第百三十四章 灯の戻り道──影が「遅れて合流する勇気」を持った夜
夜、少年は遅れた。
遅れたのは、走らなかったからだ。
走らなかったのは、熱を生まないためだ。
熱を生まないために、会わない選択をした夕方があった。
だが会わない選択のあとには、必ず“合流”が残る。
合流は、会うよりも難しい。
会うのは偶然で済む。
合流は、意志になる。
意志になると、責任が生まれる。
責任が生まれると、胸が倉庫になりやすい。
少年は、合流を急がなかった。
急げば、弁解が先に立つ。
弁解が先に立つと、言葉が刃になる。
だから遅れて合流する。
遅れて合流するためには、戻り道が要る。
戻り道があるから、遅れは罪にならない。
それが第百三十四章の芯だった。
灯は戻らない。
行き違いは赦され、薄明は名づけられず、片隅の幸いは拾われない。
その積み重ねの上に、夜は「戻り道」を見せる。
戻り道は、正しさを取り戻す道ではない。
合流できるように残された道だ。
少年は、その道をゆっくり辿った。
——遅れてもね、
——戻り道があれば、
——ちゃんと合流できるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、証拠が要る。
証拠が要ると、責めが生まれる。
今夜は、責めない。
- ■影の道で「足音を戻す」
夜の影の道は、昼よりも道が狭く感じる。
暗いからだ。
暗いと、人は自分の足音だけを信じる。
信じる足音が乱れると、心も乱れる。
少年は足音を乱さないように、
歩幅を小さくし、呼吸を深くした。
一本手前の路地を思い出す。
昨夜迷った路地。
あの壁は足音を戻した。
足音が戻るということは、
戻り道があるということだ。
少年は今日、わざとその路地へ入った。
迷うためではない。
戻るために入る。
戻るために入ると、迷いは怖くない。
怖くないから、走らない。
走らないから、遅れが穏やかになる。
少女が言った。
「また、そこ?」
「戻り道の、
練習」
「うん。
練習すると、
遅れても慌てないね」
少年は頷いた。
遅れは、慌てが生む。
慌てを消すには、戻り道を体で覚えるしかない。
- ■黒板の字が「戻」で止まり、「急」は書かれない
夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■戻
急ぐの「急」はない。
教員は短く言った。
「今日は、戻る話をする」
生徒たちは、少し安心した。
戻れると言われると、胸がゆるむ。
胸がゆるむと、息が深くなる。
「戦争は、
戻り道を消した。
撤退を恥にした」
少年は、撤退を笑われた兵の顔を思い出した。
笑いは人を殺す。
「生活の戻りは、
恥じゃない」
教員は続けた。
「戻るとは、
失敗を消すことじゃない。
合流するための道を
残すことだ」
少年は紙に短く書いた。
——遅れて合流
その一行は、今夜の胸の置き場を広げた。
- ■炊き出しの列で「遅れを言わない」
夜の炊き出しへ着くと、列は短くなっていた。
少年は少し遅れた。
だが遅れたことを言わない。
言うと、弁解になる。
弁解になると、誰かが許す役になる。
許す役が生まれると、上下が生まれる。
上下が生まれると、争いの芽ができる。
青年は鍋の前で少年を見て、何も言わなかった。
無言が戻り道だ。
無言は、遅れを罪にしない。
少女が言った。
「何も言われないね」
「戻り道が、
あるから」
「うん。
戻り道があると、
みんな楽だね」
少年は椀を受け取り、短く頷いた。
遅れた分を取り返さない。
取り返すと、誰かを押す。
押すと、熱が生まれる。
今夜は熱を作らない。
- ■釜戸の前で「遅れを整える」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
遅れたことが、背中の奥で少しだけ疼く。
だが疼きを胸へ運ばない。
胸へ運ぶと、倉庫になる。
代わりに、息で整える。
ため息を一つ。
返し口へ通す。
通せば、遅れは外へ出る。
少女が言った。
「追いつきたい?」
「追いつくと、
乱す」
「うん。
乱さないほうが、
合流だね」
少年は頷いた。
合流は速度の一致ではない。
呼吸の一致だ。
半拍遅れても、呼吸が合えば合流できる。
- ■影の輪で「遅れた席」を用意しない
夜、影の輪へ向かうと、輪はゆるく開いていた。
中心の空席は空席のまま。
今日は、遅れた者の席を作らない。
席を作ると、遅れが固定される。
固定されると、恥が生まれる。
恥が生まれると、戻れなくなる。
遅れた者は、ただ縁に座ればいい。
誰も数えない。
誰も名づけない。
それが、戻り道の作法だ。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
遅れたまま、
合流したよ」
少年は、中心の空席を見た。
空席は、誰も迎えない。
だが、拒まない。
拒まないことが、合流の条件だ。
——遅れても、
——いいよ。
節子の声が、夜の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は道標にならない。
道標にならないから、道は一本にならない。
一本にならないから、戻り道は残る。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
遅れた分の冷えが、まだ指先に残っている。
だが冷えは責めではない。
戻り道を歩いた証だ。
焼け跡の夜は、
合流を命令しない。
代わりに、遅れて合流する勇気を許す。
少年は、その許しの中で、
今日という一日を静かに終え、
明日もまた戻れるように、胸の置き場を空けて眠った。
第百三十五章 灯の手前──影が「踏み込まない親切」を覚えた朝

朝、少年は“手前”という距離を覚えた。
近づけば助けられる。
だが近づきすぎると、助けは支配になる。
支配になると、返し口が塞がる。
塞がると、言葉が胸に溜まる。
溜まると、いつか刃になる。
だから手前で止まる。
止まることで、親切は親切のまま残る。
遅れて合流した夜が終わり、朝が来た。
朝は、今日も誰かの遅れを許す。
許すためには、踏み込まない親切が要る。
踏み込まない親切は、見落とされる。
見落とされるから、争いにならない。
それが第百三十五章の芯だった。
灯は戻らない。
戻り道は残り、合流は急がれず、行き違いは赦される。
その積み重ねの上に、朝は「灯の手前」を置いてくる。
灯の手前とは、灯を見つけても手を伸ばしすぎない場所だ。
伸ばしすぎないから、火傷しない。
火傷しないから、熱を恨みに変えない。
少年はその距離を、今日の呼吸の幅で測った。
——親切ってね、
——踏み込むと、
——壊れるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、正しさが出る。
正しさが出ると、親切が命令になる。
今日は、命令にしない。
- ■影の道で「声をかけない助け」
影の道を歩くと、荷車の車輪が瓦礫に引っかかっていた。
押しているのは老いた男一人。
力が足りない。
だが男は誰にも頼まない。
頼めば借りになる。
借りになると、返さねばならない。
返さねばならないと、胸が詰まる。
少年は、近づきすぎない位置で止まった。
手を出せば簡単だ。
だが手を出すと、男は礼を言わねばならない。
礼を言えば、男の胸が倉庫になる。
少年はそれを避けた。
少年は代わりに、瓦礫の小石を足でそっとどけた。
どけたのは、男から見えない側だ。
男が気づかない側。
気づかないほうが、助けは長持ちする。
車輪が少し動き、荷車は前へ進んだ。
男は理由を知らない。
知らないまま進む。
それでいい。
踏み込まない親切は、名づけない。
少女が言った。
「助けたね」
「手前で」
「うん。
手前の親切は、
軽いね」
少年は頷いた。
軽い親切は、返し口を塞がない。
- ■黒板の字が「前」で止まり、「押」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■前
押すの「押」はない。
教員は短く言った。
「今日は、“手前”の話をする」
生徒たちは首を傾げた。
手前は、逃げ腰に聞こえるからだ。
「戦争は、
踏み込めと言った。
押し出せと言った」
少年は、踏み込みの命令が、どれだけ人を乱暴にしたかを思い出した。
踏み込むと、相手の境目が消える。
境目が消えると、奪いになる。
「生活の手前は、
境目を守る」
教員は続けた。
「境目があるから、
合流できる。
境目がないと、
ぶつかる」
黒板の字はそれ以上増えない。
手前の説明を増やすほど、手前は後ろに逃げる。
手前は、動作で覚えるものだ。
少年は紙に短く書いた。
——踏み込まない
その言葉は、机の端に置かれた。
- ■炊き出しの列で「順番を譲らない親切」
朝の炊き出しで、少年の前に小さな子が割り込もうとした。
少年は一歩だけ後ろへ下がった。
譲ったように見える。
だが完全には譲らない。
完全に譲ると、子は“譲られた”ことを覚える。
覚えると、次も割り込む。
次も割り込めば、列が荒れる。
荒れれば、誰かが叱る。
叱れば、子は怯える。
怯えは、将来の刃になる。
少年は、子が落とした布切れを拾い、足元に置いた。
それだけ。
順番は守る。
物だけ戻す。
踏み込まない親切は、秩序を壊さない。
青年が鍋の前で言った。
「並べ」
一言で終わる。
長く叱らない。
長く叱ると、支配になる。
支配は、列の空気を腐らせる。
少女が言った。
「譲らないのも、
親切?」
「うん。
手前の親切」
「うん。
手前だと、
みんなが楽だね」
少年は椀を受け取り、短く頷いた。
礼を言いすぎない。
礼を言いすぎると、親切が重くなる。
- ■釜戸の前で「問いかけない」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
さっきの男の荷車のことが、頭に浮かぶ。
助けた、と言いたくなる。
自分の胸を軽くしたくなる。
だが言えば、男の胸が重くなる。
だから言わない。
言わないことが、手前の親切の仕上げだ。
少女が言った。
「言いたい?」
「言うと、
踏み込む」
「うん。
踏み込まないほうが、
続くね」
少年は、ため息を一つ、返し口へ通した。
自分の胸の軽さは、息で作ればいい。
誰かの胸を借りない。
- ■影の輪で「親切を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、輪はゆるく開いていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、“親切”を置かない。
親切を中央に置くと、競争になる。
競争になると、踏み込みが始まる。
踏み込みが始まると、境目が壊れる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
親切を、
真ん中に置かなかったよ」
少年は頷いた。
親切は片隅でいい。
見落とされるほうがいい。
見落とされる親切は、返し口を塞がない。
——手前で、
——止まってね。
節子の声が、朝の光に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は命令にならない。
命令にならないから、親切は親切のまま残る。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
朝の空気は冷たい。
だが、踏み込まなかった分だけ、胸は軽い。
軽い胸は、今日の歩みを乱さない。
焼け跡の朝は、
大きな救いを求めない。
代わりに、踏み込まない親切を、手前の距離に置く。
少年はその距離を覚えることで、
争いの種を、芽のうちに踏まずに済むことを知り、
また静かに一日を始めた。
(第百三十六章につづく)

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