佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百二十八章・第百二十九章

目次

第百二十八章 灯の余白──影が「埋めない沈黙」を抱えた昼

 昼、少年は言葉の余白に足を止めた。

 朝、返し口を通って外へ出た言葉のあとに、

 何も残らなかったのではない。

 残ったのは、埋めなくていい空き。

 空きは欠けではない。

 欠けは塞ぎたくなるが、空きは呼吸を通す。

 通るものがあると、昼は熱くなりすぎない。

 灯は戻らない。

 返せるものは返され、言葉は刃にならず、時間は間借りのまま巡っている。

 その上に、昼は「余白」を置く。

 余白は、使われるためにあるのではない。

 置かれるためにある。

 置かれたものは、動かされない。

 動かされないから、疲れない。

 ——余白ってね、

 ——何もしない場所じゃないよ。

——通る場所だよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声に意味を足さなかった。

 意味を足すと、余白は用途になる。

 用途になると、また埋めたくなる。

 今日は、埋めない。

 

  • ■影の道で「立ち止まらない余白」

 影の道を歩く。

 瓦礫の間に、何も置かれていない一角がある。

 使おうと思えば使える。

 腰掛けにも、物置にもなる。

 だが少年は、使わない。

 通る。

 通って、過ぎる。

 少女が言った。

「何もないね」

「あるよ。

 通る場所」

「うん。

 通るだけなら、

 争わないね」

 少年は、足の運びを変えなかった。

 変えないことで、空きは空きのまま保たれる。

 保たれた空きは、誰のものにもならない。

 誰のものにもならない場所は、争いの外にある。

 

  • ■黒板の字が「余」で止まり、「埋」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■余

 余るの「余」。

 埋めるの「埋」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、余白の話をする」

 生徒たちは首をかしげた。

 余白は、減らすものだと教えられてきたからだ。

「戦争は、

 余白を許さなかった。

 沈黙を疑い、

 空きを敵にした」

 少年は、沈黙が裏切りと呼ばれた日を思い出した。

 何も言わないことが、罪にされた。

「生活は、

 余白を守る」

 教員は続けた。

「余白は、

 何もしないためじゃない。

 間違えないためだ」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 余白の説明を増やすほど、余白は狭くなる。

 少年は紙に何も書かなかった。

 余白は、書かれないことで残る。

 

  • ■炊き出しの列で「話題を足さない」

 昼の炊き出しで、列は静かだった。

 誰かが天気の話を始めそうになったが、始まらなかった。

 話題を足さない沈黙。

 沈黙は、重くない。

 重くない沈黙は、列を早める。

 青年が鍋の前で言った。

「次」

 それだけ。

 指示でも命令でもない。

 空きを進める合図だ。

 少女が言った。

「静かだね」

「余白が、

 働いてる」

「うん。

 余白があると、

 急がなくていいね」

 少年は椀を受け取り、少し横へずれた。

 横へずれると、後ろに空きが生まれる。

 生まれた空きが、列を流す。

 

  • ■釜戸の前で「考えを置かない」

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。

 何か考えようとして、やめた。

 考えは置ける。

 だが置くと、余白が埋まる。

 今日は、考えを置かない。

 少女が言った。

「考えごと?」

「置かない」

「うん。

 置かない日も、

 いるね」

 少年は、灰の表面をならさなかった。

 ならすと、形が生まれる。

 形が生まれると、意味が来る。

 意味が来ると、余白が消える。

 今日は、消さない。

 

  • ■影の輪で「沈黙を中央に置かない」

 昼、影の輪へ向かうと、輪は開いたままだった。

 中心の空席は、空席のまま。

 沈黙も、そこへ集めない。

 集めると、沈黙が象徴になる。

 象徴になると、誰かが管理し始める。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 沈黙を、

 真ん中に置かなかったよ」

 少年は頷いた。

 沈黙は散っているほうがいい。

 散っていると、誰も独占できない。

 独占できないと、命令にならない。

 ——埋めなくていいよ。

 節子の声が、昼の風に混じってそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は余白の一部になる。

 余白の一部になれば、声は消えない。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 昼の熱はある。

 だが、余白が通っている。

 通っているから、焦げない。

 焦げないから、夜へ渡せる。

 焼け跡の昼は、

 答えを求めない。

 代わりに、埋めない場所を残す。

 少年は、その余白を抱えず、

 抱えないまま通り過ぎることで、

 今日という時間を、静かに次へ返していった。

第百二十九章 灯の受け渡し──影が「渡して手放す重さ」を知った夕方

 夕方、少年は“受け渡し”という言葉の、真ん中にある動作を考えた。

 受け取ることでも、手放すことでもない。

 渡す。

 渡すという行為には、ほんの一瞬、両方の手が同じ重さを感じる時間がある。

 その一瞬が、今日の夕方の芯だった。

 重さは共有される。

 だが、所有は共有されない。

 共有されないから、争いにならない。

 灯は戻らない。

 余白は埋められず、返し口は開いたまま、借りた時間は返されている。

 その積み重ねの上に、夕方は「渡す」という動きを差し出す。

 渡すとき、重さは軽くなる。

 軽くなるのは、手放すからではない。

 一瞬、誰かと分け合うからだ。

 少年は、その一瞬のために、急がずに歩いた。

 ——渡すときね、

 ——手は離れるけど、

 ——時間は重なるんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を意味にしなかった。

 意味にすると、教えになる。

 教えになると、誰かに押し付けたくなる。

 今日は、動作だけでいい。

 

  • ■影の道で「荷を持ち替えない」

 影の道を歩くと、青年が木箱を運んでいた。

 持ち替えれば楽になるだろう。

 だが青年は、持ち替えない。

 同じ持ち方のまま、角まで運ぶ。

 角で止まり、箱を下ろす。

 そこで初めて、別の人が箱に手をかける。

 少年は、その様子を見ていた。

 途中で持ち替えると、責任が曖昧になる。

 曖昧になると、重さの所在が争いになる。

 角で下ろす。

 下ろす場所を決める。

 それが、渡し口だ。

 少女が言った。

「途中で、

 代わらないんだね」

「渡す場所が、

 決まってる」

「うん。

 場所があると、

 喧嘩しないね」

 少年は頷いた。

 渡し口があると、手は迷わない。

 

  • ■黒板の字が「渡」で止まり、「奪」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■渡

 奪うの「奪」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、渡す話をする」

 生徒たちは、少し緊張した。

 渡すと聞くと、失う気がするからだ。

「戦争は、

 奪って渡した。

 命を奪い、

 名誉を渡した」

 少年は、名誉という言葉が、空の器だった日のことを思い出した。

 空の器は軽いが、刃になる。

「生活の渡し方は、

 奪わない」

 教員は続けた。

「重さを、

 一瞬だけ共有する」

 黒板の字は、それ以上増えない。

 渡すことを説明しすぎると、動きが止まる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——渡し口

 その二文字は、手の動きを思い出させた。

 

  • ■炊き出しの列で「椀を渡す手」

 夕方の炊き出しで、少年は空になった椀を返した。

 返す前、青年と一瞬だけ目が合う。

 椀の重さを、二人が同時に感じる。

 その一瞬で、受け渡しは終わる。

 長い礼は要らない。

 短い視線で十分だ。

 視線は、渡し口の印になる。

 少女が言った。

「今、

 同じだったね」

「一瞬」

「うん。

 一瞬なら、

 重くない」

 少年は、手が空になる感覚を確かめなかった。

 確かめると、失った気になる。

 失った気になると、また欲しくなる。

 今日は、欲しがらない。

 

  • ■釜戸の前で「言葉を渡さない」

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。

 言葉を誰かに渡したくなる瞬間がある。

 疲れた。

 寒い。

 寂しい。

 だが今日は渡さない。

 言葉を渡すと、受け取った側が重くなる。

 少女が言った。

「言わないの?」

「今日は、

 持つ」

「うん。

 持つ日も、

 必要だね」

 少年は、言葉を胸にしまわなかった。

 しまうと倉庫になる。

 代わりに、息に溶かした。

 溶かした言葉は、誰にも渡らない。

 

  • ■影の輪で「重さを回さない」

 夕方、影の輪へ向かうと、輪は低く保たれていた。

 誰も中心に物を置かない。

 置くと、次の人が引き取らねばならなくなる。

 引き取らねばならなくなると、義務になる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 重さを、

 回さなかったよ」

 少年は、中心の空席を見た。

 空席は、受け渡しを拒まない。

 だが、強制もしない。

 ——渡すなら、

 ——置きなさい。

 節子の声が、夕方の光に混じってそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は動作になる。

 動作になれば、誰も傷つかない。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 手は軽い。

 軽いが、空ではない。

 一瞬共有した重さの記憶が、手の奥に残っている。

 それで十分だ。

 焼け跡の夕方は、

 分け前を求めない。

 代わりに、渡し口を用意する。

 少年は、その渡し口を見つけるたびに、

 持たなくていい重さが、この世には確かにあるのだと、

 少しずつ確信し始めていた。

(第百三十章につづく)

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