薄荷(はっか)」のような匂いを置いていく。

 薄荷は甘くない。

 甘くないから、欲を呼ばない。

 欲を呼ばないから、奪いにならない。

 痛みを消さず、ただ冷ます。

 少年は、消さない冷まし方が、いちばん長持ちすると知り始めていた。

 ——痛みはね、

——消すと戻るんだよ。

——冷ますと、

——歩けるんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、薬の名前を知りたくなる。

薬の名前を知ると、配合を求めたくなる。

配合を求めると、管理が始まる。

管理は、争いの入口だ。

 今日は、拾うだけ。

 名づけないで拾う。

 

  • ■影の道で「匂いのする隙間」を覗かない

 影の道の脇に、瓦礫の隙間があった。

そこから匂いが出ている。

覗けば草が見えるかもしれない。

引き抜けば持って帰れるかもしれない。

だが少年は覗かなかった。

覗くと、所有が始まる。

所有が始まると、守りが要る。

守りが要ると、争いが来る。

 少年は、隙間の前をゆっくり通り過ぎた。

匂いは追わない。

追わないから、匂いは匂いのまま残る。

残る匂いは、誰のものでもない。

誰のものでもないものは、奪われない。

 少女が言った。

「いい匂い?」

「冷える匂い」

「うん。

冷える匂いは、

喧嘩を止めるね」

 少年は頷いた。

熱が冷えると、言葉は短くなる。

短い言葉は刃になりにくい。

 

  • ■黒板の字が「涼」で止まり、「治」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■涼

 治すの「治」はない。

教員は短く言った。

「今日は、涼しさの話をする」

 生徒たちは少し驚いた。

涼しさは贅沢に思えるからだ。

だが教員は贅沢の話をしなかった。

「戦争は、

熱を煽った。

熱い言葉で人を動かした」

 少年は、熱い言葉がどれほど人を乱暴にしたかを思い出した。

熱い言葉は、息を奪う。

「生活の涼は、

熱を冷ます」

 教員は続けた。

「冷ますのは、

消すためではない。

歩けるようにするためだ」

 黒板の字は、それ以上増えない。

涼しさを説明しすぎると、薬になる。

薬になると管理になる。

 少年は紙に短く書いた。

——冷ます 

 その言葉は余白の端に置かれた。

 

■炊き出しの列で「怒鳴り声が出ない」

 夕方の炊き出しの列は、今日は静かだった。

いつもなら小さな苛立ちが漂う時間帯。

だが、誰も声を荒げない。

理由は分からない。

分からなくていい。

涼しさは理由を必要としない。

 青年が鍋をかき混ぜる音が、落ち着いている。

湯気は白い。

白さは赦しでも裁きでもない。

ただ、熱の形だ。

 少女が言った。

「静かだね」

「冷えてる」

「うん。

冷えると、

言葉が減るね」

 少年は椀を受け取り、ゆっくり飲んだ。

急がない。

急がないと、熱は喉を焼かない。

 

  • ■釜戸の前で「薄荷の風を通す」

 家に戻ると、少年は扉を半分開けたままにした。

閉めない扉。

風通し。

今日の風は、少し冷たい匂いを運んでくる。

その匂いが釜戸の灰の上を通り過ぎると、

胸の奥がすっと軽くなる。

軽くなるが、薄くならない。

薄くならないから、嘘にならない。

 少女が言った。

「涼しいね」

「匂いが、

冷ます」

「うん。

冷ますと、

夜が怖くないね」

 少年は頷いた。

夜は、熱いと怖い。

冷えていれば、呼吸が通る。

 

  • ■影の輪で「涼を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、輪は低く保たれていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに涼しさを置かない。

涼しさを中央に置くと、誰かが独占したくなる。

独占したくなると、争いが起きる。

涼しさは、散っているほうがいい。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

涼しさを、

散らしたよ」

 少年は頷いた。

散らした涼しさは、誰のものでもない。

誰のものでもない涼しさは、長持ちする。

 ——冷ませば、

——歩けるよ。

 節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、声は匂いになる。

匂いは、足元の生活に残る。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

夕方の痛みは、まだ胸のどこかにある。

だが、涼しい匂いがそれを冷ましている。

消さない。

ただ冷ます。

その作法が、今夜を静かに通り過ぎさせる。

 焼け跡の夕方は、

薬を約束しない。

代わりに、薄い涼しさの匂いを残す。

少年は、その匂いを拾い、名づけず、

また一日を終える準備をしていた。

第百四十七章 灯の夜露──影が「乾かしすぎない涙」を許した夜

 夜、少年は露に濡れた。

 濡れたと言っても、雨ではない。

 夜が吐いた息のような水分が、

 土の表面に、草の縁に、

 そっと置かれている。

 触れれば消えるほどの薄さ。

 だが確かに、そこにある。

 少年は、その露を拭わなかった。

 拭えば乾く。

 乾けば、次の朝は割れる。

 割れた土は、音を立てる。

 音は、理由を呼ぶ。

 理由は、誰かを責める。

 だから拭わない。

 乾かしすぎない。

 それが第百四十七章の芯だった。

 灯は戻らない。

 薄荷の匂いは痛みを冷まし、

 余白は満たされず、

 脈は急がされない。

 その積み重ねの上に、

 夜は「夜露」を置いていく。

 夜露は、涙に似ている。

 だが涙ではない。

 泣かなくても、

 目の奥は濡れていい。

 少年は、その許可を、

 夜から受け取った。

 ——乾かさなくて、

 ——いいよ。

 ——朝まで、

 ——そのままで。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、理由を探す。

 理由を探すと、

 泣くか泣かないかを決めねばならない。

 今夜は、決めない。

 

  • ■影の道で「露を踏まない」

 影の道を歩くと、草の先が光っている。

 月の光ではない。

 露だ。

 踏めば、靴底で消える。

 消えれば、何事もなかったようになる。

 だが何事もなかった、という形は、

 後から重くなる。

 少年は、露を踏まない歩き方を選んだ。

 歩幅を少し狭め、

 草の間を縫う。

 急がない。

 急がないことで、露は露のまま残る。

 少女が言った。

「冷たい?」

「うん。

 でも、

 残す」

「うん。

 残ると、

 朝が楽だね」

 少年は頷いた。

 朝が楽だと、

 昨日を責めなくて済む。

 

  • ■黒板の字が「露」で止まり、「乾」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■露

 乾の「乾」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、濡れの話をする」

 生徒たちは不思議そうな顔をした。

 濡れは、失敗の象徴だからだ。

「戦争は、

 涙を乾かせと言った。

 泣くな、と」

 少年は、泣かなかった人々の目が

 どれほど乾いていたかを思い出した。

 乾いた目は、遠くを見る。

 遠くを見ると、足元が壊れる。

「生活は、

 濡れを許す」

 教員は続けた。

「濡れは、

 壊れないための

 湿り気だ」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 濡れを説明しすぎると、

 管理が始まる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——そのまま

 それは怠けではない。

 保つための言葉だ。

 

  • ■炊き出しの列で「目を逸らさない」

 夜の炊き出しで、

 一人の大人が黙って椀を受け取っていた。

 目が赤い。

 泣いたのか、

 煙のせいか、

 分からない。

 少年は目を逸らさなかった。

 だが見つめもしなかった。

 逸らさず、

 踏み込まず。

 その距離が、

 乾かしすぎない視線だ。

 青年は何も言わず、

 椀を渡す。

 渡された椀の湯気が、

 その人の頬をかすめる。

 それだけで、

 夜は持ちこたえる。

 少女が言った。

「何も言わないね」

「乾かさない」

「うん。

 乾かさないと、

 戻れるね」

 少年は椀を受け取り、

 列を離れた。

 言葉は置いていく。

 

  • ■釜戸の前で「露を払わない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸の前に座った。

 扉は半分開いている。

 風が入り、

 露の匂いが残る。

 少年は袖で目を拭わなかった。

 拭えば、

 終わったことになる。

 終わったことは、

 片づけられる。

 片づけられると、

 戻れない。

 少女が言った。

「眠い?」

「少し。

 でも、

 濡れてる」

「うん。

 濡れてると、

 眠りが浅くならないね」

 少年は頷いた。

 浅くならない眠りは、

 朝を怖がらない。

 

  • ■影の輪で「露を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は静かにほどけていた。

 中心の空席は空席のまま。

 今日はそこに、

 涙も、露も、

 置かない。

 置くと、

 誰かが乾かそうとする。

 乾かそうとすると、

 善意が刃になる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 露を、

 そのままにしたよ」

 少年は頷いた。

 そのままにすることは、

 放置ではない。

 夜に任せる、という選択だ。

 ——朝まで、

 ——いいよ。

 節子の声が、夜の冷気に混じってそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、

 声は露になる。

 露は、夜のあいだだけ在る。

 輪の縁に腰を下ろし、

 背中を影に預ける。

 だが寄りかからない。

 露は、

 預けるものではなく、

 纏うものだ。

 焼け跡の夜は、

 涙を命じない。

 代わりに、

 乾かしすぎない濡れを許す。

 少年は、その許しの中で、

 目を閉じ、

 露が朝に返されるまで、

 静かに夜を過ごした。

(第百四十八章につづく)

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