第百三十章 灯の見取り図──影が「迷いを残す道」を許した夜
夜、少年は道を間違えた。
間違えた、と言っても、目的地があるわけではない。
ただ、いつもの角を曲がらず、一本手前の細い路地へ入ってしまった。
入った瞬間、空気が変わった。
湿り気が多い。
匂いが違う。
足元の砂利の鳴り方が、乾いていない。
少年は立ち止まりかけ、立ち止まらなかった。
立ち止まると、間違いが罪になる。
罪になると、戻ることが恥になる。
恥になると、誰かを恨む。
恨むと、灯を呼び戻す熱が生まれる。
少年は、そのまま歩いた。
迷いを残す道を許す夜。
それが第百三十章の芯だった。
灯は戻らない。
余白は埋められず、受け渡しは一瞬で終わり、言葉は返し口を通る。
その積み重ねの上に、夜は「見取り図」を置いていく。
見取り図は、正しい道を示すためにあるのではない。
迷いの形を残すためにある。
迷いが形を持つと、人は迷いを責めないで済む。
責めないで済むと、夜は少し眠りやすい。
——道ってね、
——正しいほうへ行くためじゃなくて、
——戻れるようにあるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を教えにしなかった。
教えにすると、道は一本になる。
一本になると、迷った者が責められる。
今夜は、一本にしない。
- ■影の道で「戻り角を増やす」
路地は狭く、壁の影が濃い。
月明かりは届きにくい。
その代わり、音がよく響いた。
少年の足音が、自分の耳へ戻ってくる。
戻ってくる音は、返し口に似ている。
言葉を戻す穴。
今夜の路地は、足音を戻す壁を持っていた。
少年は、壁に手を触れなかった。
触れれば確かめたくなる。
確かめれば、地図を作りたくなる。
地図を作れば、道は命令になる。
代わりに、少年は角をひとつ、心の中で数えた。
数えるが、記録しない。
記録しないから、義務にならない。
義務にならないから、迷いは許される。
少女が言った。
「いつもの道じゃないね」
「うん。
でも、
戻れる」
「うん。
戻れるなら、
迷っていいね」
少年は頷いた。
迷っていい。
この一言が、夜の肩を軽くする。
- ■黒板の字が「図」で止まり、「正」は書かれない
夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■図
正しいの「正」はない。
教員は黒板を見て言った。
「今日は、見取り図の話をする」
生徒たちは、紙と鉛筆を手に取ろうとして、やめた。
書けと言われていない。
書けば、正解が生まれる。
正解が生まれると、間違いが生まれる。
間違いが生まれると、責めが生まれる。
「戦争は、図を一本にした。
進路を一本にした。
帰り道を消した」
少年は、帰り道のない列車に乗った人々の顔を思い出した。
帰り道がないと、人は狂う。
「生活の図は、
戻り角を残す」
教員は続けた。
「戻り角があると、
迷いは罪じゃない。
罪じゃない迷いは、
学びにもならない。
ただの生活になる」
少年は紙に短く書いた。
——戻り角
その二文字は、今夜の路地の壁の匂いと一緒に胸の外へ置かれた。
- ■炊き出しの列で「道を聞かない」
夜の炊き出しへ向かう途中、少年は一度だけ迷った。
灯りの少ない交差点。
右か左か。
どちらでも行ける。
だが少年は、誰にも道を聞かなかった。
道を聞くと、答えが正解になる。
正解になると、次に迷ったときに恥が生まれる。
少年は、匂いで選んだ。
煮えた湯気の匂い。
薪の煙の匂い。
遠くで、薄く甘い匂い。
匂いは地図にならない。
地図にならないから、支配にならない。
辿り着くと、青年は何も言わなかった。
遅れたことを責めない。
責めないことで、戻り角が保たれる。
少女が言った。
「聞かなかったね」
「聞くと、
一本になる」
「うん。
一本は、
苦しいね」
少年は椀を受け取り、今日の分を静かに飲んだ。
迷いが喉の奥に残る。
だが迷いは苦くない。
迷いは、戻れるからだ。
- ■釜戸の前で「地図を描かない」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
紙切れが一枚あれば、地図が描ける。
描けば、安心する。
安心すると、油断する。
油断すると、他人の迷いを責める。
責めると、道は一本になる。
少年は描かなかった。
代わりに、足の裏の感覚を思い出した。
湿った砂利。
狭い壁。
戻ってくる足音。
それらを胸にしまわず、床の影に置いた。
置くと、記憶は見取り図にならない。
ならないから、命令にならない。
少女が言った。
「描かないの?」
「描くと、
責める」
「うん。
責めないなら、
描かなくていいね」
少年は息を吐いた。
ため息が、足音の代わりに戻ってくる。
戻ってくるなら、返し口がある。
- ■影の輪で「迷いを中央に集めない」
夜、影の輪へ向かうと、輪はゆるく開いていた。
中心の空席は空席のまま。
今夜、少年はそこに“迷い”を置かない。
迷いを中央に置けば、皆で解きたくなる。
解くと、正解が生まれる。
正解が生まれると、道は一本になる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
迷いを、
真ん中に置かなかったよ」
少年は頷いた。
迷いは散っているほうがいい。
散っていると、誰も独占できない。
独占できないと、責められない。
——迷っても、
——戻れたらいいよ。
節子の声が、夜の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は見取り図ではなく、
ただの夜の息になる。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
今夜の道は、少しだけ違った。
違ったのに、壊れなかった。
壊れなかったから、明日も歩ける。
焼け跡の夜は、
正しさを保証しない。
代わりに、戻り角の数を増やしていく。
少年は、迷いを罪にしないまま、
道の形が少しずつ柔らかくなるのを感じていた。
第百三十一章 灯の片隅──影が「見落とされる幸い」を拾わなかった朝

朝、少年は“見落とし”の中に、薄い幸いが混じっていることを知った。
見落としは失敗ではない。
失敗だと思った瞬間、正しさが出しゃばる。
正しさが出しゃばると、道は一本になる。
一本になると、迷いは罪になる。
罪になると、誰かが責められる。
責められると、息が詰まる。
だから少年は、見落としを見落としのまま置いた。
置いた場所が、今日の朝の片隅になる。
片隅は、中心よりも静かだ。
静かだから、争いが入り込まない。
争いが入り込まないから、幸いが薄いまま残れる。
灯は戻らない。
見取り図は一本にならず、戻り角は増え、余白は埋められず、受け渡しは一瞬で終わる。
その積み重ねの上に、朝は「片隅」を連れてくる。
片隅は、見せびらかす場所ではない。
見せびらかすと、奪われる。
奪われると、恨みが生まれる。
だから、拾わない。
拾わないことで、幸いは幸いのまま続く。
——幸いってね、
——拾うとすぐ、
——重くなるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を教えにしなかった。
教えにすると、皆に拾わせたくなる。
拾わせると、片隅が消える。
今朝は、片隅を残す。
- ■影の道で「落ちている硬貨」を跨ぐ
影の道の端に、小さな硬貨が落ちていた。
朝の光を受けて、鈍く光る。
拾えば、今日の何かに替えられるかもしれない。
替えられるかもしれない、という可能性が、胸をざわつかせる。
ざわつけば、正しさが出しゃばる。
正しく拾う。
正しく得る。
正しく使う。
そういう言葉が頭に並び始める。
少年は拾わなかった。
跨いだ。
跨いで、影の道を続けた。
硬貨は硬貨のまま残る。
残ることで、誰かが必要なときに拾える。
必要なときは、拾う手が震えていないときだ。
震えている手は、すぐ握りしめてしまう。
握りしめると、争いが起きる。
少女が言った。
「拾わないの?」
「拾うと、
中心になる」
「うん。
中心になると、
みんなが見るね」
少年は頷いた。
中心になったものは、必ず争いの場になる。
片隅にあるものは、争いの外にある。
- ■黒板の字が「隅」で止まり、「得」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■隅
得るの「得」はない。
教員は短く言った。
「今日は、隅の話をする」
生徒たちは、少し笑いそうになって、やめた。
隅は、叱られる場所だと思っていたからだ。
だが今は、隅に叱責を置く余裕すらない。
隅はただ、静かな場所だ。
「戦争は、
隅を許さなかった。
隅にいる者を疑った」
少年は、隅に立つことが恥にされた日々を思い出した。
恥は、息を浅くする。
「生活の隅は、
避難所だ」
教員は続けた。
「隅があると、
人は尖らない。
尖らないから、
争わない」
黒板の字は、それ以上増えない。
隅は説明されると、すぐ中心に引っ張られる。
少年は紙に短く書いた。
——片隅
その言葉は、胸ではなく、机の端に置いた。
- ■炊き出しの列で「最後尾に余る時間」
朝の炊き出しの列の最後尾には、少しだけ時間が余っていた。
前のほうは忙しい。
鍋は熱く、声は短く、椀は行き来する。
最後尾は、空気が緩い。
緩い空気は、幸いに似ている。
だが幸いは、掴むと消える。
少年は最後尾の余り時間を掴まなかった。
余り時間の中で、ただ呼吸した。
呼吸を数えない。
余白を埋めない。
それだけで、朝が滑らかになる。
青年が鍋の前で言った。
「次」
その声が届くまでの間が、片隅の時間だ。
片隅の時間は、誰にも奪われない。
少女が言った。
「待つの、
嫌じゃないね」
「隅の時間だから」
「うん。
隅は、
落ち着くね」
少年は頷いた。
落ち着くことは、贅沢ではない。
争わないための技術だ。
- ■釜戸の前で「小さな温もり」を拾わない
家に戻ると、釜戸の前の床に、昨夜の熱の名残がほんの少しだけ残っていた。
手を当てれば、ぬるい。
ぬるい温もりは、抱きしめたくなる。
抱きしめれば、火を起こしたくなる。
火を起こせば、燃料が要る。
燃料が要れば、取り分が要る。
取り分が要れば、争いが要る。
少年は、そのぬるさを拾わなかった。
拾わずに、ただ座った。
ぬるさは片隅に残る。
残ることが、今日の幸いだ。
少女が言った。
「温かい?」
「少し。
でも、
拾わない」
「うん。
拾わないと、
まだそこにあるね」
少年は深く息を吐いた。
ため息を返し口へ通し、胸を空ける。
胸が空くと、隅の幸いは入ってこない。
入ってこないから、奪われない。
- ■影の輪で「幸いを中心に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、輪は静かに開いていた。
中心の空席は空席のまま。
今朝、少年はそこに“幸い”を置かない。
幸いを中心に置けば、皆が見上げる。
見上げれば、期待が生まれる。
期待が生まれれば、裏切りが生まれる。
裏切りが生まれれば、怒りが生まれる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
幸いを、
真ん中に置かなかったよ」
少年は頷いた。
幸いは片隅でいい。
片隅で薄く続くほうが、生活は長い。
——見落として、
——いいよ。
節子の声が、朝の光に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は片隅に落ち、
落ちたまま、静かに残る。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
朝の空気は冷たい。
だが片隅に、ぬるい温度がある。
拾わなかった温度。
跨いだ硬貨。
最後尾の余り時間。
それらが、見落とされる幸いとして、生活の端を支えている。
焼け跡の朝は、
大きな救いを約束しない。
代わりに、見落とされる小さな幸いを、片隅にそっと置く。
少年は、それを拾わずに通り過ぎることで、
今日も争わずに生きる道を選んでいた。
(第百三十二章につづく)

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