第百二十章 灯の手触り──影が「確かめすぎない存在」を抱いた昼
昼、少年は物の手触りに注意を向けた。
瓦礫の縁に触れたときのざらつき。
木の柱に残る、焦げと乾きの混ざった感触。
土の上に落ちた布切れの、軽さ。
それらは確かに“ここにある”のに、掴もうとすると形を変える。
掴めば壊れる。
確かめすぎれば、失われる。
少年は、手触りを抱かないことを覚え始めていた。
灯は戻らない。
温度差は残され、影送りは続き、余白は背負われない。
それらの作法が積み重なった昼に、世界は「触れていいが、握らなくていい」という顔を見せる。
存在は、確認されることを必要としない。
必要なのは、邪魔されないことだ。
少年は、手の力を抜いた。
——触るってね、
——確かめるためじゃないんだよ。
——通り過ぎるためだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その言葉に意味を足さなかった。
意味を足すと、手が強くなる。
強くなると、壊してしまう。
- ■影の道で「指先だけで触れる」
影の道の脇に、低い塀の残骸がある。
少年は、歩きながら、指先でその縁をなぞった。
力は入れない。
引き寄せない。
ただ、通る。
少女が言った。
「落ちない?」
「落ちない。
触れてるだけ」
「うん。
握らないと、
手は自由だね」
少年は、指先の感触が消えるのを待たなかった。
消えたと感じた瞬間、すでに通り過ぎている。
手触りは、残らなくていい。
残すと、持ち帰りたくなる。
- ■黒板の字が「触」で止まり、「掴」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■触
触れるの「触」。
掴むの「掴」ではない。
教員は、字を見て言った。
「今日は、触れる話をする」
生徒たちは、少し戸惑った。
触れることは、危険と結びつきやすい。
触れたら壊れる。
触れたら怒られる。
そう教えられてきた。
「戦争は、
掴ませた。
武器を。
命令を。
正しさを」
少年は、握らされたものの重さを思い出した。
重いほど、手放しにくい。
「生活の触れ方は、
違う」
教員は続けた。
「触れて、
確かめない。
触れて、
所有しない」
黒板の「触」の字の下に、何も足されない。
説明がないから、字は軽い。
少年は紙に書いた。
——指先まで
それ以上はいらない。
- ■炊き出しの列で「椀を預ける」
昼の炊き出しで、少年は椀を差し出した。
柄杓が近づく。
汁が注がれる。
その間、少年は椀を強く持たなかった。
落とさない程度。
だが、握らない。
青年が言った。
「その持ち方、
いい」
褒めない言い方。
評価にならない声。
だから手は緊張しない。
受け取ったあと、少年は椀をすぐ口元へ運ばなかった。
少しだけ、湯気を逃がす。
触れたが、掴まない。
その間合いが、昼には合っている。
- ■釜戸の前で「薪を動かさない」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
薪が数本、重なっている。
動かせば、次に備えられる。
だが今日は動かさない。
触れるだけで、十分だ。
少女が言った。
「触らないの?」
「触った。
動かさない」
「うん。
動かさない触り方も、
あるね」
少年は、掌を薪の上に置き、すぐに離した。
温度を覚えない。
重さを覚えない。
覚えると、計画が始まる。
計画が始まると、今日が削られる。
- ■影の輪で「手触りを共有しない」
昼、影の輪へ向かうと、輪は静かにほどけていた。
人の位置が少しずつ変わる。
誰も、誰かの腕に触れない。
だが近い。
近いが、触れない。
触れないが、存在は分かる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
手触りを、
分けなかったよ」
少年は、その言葉に深く息を吐いた。
手触りを分けると、
人は同じ感覚を求める。
同じ感覚を求めると、
違いが怖くなる。
怖くなると、排除が始まる。
——触れなくても、
——分かるよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、存在は存在のまま保たれる。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
肌に触れるものは少ない。
だが、確かに囲まれている。
確かめすぎない存在。
それが、今の生活のかたちだ。
焼け跡の昼は、
掴ませない。
だが、触れることを拒まない。
少年は、手を軽く保ったまま、
存在とすれ違う練習を続けていた。
第百二十一章 灯の背中──影が「追わない歩み」を選んだ夕方

夕方、少年は誰かの背中を見ていた。
見ていた、といっても、追いかけるためではない。
背中は、前を向いて歩くものだ。
追えば、背中は逃げる。
逃げれば、こちらは焦る。
焦れば、足が乱れる。
足が乱れれば、また何かを掴みたくなる。
今日は、追わない。
背中を背中のまま見送る。
見送るためには、半歩遅らせる。
半歩遅らせるためには、間合いを守る。
間合いを守るためには、握らない。
握らないためには、確かめすぎない。
確かめすぎないためには、背中を“目的”にしない。
灯は戻らない。
手触りは通り過ぎ、温度差は残り、影送りは続いている。
夕方は、それらをまとめるように「背中」の時間を連れてくる。
背中は、こちらに顔を見せない。
顔を見せないから、言い訳も説明もない。
背中は、ただ歩みの線だけを残す。
その線に、少年は今日、自分の歩みを合わせてみようと思った。
——背中ってね、
——追うためにあるんじゃないよ。
——安心するためにあるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その言葉を教訓にしなかった。
教訓にすると、背中は標識になる。
標識になると、道は直線になる。
直線は、また急がせる。
夕方は直線を嫌う。
だから、背中は背中のまま。
- ■影の道で「同じ歩幅をしない」
影の道を歩くと、前を行く男がいた。
年は青年より少し上。
背中が広く、肩が丸い。
荷を背負っているようで、背負っていない。
歩き方が、急がない。
だが遅くもない。
少年は、その背中との距離を一定に保った。
詰めない。
離れない。
追い越さない。
追いつこうとしない。
ただ、背中が消えない距離に置く。
少女が言った。
「ついていくの?」
「ついていかない。
同じ方向なだけ」
「うん。
それが一番、
乱れないね」
少年は歩幅を真似しなかった。
真似すると、相手が振り返ったときに気まずい。
気まずさは、距離を壊す。
壊れた距離は、追うか逃げるかの二択になる。
二択は、生活を粗くする。
だから真似しない。
ただ、呼吸を合わせる。
合わせるのは歩幅ではなく、息の波だ。
男の背中は、角を曲がって消えた。
少年はそこで止まらなかった。
止まると、背中が目的になる。
目的にしたくない。
少年はそのまま歩いた。
背中が消えても、歩みは残る。
残った歩みだけが、今の自分に必要だった。
- ■黒板の字が「背」で止まり、「追」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■背
背中の「背」。
追うの「追」はない。
教員は黒板を見て言った。
「今日は、背中の話をする」
生徒たちは不思議そうだった。
背中に学ぶ、という言い方はある。
だが教員は、学ぶという言葉を使わなかった。
「戦争は、背中を利用した。
背中を押す。
背中を見送る。
背中を誇る」
少年は、出征兵士の背中に旗を振った記憶を思い出した。
背中は、誇りの看板にされやすい。
「生活の背中は、
看板じゃない」
教員は続けた。
「背中は、
“進んでいる”という事実だけを見せる」
黒板の字を消さず、教員は窓を少し開けた。
夕方の風が教室に入る。
「誰かが進んでいるとき、
追わなくても、
自分も進める」
少年は紙に短く書いた。
——追わない歩み
それは独りで歩くことではない。
誰かの歩みを“自分の材料”にしない歩き方だ。
- ■炊き出しの列で「背中が詰まらない」
夕方の炊き出しで、列が伸びていた。
背中と背中の間に、微かな空きがある。
詰めればもっと早い。
だが詰めない。
詰めないから、咳が出ても逃げ場がある。
逃げ場があるから、怒鳴り声が出ない。
怒鳴り声が出ないから、背中は固くならない。
青年が一言だけ言った。
「詰めるな」
命令のようで、命令ではない。
背中を守るための注意だ。
少年は、前の人の背中に近づきすぎない。
背中が汗で湿っていても、触れない。
触れないことで、相手は振り返らない。
振り返らないから、列は進む。
椀を受け取ったあと、少年は少し横へずれた。
次の人の背中が、詰まらない位置へ。
小さなずれが、背中の呼吸を守る。
- ■釜戸の前で「背中を温めない」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
背中が少し冷える。
火を起こせば温まる。
だが起こさない。
背中を温めすぎると、眠くなる。
眠くなると、夜に備えられない。
夜に備えられないと、渇きが暴れる。
暴れれば、奪いが起きる。
少年は、背中の冷えをそのままにした。
冷えは敵ではない。
身体が“夜だ”と教えているだけだ。
少女が言った。
「寒い?」
「少し。
でも、
大丈夫」
「うん。
背中が冷えると、
目は覚める」
少年は肩をすくめ、深呼吸した。
背中に空気を入れる。
それだけで、温めなくても歩ける。
- ■影の輪で「背中の席」を作らない
夕方、影の輪へ向かうと、輪はほどけかけていた。
皆が同じ方向を向いているわけではない。
だが背中が見える位置取りが、自然にできている。
背中を見えるようにすることで、互いに追わずに済む。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
背中を、
追わせなかったよ」
少年は頷いた。
背中を追わせない。
それは、人を自由にする。
自由は勝手ではない。
互いの呼吸を守る形だ。
——追わなくていいよ。
——歩けば、同じ空にいるから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は背中側へ回り、
見えないところで支える。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
背中は冷たい。
だが冷たさの中に、確かに支えがある。
追わない歩み。
その歩みが、夕方の空の色と一緒に、少年の中へ沈んでいった。
焼け跡の夕方は、
誰かを目標にしない。
それでも、人の背中が時々、道の曲がり角を教えてくれる。
少年は、その背中を追わず、ただ見送り、
自分の足で次の角を曲がっていった。
(第百二十二章につづく)

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