第百二十二章 灯の置き場──影が「胸にしまわない記憶」を選んだ夜
夜、少年はふと、自分が“胸”という場所を使いすぎていたことに気づいた。
胸にしまう。胸に刻む。胸に抱く。胸を痛める。胸を張る。
胸は便利だ。何でも入る。何でも言い訳になる。
けれど、胸に入れたものは、出すときに必ず形を変える。
形を変えたものをまた胸に戻す。
その繰り返しで、胸は詰まる。息が浅くなる。
灯は戻らない。
追わない背中を見送った夕方のあと、夜は静かに「置き場」を連れてくる。
しまうのではなく、置く。
抱くのではなく、置く。
胸に入れず、手元のどこかに、そっと置いておく。
置いておけば、必要なときだけ視線が触れる。
触れても、握らない。
それが今の少年にとって、一番疲れない記憶の扱い方だった。
——胸ってね、
——倉庫じゃないんだよ。
——通り道なんだよ。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声に返事をしなかった。
返事をすると、声を胸に仕舞ってしまう。
今夜は、仕舞わない。
置き場を探す。
- ■影の道で「忘れ物の場所」を覚える
影の道の角に、誰かの下駄の片方が転がっていた。
拾えば役に立つ。
だが拾うと、持ち主の記憶まで背負うことになる。
背負えば、胸が倉庫になる。
だから少年は拾わない。
代わりに、下駄の位置を少しだけ直した。
雨水が溜まらない向きに。
見つけやすい向きに。
それだけで、下駄は「置き場」を得る。
少女が言った。
「拾わないんだね」
「置く」
「うん。
置くって、
放るのと違う」
少年は下駄から目を離し、歩き出した。
拾わない。だが無視しない。
この加減が、夜の生活には必要だった。
- ■黒板の字が「置」で止まり、「蔵」は書かれない
夜の自習室の黒板には一字だけあった。
■置
教員はその字を見て、しばらく黙ってから言った。
「今日は、置き場の話をする」
生徒の一人が、ふと笑いそうになった。
置き場なんて、授業になるのか。
だが、誰も笑わなかった。
置き場がないと、生活は散らかる。散らかると、争いになる。
皆、それを知っている。
「戦争は、置き場を奪った。
物の置き場。
言葉の置き場。
涙の置き場」
少年は、泣く場所を失った人の顔を思い出した。
泣けない顔は硬くなる。硬くなると、他人を刺す。
「生活は、置き場を作る」
教員は続けた。
「置き場を作るのは、持つためじゃない。
通すためだ。
胸に溜めないためだ」
そして、黒板の字の下に、何も書かなかった。
例も、正解も。
置は、余計な説明がないほうが働く。
少年は紙に短く書いた。
——胸は通す
それだけで、息が少し深くなった。
- ■炊き出しの列で「言葉の置き場」をつくる
夜の炊き出しの列で、誰かが小さく不満をこぼした。
「今日は少ないな」
すぐ隣の人が言い返すかと思ったが、言い返さなかった。
代わりに、その人は鍋の湯気を見て、短く言った。
「明日、ある」
それだけだ。
慰めでも叱責でもない。
言葉の置き場。
不満が落ちる場所を一つ作って、そこで止める。
止めることで、列は荒れない。
少年はそれを見て、胸の中の言葉も同じだと思った。
胸に留めると、熟れすぎる。
熟れすぎると、腐って臭くなる。
だから、置く場所が要る。
夜の列の短い言葉は、置き場を作る技術だった。
青年が鍋の横で言った。
「喋るなら、ここで終えろ」
怖い声ではない。
境界の線でもない。
置き場の確認だった。
- ■釜戸の前で「節子の名」を胸にしまわない
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
火は起こさない。
灰も掘らない。
ただ、夜の湿り気が床に薄く落ちているのを見た。
少年は、節子の名を胸に呼び込まないようにした。
呼び込めば、胸が痛む。
痛めば、「忘れない」という形で抱えたくなる。
抱えれば、また重くなる。
代わりに、少年は小さな木片を一つ拾い、灰のそばに置いた。
記念ではない。
供養でもない。
ただ、「ここが置き場だ」と自分に知らせるための目印だ。
胸ではなく、ここ。
手の届く場所。
目の届く場所。
通り道のそば。
少女が言った。
「それ、なに?」
「置き場」
「うん。
胸じゃない場所に置くと、
息が楽だね」
少年は、木片を見つめすぎなかった。
見つめすぎると、意味が増える。
意味が増えると、儀式になる。
儀式になると、胸がまた倉庫になる。
今夜は、儀式にしない。
- ■影の輪で「記憶を中央に集めない」
夜、影の輪へ向かうと、輪はいつものように閉じないままそこにあった。
中心の空席。
起こされない火種。
外側の戻り角。
静脈の通り道。
乾きの空間。
一滴の音。
影送り。
温度差。
手触り。
背中。
それらが、今夜は一つにまとまらず、散らばって置かれているように見えた。
散らばっているのに、散らからない。
置き場があるからだ。
置き場があると、記憶は胸へ押し寄せない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
胸にしまわないで、
置いたよ」
少年は、中心の空席を見て、深く息を吐いた。
空席は、記憶の倉庫ではない。
記憶を集める場所でもない。
ただ、通り道が通り道として残る場所だ。
——胸、空けといてね。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は置き場を得る。
置き場を得た声は、胸を塞がない。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸が軽い。
軽いが、薄いわけではない。
通っている。
静脈の流れが、息の流れが、夜の温度差が、全部ちゃんと通っている。
焼け跡の夜は冷える。
それでも、胸を倉庫にしない置き方があると、冷えは刺さらない。
少年は、記憶を手放すのではなく、胸から外へ置くことで、明日も歩ける形に変えていった。
第百二十三章 灯の呼吸──影が「数えない生」を受け取った朝

朝、少年は呼吸を数えないことにした。
一、二、と数え始めると、次は揃えたくなる。
揃えたくなると、遅れが気になる。
遅れが気になると、誰かの胸の上下が目に入る。
目に入ると、比べたくなる。
比べると、勝ち負けが生まれる。
勝ち負けが生まれると、呼吸はもう生ではなく、競技になる。
灯は戻らない。
置き場は胸の外に作られ、背中は追われず、手触りは通り過ぎ、温度差は残された。
その積み重ねの朝に、世界は「数えない呼吸」を差し出してくる。
息は、測られなくても続く。
続くから、測る必要がない。
少年は、胸に手を当てず、ただ空気の出入りを感じるに留めた。
——生きるってね、
——数えると、すぐ減るんだよ。
——数えないと、ちゃんと続くんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その言葉を胸にしまわなかった。
言葉は、朝の空気に置いた。
置いた言葉は、息の邪魔をしない。
- ■影の道で「歩幅を決めない」
影の道を歩く。
今日は歩幅を決めない。
早くも遅くもならない。
石が多ければ小さく。
砂が固ければ大きく。
地面に合わせて変える。
少女が言った。
「今日は、
ゆっくり?」
「今日は、
地面どおり」
「うん。
地面は、
嘘つかないね」
少年は、足の裏の感覚を確かめすぎなかった。
確かめすぎると、歩き方が固まる。
固まると、地面が変わったときにつまずく。
朝は、変わる地面に合わせる時間だ。
- ■黒板の字が「息」で止まり、「命」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■息
命の「命」ではない。
生の「生」でもない。
ただ、息。
教員は短く言った。
「今日は、息の話をする」
生徒たちは少し不安そうだった。
息は止まることがある。
止まることを想像すると、胸がざわつく。
「戦争は、
息を数えた。
何人。
何時間。
何回」
少年は、数えられたものが、いつのまにか物に変わっていった日のことを思い出した。
物に変わると、壊しやすい。
「生活は、
息を数えない」
教員は続けた。
「数えないから、
奪わない。
奪わないから、
続く」
黒板に何も足されない。
例も、注意書きもない。
息は、それだけで働く。
少年は紙に書かなかった。
息は書くと詰まる。
- ■炊き出しの列で「吸ってから受け取る」
朝の炊き出しで、鍋の前に立つと、湯気が顔に当たった。
少年は、すぐ椀を出さなかった。
一度、息を吸う。
吸ってから、椀を差し出す。
青年が一言だけ言った。
「今の、
いい」
評価ではない。
確認だ。
息が通っているかの確認。
汁を受け取り、少年はすぐ飲まない。
湯気と一緒に、息を吐く。
吐いてから、口をつける。
数えないが、順はある。
順は、生活を滑らかにする。
- ■釜戸の前で「火を起こさず、息を通す」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
火は起こさない。
だが、灰を軽くならして、空気の道を作る。
空気が通ると、火がなくても場は生きる。
少女が言った。
「火、いらない?」
「今日は、
息で足りる」
「うん。
息が通ると、
寒くても平気だね」
少年は、背中を丸めず、肩を落とした。
肩を落とすと、息が下まで届く。
下まで届く息は、心を急がせない。
- ■影の輪で「呼吸を合わせない」
朝、影の輪へ向かうと、輪はそれぞれの呼吸で立っていた。
誰も合図を出さない。
誰も揃えない。
揃えないのに、乱れていない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
呼吸を、
合わせなかったよ」
少年は頷いた。
合わせないから、誰も遅れない。
遅れないから、叱られない。
叱られないから、息は浅くならない。
——そのままで、
——ちゃんと生きてるよ。
節子の声が、朝の光に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は息になる。
息になれば、誰のものでもない。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸は静かだ。
数えないから、減らない。
減らないから、奪わない。
焼け跡の朝は、
生を保証しない。
だが、数えない呼吸を許す。
少年は、その呼吸を受け取り、今日という一日を、また静かに歩き始めた。
(第百二十四章につづく)

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