第百二十四章 灯の影法師──影が「形を持たない約束」を結んだ昼
昼、少年は自分の足元に落ちる影が、さっきより少し短くなっているのに気づいた。
雲が動いたのだろう。
太陽が高くなったのだろう。
理由を探す気にはならなかった。
影は、理由がなくても変わる。
変わるから、約束に向かない。
約束に向かないものを、無理に約束にしない。
その判断が、今日の昼の芯だった。
灯は戻らない。
呼吸は数えられず、置き場は胸の外にあり、背中は追われず、手触りは通り過ぎ、温度差は残された。
その積み重ねの上に、昼は「影法師」を置いていく。
影法師は、人の形を真似る。
だが中身はない。
中身がないから、裏切らない。
裏切らないから、信じすぎないで済む。
少年は、形だけの約束が、生活を軽くすることを知り始めていた。
——約束ってね、
——形があると、
——重くなるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を形にしなかった。
形にすると、守れなかったときに責めが生まれる。
今日は、形を持たない。
- ■影の道で「影と並ぶ」
影の道を歩くと、少年の影は瓦礫の縁で歪んだ。
頭が伸び、足が欠ける。
それでも影は影のまま、歩みに付いてくる。
置いていかない。
引き止めもしない。
少女が言った。
「変な形だね」
「でも、
ついてくる」
「うん。
ついてくるだけで、
いいんだね」
少年は、影を踏まなかった。
踏めば、遊びになる。
遊びになると、勝ち負けが生まれる。
今日は並ぶ。
並ぶだけで、同じ時間を共有できる。
- ■黒板の字が「影」で止まり、「約」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■影
約束の「約」はない。
教員は短く言った。
「今日は、影の話をする」
生徒たちは、少し拍子抜けした顔をした。
影は、授業の主役になりにくい。
「戦争は、
影を誇張した。
英雄の影。
敵の影」
少年は、実体のない恐怖が人を動かした日のことを思い出した。
影に名前を付けると、刃になる。
「生活の影は、
名前を持たない」
教員は続けた。
「影は、
そこに“ある”ことだけを示す。
来たことも、去ることも、
言い張らない」
教員はそう言って、黒板の前から一歩退いた。
説明はそれだけだった。
影を説明しすぎると、影は役割を背負わされる。
役割を背負えば、影はもう影ではなくなる。
少年は、黒板の「影」という字を見つめながら、
節子の後ろ姿を思い出した。
あの日、焼け跡を歩く節子の影は、
本人よりも早く角を曲がって消えた。
呼び止めなかった。
呼び止められなかった。
影は、待たない。
だから追わない。
少年は紙に何も書かなかった。
影は、書くと固定される。
固定されると、約束に変わる。
今日は、約束にしない。
- ■炊き出しの列で「影が重ならない距離」
昼の炊き出しの列は、短い影を地面に落としていた。
太陽が高く、影は足元に張りつくようだ。
前の人の影と自分の影が、少しだけ触れそうになる。
だが少年は、半歩だけ位置をずらした。
影が重なると、境目が分からなくなる。
境目が分からなくなると、所有が始まる。
所有が始まると、約束が生まれる。
約束が生まれると、裏切りが生まれる。
少年は、重ならない距離を保った。
遠すぎない。
近すぎない。
影がそれぞれ、影のままでいられる距離。
少女が言った。
「離れたね」
「影が、
混ざらないように」
「うん。
混ざらないと、
喧嘩もしないね」
少年は頷いた。
影同士は、喧嘩をしない。
人が影に意味を与えたときだけ、争いが生まれる。
- ■釜戸の前で「影に火を与えない」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
昼の光が差し込み、釜戸の縁に濃い影を落としている。
火を起こせば、影は揺れる。
揺れれば、意味が生まれる。
意味が生まれれば、物語になる。
物語になれば、約束が要る。
少年は火を起こさなかった。
影は、影のまま置いた。
少女が言った。
「今日は、
火、いらない?」
「影が、
足りてる」
「うん。
影があると、
昼でも落ち着くね」
少年は、影の輪郭を確かめなかった。
確かめると、消えたときに慌てる。
影は、消えるものだ。
消えるものに、責任を負わせない。
- ■影の輪で「約束を結ばない」
昼、影の輪へ向かうと、輪は短く、地面に張りついていた。
皆の影が、それぞれの足元に収まっている。
重ならない。
混ざらない。
だが、同じ太陽の下にある。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
約束、
しなかったよ」
少年は、中心の空席を見た。
空席には、影も落ちていない。
何もない場所。
だから、何も誓わなくていい。
——それでいいよ。
——約束は、
——影にさせとこう。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は影のように薄くなり、
それでも確かに、そこにあった。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
昼の影は短い。
すぐに形を変える。
だが、変わること自体が、裏切りではない。
変わるものを、約束にしなければいいだけだ。
焼け跡の昼は、
誓いを求めない。
影法師のように、形だけを地面に落とし、
中身を持たないまま、静かに時間を進めていく。
少年は、その影と並んで歩きながら、
守らなくていい約束が、
人をこんなにも軽くするのだということを、
初めてはっきりと知った。
第百二十五章 灯の言い残し──影が「言わない約束」を守った夕方

夕方、少年は口の中に、言い残した言葉があるのを感じた。
言い残し。
言い足りない、とは違う。
足りないのなら足せばいい。
だが言い残しは、足すほど遠ざかる。
言おうとするたびに、言葉は別の形になってしまう。
別の形になった言葉は、たいてい要らない飾りを連れてくる。
飾りを連れてきた言葉は、胸の置き場を塞ぐ。
少年は、言い残しを言わないことにした。
言わないことは、飲み込むことではない。
飲み込めば、胸が倉庫になる。
そうではなく、言い残しを言い残しのまま、夕方の空気に置く。
置けば、腐らない。
腐らないから、争いにならない。
争いにならないから、生活は続く。
灯は戻らない。
影法師は形を持たない約束を示し、呼吸は数えられないまま続いている。
その上に、夕方は「言わない約束」をそっと置く。
約束を言葉にした瞬間、約束は鎖になる。
鎖になると、誰かを縛る。
縛れば、息が詰まる。
息が詰まれば、また灯を呼び戻す熱が生まれる。
だから言わない。
言わないことで、約束は鎖にならない。
——言い残しってね、
——言うためにあるんじゃないんだよ。
——残るためにあるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は言葉にならず、影の温度のまま残る。
- ■影の道で「口を開かない時間」を歩く
影の道を歩くと、前から二人連れが来た。
小さな笑い声がした。
笑い声は悪くない。
だが少年は、自分の口角を無理に上げなかった。
無理に笑うと、心が追いつかない。
追いつかない心は、あとで反動を起こす。
反動は、乱暴を連れてくる。
少年は、ただ歩いた。
口を開かない時間。
それは沈黙の誇りではない。
言い残しの置き場を守るための間合いだ。
少女が言った。
「今日は、
喋らないね」
「喋ると、
鎖になる」
「うん。
言わないほうが、
自由な約束もある」
少年は頷いた。
頷きは言葉ではない。
言葉ではないから、縛らない。
縛らないから、続く。
- ■黒板の字が「残」で止まり、「誓」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■残
残るの「残」。
誓いの「誓」はない。
教員は黒板を見て言った。
「今日は、残す話をする」
生徒たちは少し身構えた。
残す、という言葉は重い。
残さねばならない、という命令になりやすいからだ。
「戦争は、
誓いを残せと言った。
忠誠を残せと言った」
少年は、誓いの言葉が紙に刷られ、声にされ、胸に押し込まれた日々を思い出した。
誓いは胸を詰まらせた。
「生活の残り方は、
誓いじゃない」
教員は続けた。
「生活は、
言い残しを残す。
言い残しは、
言わないことで残る」
教員は黒板の「残」の字の横に、何も書かなかった。
残すために足すのは矛盾だ。
矛盾を避けるために、余計な説明をしない。
少年は紙に短く書いた。
——言わないで残す
その一行は、胸ではなく、紙の上に置かれた。
紙の上に置けば、胸は倉庫にならない。
- ■炊き出しの列で「礼を短くする」
夕方の炊き出しで、椀を受け取るとき、少年は言葉を長くしなかった。
「ありがとう」
それ以上言わない。
感想も言わない。
文句も言わない。
青年も言わない。
頷くだけだ。
言わない礼が、列を軽くする。
軽い礼は、見返りを生まない。
見返りがないと、争いがない。
争いがないと、分け前は崩れない。
少女が小さく言った。
「短いね」
「短いほうが、
残る」
「うん。
長いと、
飾りがつく」
飾りは、要らない重さだ。
- ■釜戸の前で「節子への言葉」を言わない
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
夕方の冷えが、背中に触れる。
火を起こせば温まる。
だが起こさない。
背中の冷えを、そのまま置く。
置くと、身体は夜へ向かう準備を始める。
少年は、節子へ言いたい言葉がいくつもあることを知っている。
ごめん。
ありがとう。
待ってて。
置いていかない。
戻ってきて。
それらは、どれも言えば嘘になる。
嘘にしたくないから、言わない。
代わりに、少年は昨日置いた木片の位置を、ほんの少しだけ整えた。
灰のそばの置き場。
胸の外の置き場。
そこへ、言葉の代わりの動作を置く。
少女が言った。
「言わないの?」
「言うと、
違う言葉になる」
「うん。
違う言葉は、
節子を傷つけるかもね」
少年は深く息を吐いた。
言わないことで、傷つけない。
言わないことで、残る。
- ■影の輪で「言い残しを中央に置かない」
夕方、影の輪へ向かうと、輪はほどけかけていた。
中心の空席は空席のまま。
だが今日は、その空席に言い残しを置かない。
言い残しを中央に置けば、皆がそれを“共有の言葉”にしたがる。
共有の言葉になれば、標語になる。
標語になれば、また命令になる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
言い残しを、
真ん中に置かなかったよ」
少年は頷いた。
言い残しは、誰のものでもないほうがいい。
誰のものでもないと、誰も責めない。
責めないと、息が通る。
——言わなくていいよ。
——残るから。
節子の声が、夕方の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は鎖にならない。
鎖にならないから、明日も歩ける。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
口の中の言い残しは、まだそこにある。
だが、それでいい。
言い残しは、言わない約束の形だ。
形を持たない約束は、裏切らない。
裏切らないから、信じすぎないで済む。
焼け跡の夕方は、
誓いを求めない。
代わりに、言い残しが空気に混じるのを許す。
少年は、その空気を吸い、吐き、
言わないまま守れる約束があることを、静かに受け取っていた。
(第百二十六章につづく)

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