第百四十四章 灯の脈拍──影が「急がせない時間」を抱いた朝
朝、少年は時間を急がせなかった。
時計はなかった。
鐘も鳴らなかった。
だが胸の奥で、脈が打っている。
脈は、命の合図だ。
合図は速さを命じない。
速さを命じるのは、外から来る声だ。
外の声は、いつも理由を連れてくる。
理由は、遅れを罪に変える。
だから少年は、脈の速度だけを聞いた。
聞くというより、合わせた。
合わせることで、朝は押し出されない。
それが第百四十四章の芯だった。
灯は戻らない。
壁際は守られ、低い高さは保たれ、欠片は拾われない。
その積み重ねの上に、朝は「脈拍」を置く。
脈拍は、誰かの命令ではない。
数えれば、均される。
均されると、同じ速さを強いられる。
少年は、数えなかった。
ただ、感じた。
感じる時間は、人を追い越さない。
——早くしなくていいよ、
——今は、
——生きてるって分かれば。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、正確さが欲しくなる。
今日は、正確でなくていい。
- ■影の道で「歩幅を測らない」
影の道を歩くと、朝の冷えが足首に絡む。
少年は歩幅を測らなかった。
測れば、進捗になる。
進捗になると、遅れが見える。
遅れが見えると、取り戻したくなる。
取り戻すと、呼吸が乱れる。
少年は、呼吸に足を合わせた。
一息で一歩。
だが決めない。
決めると、守らねばならなくなる。
守らねばならない歩き方は、身体を固くする。
少女が言った。
「遅い?」
「合わせてる」
「うん。
合わせると、
疲れないね」
少年は頷いた。
疲れない歩みは、朝を長くする。
- ■黒板の字が「脈」で止まり、「速」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が窓の縁で止まり、
黒板には一字だけ書かれていた。
■脈
速さの「速」はない。
教員は短く言った。
「今日は、時間の話をする」
生徒たちは、身構えた。
時間の話は、締切に繋がるからだ。
「戦争は、
時間を急がせた。
勝つまで。
終わるまで」
少年は、終わりを急がされた日々を思い出した。
急がされた終わりは、終わらなかった。
「生活の時間は、
脈に戻す」
教員は続けた。
「脈に戻すと、
人は人を待てる」
黒板の字は、それ以上増えない。
時間を説明しすぎると、時計になる。
少年は紙に短く書いた。
——合わせる
その言葉は、余白の端に置かれた。
- ■炊き出しの列で「先を数えない」
朝の炊き出しで、列は長かった。
前に何人いるか、数えようと思えば数えられる。
だが数えない。
数えると、遅さが数値になる。
数値になると、苛立ちが生まれる。
少年は、湯気の上がり方だけを見た。
上がっては消える。
消えては上がる。
それが時間の形だ。
青年が言った。
「まだある」
それで十分だ。
まだある、は脈の言葉だ。
少女が言った。
「待てる?」
「うん。
今、
動いてる」
「うん。
動いてると、
待てるね」
「待てる?」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
急がない位置だ。
- ■釜戸の前で「刻まない朝」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
火は起こさない。
だが灰の温もりは残っている。
少年は、その温もりを数えなかった。
何分、何度、という刻みをしない。
刻むと、終わりが見える。
終わりが見えると、次を急ぐ。
少女が言った。
「まだ?」
「まだ、
今」
「うん。
今があると、
朝だね」
少年は、息を一つ、返し口へ通した。
脈は乱れない。
- ■影の輪で「時間を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、輪は低く保たれていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、時間を置かない。
時間を置くと、早い者が勝つ。
勝つと、遅い者が責められる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
時間を、
急がせなかったよ」
少年は頷いた。
急がせない時間は、
誰の敵にもならない。
——そのままで、
——いいよ。
節子の声が朝の空気に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は脈になる。
脈は、体の内側で静かに続く。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
脈は自分の中にある。
外に預ける必要はない。
焼け跡の朝は、
時間を切り刻まない。
代わりに、脈を聞かせる。
少年は、その脈に歩みを合わせることで、
今日もまた、
誰かを追い越さず、
誰かに追われずに、
一日を始めていた。
第百四十五章 灯の呼び水──影が「満たさない余白」を守った昼

昼、少年は喉の渇きを満たさなかった。
満たさなかったのは、水がなかったからではない。
水はあった。
椀に半分。
半分あれば、足りる。
足りるが、満たさない。
満たすと、次の渇きが早く来る。
早く来る渇きは、要求になる。
要求は、声を荒らす。
だから少年は、口を潤すだけで止めた。
止めることで、余白が残る。
余白は、呼び水になる。
それが第百四十五章の芯だった。
灯は戻らない。
脈は急がされず、壁際は保たれ、低い高さは守られている。
その積み重ねの上に、昼は「呼び水」を置く。
呼び水は、満たすために注がない。
流れを思い出させるために、少しだけ置く。
少年は、その少しを、今日の基準にした。
——いっぱいじゃなくて、
——いいんだよ。
——流れれば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、量を測りたくなる。
今日は、測らない。
- ■影の道で「水たまりを踏まない」
影の道に、小さな水たまりがあった。
雨の名残。
踏めば、靴は濡れる。
濡れれば、乾かしたくなる。
乾かしたくなると、火を探す。
火を探すと、熱が動く。
少年は、水たまりの縁を歩いた。
縁は、満ちても溢れない場所だ。
溢れないから、形が保たれる。
形が保たれると、道は続く。
少女が言った。
「踏まないの?」
「縁」
「うん。
縁だと、
濡れないね」
少年は頷いた。
濡れないことで、次を急がない。
- ■黒板の字が「余」で止まり、「満」は書かれない
教室に入ると、昼の光が窓枠に溜まり、
黒板には一字だけ書かれていた。
■余
満の「満」はない。
教員は短く言った。
「今日は、余白の話をする」
生徒たちは、首を傾げた。
余白は、欠けに見えるからだ。
「戦争は、
満たすことを求めた。
兵で。
声で。
正しさで」
少年は、満たされた言葉が、どれほど人を押し流したかを思い出した。
満ちると、溢れる。
溢れは、制御できない。
「生活の余白は、
呼び水だ」
教員は続けた。
「余白があるから、
流れは戻る」
黒板の字は、それ以上増えない。
余白を説明しすぎると、埋めたくなる。
少年は紙に短く書いた。
——少し
その言葉は、中央ではなく、端に置かれた。
- ■炊き出しの列で「おかわりを言わない」
昼の炊き出しで、鍋にはまだ余裕があった。
少年は椀を差し出し、受け取る。
量はいつもと同じ。
おかわりは言わない。
言えば、満ちる。
満ちれば、次が欲しくなる。
青年が一瞬、少年の椀を見た。
何も言わない。
無言は、余白を尊重する合図だ。
少女が言った。
「足りる?」
「足りる。
満たさない」
「うん。
満たさないと、
午後が長いね」
少年は、ゆっくり椀を空にした。
空にしても、満ちない。
満ちないから、眠くならない。
- ■釜戸の前で「水を半分残す」
家に戻ると、少年は水瓶の前に立った。
柄杓で水をすくう。
半分だけ注ぐ。
半分は残す。
残すことで、水は動く。
動く水は、腐らない。
少女が言った。
「全部じゃないね」
「呼び水」
「うん。
呼び水があると、
戻ってくるね」
少年は頷いた。
戻ってくる流れは、奪わない。
- ■影の輪で「余白を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、輪は低く、風が通っていた。
中心の空席は、今日も空席のまま。
そこに余白を置かない。
余白を掲げると、誰かが埋めに来る。
埋めに来ると、競争が始まる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
余白を、
守ったよ」
少年は頷いた。
守るのは、埋めないことだ。
——少し、
——残してね。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は水になる。
水は、低いところへ戻る。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
余白は、自分の内側にある。
内側に余白があると、外に奪われない。
焼け跡の昼は、
満腹を約束しない。
代わりに、呼び水を残す。
少年は、その少しを守ることで、
午後の時間が、
静かに流れ続けるのを感じていた。
(第百四十六章につづく)

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