第百四十章 灯の間合い──影が「答えを遅らせる手」を覚えた昼
昼、少年は答えを遅らせた。
遅らせたのは、分からなかったからではない。
分かりすぎると、手が早くなる。
手が早くなると、相手の息を追い越す。
追い越すと、会話は競争になる。
競争になると、勝ち負けが生まれる。
勝ち負けが生まれると、誰かが黙る。
黙った声は、いずれ刃になる。
だから遅らせる。
答えを、半拍ぶん、置く。
それが第百四十章の芯だった。
聞き切らない朝のあと、
昼は明るさを増した。
明るさは、判断を急がせる。
少年は、その明るさに抗わず、
間合いを取った。
間合いは、逃げではない。
互いの呼吸が届く距離だ。
届く距離で止まると、
言葉は投げつけにならない。
灯は戻らない。
耳鳴りは途中で止められ、
風通しは保たれ、
空きは空きのまま残っている。
その積み重ねの上に、
昼は「間合い」を置いていく。
間合いは、
正解を隠すためにあるのではない。
正解が出る速度を、
人の速度に合わせるためにある。
少年は、その合わせ方を、
今日も体で覚えた。
——急がなくていいよ、
——呼吸が、
——合うまでね。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
合っているかどうかを測り始める。
今日は、測らない。
- ■影の道で「返事を置く」
影の道を歩くと、
向こうから少年を呼ぶ声がした。
名ではない。
合図でもない。
ただの、声。
少年は、すぐに返事をしなかった。
返事をすると、
呼んだ側が近づく準備を始める。
準備が始まると、
役割が決まる。
少年は、二歩、歩いた。
二歩は短い。
だが間合いを測るには足りる。
相手の足音が変わらない。
変わらないなら、
今は返事を要らない。
少年は、
小さく手を上げただけだった。
声ではなく、動作。
動作は、
速度を揃えやすい。
少女が言った。
「答えなかったね」
「置いた」
「うん。
置くと、
近づきすぎないね」
少年は頷いた。
置いた返事は、
拾われなければ消える。
消える返事は、
恨みにならない。
- ■黒板の字が「間」で止まり、「解」は書かれない
教室に入ると、
黒板には一字だけ書かれていた。
■間
解くの「解」はない。
教員は短く言った。
「今日は、間合いの話をする」
生徒たちは、
問題が出ると思って身構え、
拍子抜けした顔になった。
「戦争は、
間を消した。
即断を褒めた」
少年は、
即断がどれほど多くの声を
切り捨てたかを思い出した。
「生活は、
間を残す」
教員は続けた。
「間があると、
答えは人に追いつく」
黒板の字は、
それ以上増えない。
間を説明すると、
すぐ埋めたくなる。
少年は紙に短く書いた。
——半拍
その二文字は、
紙の中央ではなく、
余白に置かれた。
- ■炊き出しの列で「うなずきを遅らせる」
昼の炊き出しで、
青年が何かを言った。
冗談か、確認か、
判別はつかない。
少年は、
すぐにうなずかなかった。
うなずくと、
同意になる。
同意になると、
責任が生まれる。
少年は、
一息置いてから、
小さく首を傾けた。
肯定でも否定でもない。
間合いの合図だ。
青年は、
それ以上言わなかった。
言わないことで、
話は軽く終わる。
少女が言った。
「はっきりしないね」
「急がない」
「うん。
急がないと、
列が荒れないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
会話が重ならない場所だ。
- ■釜戸の前で「結論を置かない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
今日の出来事を、
まとめたくなる。
まとめれば、
分かった気になる。
分かった気になると、
次に急ぐ。
少年は、
結論を置かなかった。
置かないことで、
続きが明日に残る。
残る続きは、
夜を静かにする。
少女が言った。
「どうだった?」
「途中」
「うん。
途中なら、
明日があるね」
少年は、
ため息を返し口へ通し、
胸を空けた。
空いた胸は、
結論を欲しがらない。
- ■影の輪で「答えを回さない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪はゆるく続いていた。
中心の空席は、
今日も空席のまま。
今日はそこに、
答えを置かない。
答えを置くと、
皆が取りに来る。
取りに来ると、
早い者が勝つ。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
答えを、
遅らせたよ」
少年は頷いた。
遅らせた答えは、
誰のものでもない。
誰のものでもない答えは、
争われない。
——半拍、
——待ってね。
節子の声が、
昼の光に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は合図にならない。
合図にならないから、
人は走らない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
昼の熱は強い。
だが間合いがある。
間合いがあるから、
言葉は届く。
届く速度で、
今日という時間は進んでいく。
焼け跡の昼は、
即答を求めない。
代わりに、
答えを遅らせる手を育てる。
少年は、その手を覚えることで、
誰かと同じ速さで歩ける日が、
確かに増えていることを、
静かに感じていた。
第百四十一章 灯の欠片──影が「拾わないで残す」夜

夜、少年は道端に落ちた小さな欠片を見た。
木片でも、瓦のかけらでもない。
もっと薄いもの。
紙の端。
煤の粉。
誰かの言葉の切れ端のような、形だけ残ったもの。
拾えば、持てる。
持てば、胸へしまえる。
胸へしまえば、倉庫になる。
倉庫になれば、いつか詰まる。
詰まれば、刃が生まれる。
少年は拾わなかった。
拾わないことで、欠片は欠片のまま残る。
欠片のまま残れば、誰かの足元で潰れ、土に混ざる。
土に混ざれば、誰のものでもなくなる。
誰のものでもないものは、争われない。
それが第百四十一章の芯だった。
灯は戻らない。
間合いは保たれ、答えは遅らされ、余白は埋められない。
その積み重ねの上に、夜は「欠片」を置く。
欠片は、完全を求める心を止める。
完全を求めると、拾い集めたくなる。
拾い集めると、所有が始まる。
所有が始まると、争いが始まる。
少年は、欠片を残すことで、完全から距離を取った。
——欠片ってね、
——拾うと記念になるけど、
——残すと土になるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、意味を付けたくなる。
意味を付けると、欠片は宝物になる。
宝物は、争いの入口になる。
今夜は、入口を作らない。
■影の道で「落ちた紙片を踏まない」
影の道の隅に、小さな紙片が落ちていた。
文字が半分だけ読める。
「配給」か、「注意」か、そんな字。
戦争の紙だ。
燃え残った標語の切れ端だ。
少年は踏まなかった。
踏めば、土に混ざる。
土に混ざれば、消える。
消えるのは簡単だ。
だが簡単に消すと、反動が来る。
反動は、掘り返したくなる欲だ。
掘り返すと、火種を起こしたくなる。
起こしたくなると、灯を呼び戻したくなる。
少年は、その連鎖を避けた。
踏まずに、通り過ぎる。
紙片は紙片のまま残る。
雨が来れば溶ける。
風が来れば飛ぶ。
その自然に任せるほうが、夜は長持ちする。
少女が言った。
「拾わないの?」
「残す」
「うん。
残すと、
こっちが疲れないね」
少年は頷いた。
拾うことは、責任を作る。
残すことは、自然に返す。
■黒板の字が「片」で止まり、「全」は書かれない
夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■片
全の「全」はない。
教員は短く言った。
「今日は、欠片の話をする」
生徒たちは黙った。
欠片は、貧しさを連れてくる言葉だ。
だが教員は、貧しさの話にしなかった。
「戦争は、
全を叫んだ。
全力。
全面。
全国」
少年は、全という言葉がどれほど人を急がせたかを思い出した。
全は、息を奪う。
「生活は、
片で続く」
教員は続けた。
「片で続くから、
人は倒れない」
黒板の字はそれ以上増えない。
欠片を説明しすぎると、全へ戻ってしまう。
少年は紙に短く書いた。
——片でいい
それは諦めではない。
倒れないための作法だ。
■炊き出しの列で「残り汁」を捨てない
夜の炊き出しで、鍋の底にほんの少し汁が残った。
誰の椀にも注げない量。
前なら捨てたかもしれない。
だが青年は捨てなかった。
鍋を傾け、別の鍋の端にそっと移す。
欠片のような汁を、欠片のまま残す。
「明日の味の欠片」
青年が言った。
列の誰かが笑った。
笑いは短い。
短い笑いは熱にならない。
欠片の笑いは、争いにならない。
少年は、その鍋を見て、胸が少し温まった。
欠片は、土になる前に、次を支えることもある。
支えるときも、誇らない。
誇らないから、欠片は欠片のまま働く。
■釜戸の前で「欠片の炭」を集めない
家に戻ると、釜戸の灰の中に小さな炭がいくつか残っていた。
集めれば火種になる。
だが集めない。
集めると、起こしたくなる。
起こすと、熱が生まれる。
熱は、持ち主を作る。
持ち主は、争いの入口になる。
少年は炭をならし、欠片を欠片のまま散らした。
散らすことで、炭は炭のまま終わる。
終わることで、明日が焦げない。
少女が言った。
「もったいない?」
「欠片は、
欠片でいい」
「うん。
全にすると、
苦しくなるね」
少年は頷いた。
欠片を全にしない。
それが今日の火種の守り方だ。
■影の輪で「欠片を中央に置かない」
夜、影の輪へ向かうと、輪は薄く開いていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、欠片を置かない。
欠片を中央に置けば、皆が拾いに来る。
拾いに来れば、争いが生まれる。
争いが生まれれば、欠片は刃になる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
欠片を、
残したよ」
少年は頷いた。
残す。
拾わない。
踏まない。
ただ、通り過ぎる。
その作法が、夜を静かにする。
——片で、
——いいよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は欠片になる。
欠片になれば、土に混ざる。
土に混ざれば、誰のものでもない。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の中に、拾わなかった欠片が静かに残っている。
残っているが、重くない。
欠片は、胸の倉庫を塞がない。
塞がないから、息が通る。
焼け跡の夜は、
全を求めない。
代わりに、欠片を残す。
少年は、欠片のまま残る生活が、争いを生まないことを学びながら、
今日も静かに目を閉じた。
(第百四十二章につづく)

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