第百三十六章 灯の引き潮──影が「求めない返礼」を選んだ昼
昼、少年は“返礼”を求めなかった。
求めなかった、というより、
求める前に手を離した。
手を離すと、何も残らないように見える。
だが実際には、
求めない余地が残る。
余地が残ると、
関係は硬くならない。
硬くならないから、
昼の熱は引き潮になる。
それが第百三十六章の芯だった。
踏み込まない親切の翌朝、
少年の中には、
小さな期待が芽を出しかけていた。
気づかれたい。
分かってほしい。
それは自然な熱だ。
だがその熱は、
放っておくと潮を満たし、
境目を越えてしまう。
少年は、
その熱が満ちる前に、
引かせることを選んだ。
灯は戻らない。
手前は守られ、
行き違いは赦され、
戻り道は残されている。
その積み重ねの上に、
昼は「引き潮」を連れてくる。
引き潮は、
奪わない。
取り立てない。
ただ、
満ちすぎたものを
静かに沖へ返す。
少年は、その動きを、
胸の内側で真似た。
——お礼はね、
——受け取らないほうが、
——長く続くこともあるよ。
節子の声が、
背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
証が欲しくなる。
証が欲しくなると、
返礼が始まる。
今日は、始めない。
- ■影の道で「視線を返さない」
影の道を歩くと、
昨日の荷車の男が、
向こうから歩いてきた。
男は、
少年を見た。
ほんの一瞬。
何かを思い出したような目。
だが言葉はない。
少年は、
視線を深く返さなかった。
軽く、
通り過ぎる。
視線を返すと、
合図になる。
合図になると、
関係が生まれる。
関係が生まれると、
返礼が生まれる。
通り過ぎることで、
昨日は昨日のまま終わる。
終わることで、
今日が軽く始まる。
少女が言った。
「気づいてた?」
「たぶん。
でも、
返さない」
「うん。
返さないと、
昨日が増えないね」
少年は頷いた。
増えない昨日は、
生活を圧迫しない。
- ■黒板の字が「返」で止まり、「礼」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が黒板を照らし、
一字だけが書かれていた。
■返
礼の「礼」はない。
教員は短く言った。
「今日は、返しの話をする」
生徒たちは、
礼の話だと思って身構えた。
だが、
続きは違った。
「戦争は、
返礼を強いた。
恩に報いろ、と」
少年は、
恩が借金に変わる瞬間を思い出した。
借金は、
人を縛る。
「生活の返しは、
返さない選択を含む」
教員は続けた。
「返さないことで、
関係が保存されることもある」
黒板の字は、
それ以上増えない。
返礼を説明しすぎると、
義務になる。
少年は紙に短く書いた。
——引き潮
その言葉は、
胸ではなく、
机の影に置いた。
- ■炊き出しの列で「礼を短くする」
昼の炊き出しで、
少年は椀を受け取った。
昨日と同じ青年だ。
少年は、
礼を言わなかった。
代わりに、
軽く頭を下げた。
頭を下げる角度は浅い。
深く下げると、
借りが生まれる。
借りが生まれると、
返礼が必要になる。
青年は、
それで十分だという顔をした。
顔は言葉よりも、
返し口を塞がない。
少女が言った。
「言わなかったね」
「言うと、
始まる」
「うん。
始まらないほうが、
楽だね」
少年は、
列を離れ、
影の端で椀を口に運んだ。
味は決めない。
決めると、
評価が始まる。
- ■釜戸の前で「感謝を息に溶かす」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
胸の奥に、
ありがとう、
という言葉が浮かぶ。
だが声にしない。
声にすると、
行き先が必要になる。
行き先がある言葉は、
返礼を求める。
少年は、
その言葉を息に溶かした。
ため息として、
返し口へ通す。
通せば、
言葉は誰のものでもなくなる。
少女が言った。
「軽いね」
「求めてない」
「うん。
求めないと、
残らないね」
少年は、
残らないことを良しとした。
残らない関係は、
倉庫にならない。
- ■影の輪で「恩を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く広がっていた。
中心の空席は、
今日も空席のまま。
そこに、
“恩”を置かない。
恩を置くと、
序列が生まれる。
序列が生まれると、
声が荒れる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
返礼を、
求めなかったよ」
少年は頷いた。
求めないことで、
関係は閉じない。
閉じないから、
いつでも行き違える。
——引かせて、
——いいよ。
節子の声が、
昼の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は潮になる。
満ちも引きもする、
ただの自然になる。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
昼の光は強い。
だが胸の中では、
潮が静かに引いている。
求めなかった返礼。
返さなかった視線。
短くした礼。
それらが、
人と人の間に、
余計な重さを残さない。
焼け跡の昼は、
恩を数えない。
代わりに、
引き潮の間合いを教える。
少年は、その間合いを覚えることで、
誰かと並んで生きる距離を、
また一つ、
自分のものにしていた。
第百三十七章 灯の空き家──影が「住まない場所」を残した夕方

夕方、少年は“空き家”に入らなかった。
入ろうと思えば入れた。
戸は半分外れ、柱は焼け、
雨をしのげるだけの形は残っている。
だが入らない。
住めば、名が付く。
名が付けば、所有が始まる。
所有が始まれば、守りが要る。
守りが要れば、争いが寄ってくる。
だから入らない。
入らないことで、夕方は広くなる。
それが第百三十七章の芯だった。
灯は戻らない。
引き潮は満ちすぎを戻し、
返礼は求められず、
手前は守られている。
その積み重ねの上に、
夕方は「空き家」を差し出す。
空き家は、住むためにあるのではない。
通るためにある。
通るだけなら、責任は軽い。
軽い責任は、夜を呼ばない。
——住まない場所があるとね、
——心は散らからないんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、選択が義務になる。
今日は、義務にしない。
- ■影の道で「屋根の下を選ばない」
影の道は、夕方になると雨を含む匂いを運ぶ。
雲が低く、
今にも降りそうだ。
屋根の残った家影は、
自然と足を引く。
だが少年は、
屋根の下を選ばなかった。
屋根の下に入ると、
留まる理由が生まれる。
理由が生まれると、
いつ出るかを考え始める。
考え始めると、
出ることが負担になる。
少年は、
屋根の縁をなぞるように歩いた。
縁を歩くと、
中にも外にもならない。
中にも外にもならない場所は、
争いの外にある。
少女が言った。
「濡れるよ」
「少しなら」
「うん。
少しなら、
住まなくていいね」
少年は頷いた。
濡れることは、
住む理由にならない。
- ■黒板の字が「空」で止まり、「占」は書かれない
教室に入ると、
夕方の光が薄く差し込み、
黒板には一字だけが残っていた。
■空
占めるの「占」はない。
教員は短く言った。
「今日は、空きの話をする」
生徒たちは、
空きと聞いて、
何を思えばいいのか分からなかった。
空きは、
減らすものだと教えられてきたからだ。
「戦争は、
空きを嫌った。
空きを責めた」
少年は、
空席を疑われた会議の話を思い出した。
空きは、不安を呼ぶ。
「生活の空きは、
逃げ場だ」
教員は続けた。
「空きがあるから、
人は詰まらない。
詰まらないから、
刃にならない」
黒板の字は、
それ以上増えない。
空きを説明すると、
すぐ埋めたくなる。
少年は紙に短く書いた。
——住まない
その言葉は、
机の隅に置かれた。
- ■炊き出しの列で「席を作らない」
夕方の炊き出しで、
空いた椅子が一脚あった。
少年は座らなかった。
座れば、
次の人が座れない。
次の人が座れないと、
誰かが譲る。
譲れば、
返礼が生まれる。
少年は立ったまま待った。
立っていれば、
場所は占めない。
占めないことで、
空きは保たれる。
青年は、
椀を差し出しながら、
何も言わなかった。
無言は、
席を作らない合意だ。
少女が言った。
「座らないの?」
「立つと、
空きが残る」
「うん。
空きがあると、
来やすいね」
少年は椀を受け取り、
壁際へ移動した。
壁際は、
通路になる。
通路は、
住む場所ではない。
- ■釜戸の前で「仮住まいをしない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
少し寒い。
火を起こせば暖まる。
だが起こさない。
火を起こすと、
ここに住む理由ができる。
理由ができると、
出るときに名残が生まれる。
名残は、
胸を重くする。
少年は、
肩をすくめ、
息を吐いた。
息で暖を取る。
仮住まいをしない。
仮住まいは、
やがて本住まいになる。
少女が言った。
「寒い?」
「少し。
でも、
通るだけ」
「うん。
通るなら、
寒くてもいいね」
少年は、
寒さを数えなかった。
数えると、
理由が増える。
- ■影の輪で「場所を中央に置かない」
夕方、影の輪へ向かうと、
輪はゆるくほどけていた。
中心の空席は、
空席のまま。
今日は、
そこに“場所”を置かない。
場所を置くと、
誰が住むかを決めねばならない。
決めると、
争いが始まる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
空き家に、
入らなかったよ」
少年は頷いた。
入らない選択は、
逃げではない。
戻れる道を残すための、
夕方の作法だ。
——住まなくて、
——いいよ。
節子の声が、
夕方の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は場所にならない。
場所にならないから、
誰も争わない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
雨が、
ぽつりと落ちた。
濡れる肩。
だが心は濡れない。
住まなかった場所が、
胸の中に空きを残しているからだ。
焼け跡の夕方は、
居場所を急がせない。
代わりに、
住まない場所を残す。
少年は、その空きを携えて、
夜へ向かう道を、
静かに選び続けていた。
(第百三十八章につづく)

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