佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百二十六章・第百二十七章

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第百二十六章 灯の間借り──影が「借りて返す時間」を許した夜

 夜、少年は自分がこの世界に間借りしているのだ、という感覚にふと包まれた。

 住んでいる家も、歩いている道も、見上げる空も、どれも自分の所有ではない。

 所有でないから、失うという言葉が当てはまらない。

 失わないから、取り戻そうともしない。

 取り戻そうとしないと、時間は静かに流れる。

 夜は、その流れを少しだけ緩めて、借りて返す作法を教える。

 灯は戻らない。

 影法師は形を持たない約束のまま、昼の地面から消え、

 言い残しは言葉にならず、呼吸は数えられず、置き場は胸の外にある。

 その上に、夜は「間借り」という言葉を、そっと置く。

 間借りは、居座らない。

 居座らないから、荒らさない。

 荒らさないから、返せる。

 ——借りるってね、

 ——持つことじゃないんだよ。

 ——戻す準備をすることなんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を真理にしなかった。

 真理にすると、皆に配りたくなる。

 配ると、規則になる。

 規則になると、息が詰まる。

 今夜は、借りるだけでいい。

 

  • ■影の道で「借りた光」を踏まない

 夜の影の道には、月明かりが細く落ちている。

 瓦礫の隙間に、白い線のような光。

 踏めば、足元が少し明るくなる。

 だが少年は、その光を踏まなかった。

 踏むと、光を自分のものにした気になる。

 自分のものにした気になると、離しにくくなる。

 少女が言った。

「暗くない?」

「借りてる光だから」

「うん。

 借りてるなら、

 汚さないほうがいいね」

 少年は、光の脇を歩いた。

 暗さは残る。

 だが暗さは敵ではない。

 借りた光があることを、教えてくれる。

 

  • ■黒板の字が「借」で止まり、「取」は書かれない

 夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■借

 取るの「取」はない。

 教員は黒板を見て言った。

「今日は、借りる話をする」

 生徒たちは、少し身を乗り出した。

 借りることは、弱さだと教えられてきたからだ。

「戦争は、

 借りを作るなと言った。

 貸しを作れと言った」

 少年は、貸し借りが力に変わった時代を思い出した。

 力に変わった瞬間、返せなくなる。

「生活の借りは、

 返す前提だ」

 教員は続けた。

「返す前提があると、

 借りすぎない。

 借りすぎないから、

 争わない」

 黒板に、線は足されない。

 借りは、線を引くと契約になる。

 契約になると、夜が重くなる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——返す準備

 それだけで、胸が静かになった。

 

  • ■炊き出しの列で「椀を借りる」

 夜の炊き出しで、少年は椀を受け取った。

 受け取るとき、自然に思う。

 これは借りものだ。

 飲み終えたら返す。

 返す場所がある。

 返す時間がある。

 少年は、椀を急いで空にしなかった。

 急ぐと、借りたことを忘れる。

 忘れると、扱いが乱暴になる。

 青年が小さく言った。

「割るなよ」

「うん」

 それ以上の言葉は要らない。

 借りている者同士の、最低限の合図だ。

 返すとき、少年は椀の縁を軽く拭いた。

 磨かない。

 飾らない。

 借りた形のまま返す。

 それが、次の人の時間を奪わない。

 

  • ■釜戸の前で「火を間借りしない」

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。

 火を起こせば、夜は暖まる。

 だが火は、借りると返しにくい。

 火は、広がる。

 広がると、境目が消える。

 境目が消えると、借りたつもりが、居座りになる。

 少年は火を起こさなかった。

 代わりに、背中を丸め、息を深く通した。

 息は借りても、返さなくていい。

 返さなくていいものは、借りすぎない。

 少女が言った。

「寒くない?」

「借りない夜」

「うん。

 借りないと、

 返さなくていいね」

 少年は、夜の冷えをそのまま受け取った。

 冷えは、時間の借りものだ。

 朝になれば、返せる。

 

  • ■影の輪で「時間を借りて、返す」

 夜、影の輪へ向かうと、輪はゆるく開いていた。

 誰も中心に集まらない。

 集まると、時間を占有する。

 占有すると、返せなくなる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 時間を、

 借りただけだよ」

 少年は、中心の空席を見た。

 空席は、時間の置き場だ。

 借りた時間を、そこへ戻す。

 ——ちゃんと、

 ——返してね。

 節子の声が、夜の風に混じってそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は返却される。

 返却された声は、誰のものでもない。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 今夜の時間は、確かに自分のもののようで、

 だが所有ではない。

 間借りした時間。

 朝が来れば、静かに返す。

 焼け跡の夜は、

 奪うことを許さない代わりに、

 借りることを許す。

 少年は、その許可の中で、

 今日という一日を、丁寧に使い切ろうとしていた。

第百二十七章 灯の返し口──影が「言葉を戻す場所」を見つけた朝

 朝、少年は“返す”という行為に、口があることを知った。

 返し口。

 借りたものを戻す穴。

 穴は大きくない。

 大きくないから、押し込まなくていい。

 押し込まないから、壊れない。

 壊れないから、争いにならない。

 これまで少年は、返すものを胸にしまっていた。

 胸にしまうと、返すべきものが返せなくなる。

 返せなくなると、借りが積もる。

 借りが積もると、息が詰まる。

 息が詰まると、灯を呼び戻したくなる。

 だから、返し口が要る。

 胸ではない、外のどこかに。

 言葉を戻す場所が要る。

 灯は戻らない。

 間借りした時間は夜に借り、朝に返す。

 その作法の上に、朝は「返し口」を見せる。

 返し口があると、人は言葉を持ち歩かなくて済む。

 持ち歩かないから、言葉は重くならない。

 重くならないから、言葉は刃にならない。

 ——言葉ってね、

 ——持つと刃になるけど、

 ——戻すと息になるんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を教訓にしなかった。

 教訓にすると、皆に配りたくなる。

 配ると、標語になる。

 標語になると、返し口が塞がる。

 今朝は、戻すだけ。

 

  • ■影の道で「落ちた言葉」を拾わない

 影の道を歩くと、瓦礫の陰で二人の大人が言い争っていた。

 声は尖っている。

 だが、言葉そのものは軽い。

 軽いから、飛ぶ。

 飛んだ言葉は、こちらの足元まで転がってくる。

 少年は、その言葉を拾わなかった。

 拾うと、自分の胸にしまってしまう。

 しまえば、返す場所がなくなる。

 返す場所がなくなると、いつか吐き出す。

 吐き出すとき、言葉は必ず刃になる。

 少女が言った。

「聞こえたね」

「聞こえたけど、

 拾わない」

「うん。

 拾わないと、

 ここで終わる」

 少年は足を止めずに通り過ぎた。

 言葉は、落ちた場所に残る。

 残るなら、当人が拾えばいい。

 自分が拾う必要はない。

 

  • ■黒板の字が「返」で止まり、「詰」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■返

 詰めるの「詰」はない。

 教員は黒板を見て、短く言った。

「今日は、返す話をする」

 生徒たちは少し緊張した。

 返すと言われると、責められる気がする。

 借りがある者は、常に弱い。

 そう思わされてきたからだ。

「戦争は、

 返せと言った。

 命を。

 忠誠を」

 少年の背中が冷えた。

 返せないものを返せと言われると、人は壊れる。

「生活の返しは、

 返せるものだけ返す」

 教員は続けた。

「返せないものは、

 返そうとしない。

 返そうとするから、

 嘘が生まれる」

 黒板の「返」の字を、教員は消さなかった。

 消さないのは、命令にしないためだ。

 命令にしないことで、返し口は開く。

 少年は紙に短く書いた。

 ——返せるものだけ

 その一行は、胸を軽くした。

 

  • ■炊き出しの列で「ありがとうを返す」

 朝の炊き出しで、少年は椀を受け取った。

 受け取るとき、言葉が喉元まで上がってくる。

 ありがとう。

 だが、長く言わない。

 短く言う。

 短く言うと、言葉は返し口を通る。

 長いと、胸に詰まる。

「ありがとう」

 青年は頷いた。

 それだけ。

 頷きが、返し口の受け皿になる。

 少女が言った。

「返したね」

「うん。

 持たない」

「うん。

 持たないと、

 次も言える」

 言葉を持たない。

 持たないから、言葉は腐らない。

 腐らないから、刃にならない。

 

  • ■釜戸の前で「ため息を戻す」

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座り、息を吐いた。

 ため息。

 ため息は、胸に溜まった空気を外へ返す穴だ。

 穴があるから、胸は倉庫にならない。

 少女が言った。

「疲れた?」

「少し。

 でも、返せた」

「うん。

 返すと、

 軽くなるね」

 少年は、ため息を恥じなかった。

 恥じると、胸にしまう。

 しまえば、また詰まる。

 ため息は、返し口。

 朝のうちに返しておけば、昼は詰まらない。

 

  • ■影の輪で「謝りを返し、抱えない」

 朝、影の輪へ向かうと、輪は静かに開いていた。

 中心の空席は空席のまま。

 そこに言葉は溜まっていない。

 溜めないように、皆がそれぞれの返し口を持っているからだ。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 謝りを、

 胸にしまわなかったよ」

 少年は、その言葉に目を伏せた。

 謝りは、胸にしまうと腐る。

 腐ると、自己憐憫になる。

 自己憐憫は、生活を止める。

 止めると、灯を呼び戻したくなる。

 少年は、心の中で小さく言った。

 ごめん。

 それだけ。

 長くしない。

 長くすると、返せないものまで返そうとして嘘になる。

 返せる分だけ返す。

 返し口に通す。

 通した言葉は、胸に留まらない。

 ——それで、いいよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は返し口を通り、

 息として外へ出ていく。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 胸は軽い。

 軽いのに薄くない。

 返せるものを返す穴があると、

 胸は通り道として働く。

 焼け跡の朝は、

 正しさを求めない。

 代わりに、言葉を戻す場所を静かに用意している。

 少年は、その返し口を見つけたことで、

 今日という一日を、少しだけ楽に始められる気がしていた。

(第百二十八章つづく)

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