第百十六章 灯の間合い──影が「踏み出さない一歩」を知った昼
昼、少年は自分の足元にある一歩分の空きに気づいた。
踏み出せば進める。
踏み出さなければ留まれる。
どちらでもいい位置。
だが、今日は踏み出さない。
踏み出さないことが、停滞ではなく、間合いになる昼だった。
灯は戻らない。
分け前は席にならず、通り道として保たれている。
その通り道の上に、一歩分の空きが現れる。
空きは、迷いの証拠ではない。
踏み出す前に、世界の呼吸を合わせるための余白だ。
少年は、足の裏にかかる重さを左右均等にし、息をひとつ、深く置いた。
——間合いってね、
——距離じゃないんだよ。
——呼吸の一致だよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その言葉を意味にしなかった。
意味にすると、また測り始める。
測らないために、ただ息を置く。
- ■影の道で「追い越さない」
影の道は、昼の白さにさらされている。
歩く人の数が増え、速度もまちまちだ。
追い越せば、先へ行ける。
だが追い越すと、背中に風が立ち、後ろの人の呼吸を乱す。
少年は、前の人との距離を詰めなかった。
詰めないことで、前の人は振り返らずに済む。
振り返らずに済めば、足が止まらない。
少女が言った。
「抜かないんだね」
「今日は、
合わせる」
「うん。
合わせる日は、
抜かない」
合わせる。
それは遅くなることではない。
全体の流れを壊さない速度を選ぶことだ。
流れを壊さなければ、遠くまで行ける。
- ■黒板の字が「合」で止まり、「競」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■合
合う。
競うではない。
教員は、字の前に立って言った。
「今日は、合う話をする」
生徒たちは、少し肩の力を抜いた。
競い合う話は疲れる。
合う話は、身体に残る。
「戦争は、
合図を強制した。
号令。
一斉」
少年は、同じ歩幅を命じられた日のことを思い出した。
合っているようで、誰とも合っていなかった。
「生活の“合う”は、
合図を持たない」
教員は続けた。
「誰かの呼吸が乱れたら、
周りが半拍遅らせる。
それで、全体は合う」
少年は紙に短く書いた。
——半拍
半拍遅らせる。
それは譲歩ではない。
全体の速度を守る技術だ。
- ■炊き出しの列で「一歩下がる人」が生む整列
昼の炊き出しで、列が少し乱れた。
誰かが前に出る。
誰かが詰める。
その瞬間、列は不安定になる。
だが一人、半歩下がる人がいた。
下がることで、後ろに空きができる。
空きができると、前の詰まりが解ける。
誰も指示しない。
誰も叱らない。
少年は、その半歩を見て、胸が軽くなるのを感じた。
半歩は、勇気を誇らない。
だが確かに、全体を救う。
椀が回ってきたとき、少年は位置を変えなかった。
今日の分は、ここで受け取る。
踏み出さない一歩が、分け前を保つ。
- ■釜戸の前で「息の間合い」を測らない
家に戻ると、少年は釜戸の前に立った。
火は起こさない。
だが、空気は通す。
灰の上を軽くならし、通り道を確かめる。
少女が言った。
「今、
どう?」
少年は少し考えてから答えた。
「合ってる」
測らない合い方。
数字も時間も要らない。
息が詰まらなければ、それで合っている。
節子のことを思い出すと、胸が少しだけ重くなる。
だが重さは、踏み出さない一歩を選ばせる。
踏み出さないことで、乱暴にならない。
- ■影の輪で「一歩分の空き」を残す
昼、影の輪へ向かうと、輪はいつもより広く見えた。
広がったのではない。
一歩分の空きが、いくつも残されている。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
一歩、
踏み出さなかったよ」
少年は、その言葉に深く息を吐いた。
一歩踏み出さないことで、
誰かの一歩が守られる。
守られた一歩は、次の歩みに繋がる。
——それで、
——合ってる。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、間合いは固定されない。
固定されないから、明日も合わせ直せる。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥に、一歩分の空きがある。
空きは、不安ではない。
合うための余白だ。
焼け跡の昼は、
競うことを促さない。
ただ、半拍遅らせる術を教える。
少年は、踏み出さない一歩が、
生活を長く保つことを、身体で覚え始めていた。
第百十七章 灯の余白──影が「置いていく重さ」を手放した夕暮れ

夕暮れ、少年は肩にかかる重さが、いつのまにか軽くなっていることに気づいた。
軽くなった、というより、置いてきた。
どこに置いたのかは分からない。
振り返って確かめる気にもならない。
ただ、肩の内側にあった角ばった塊が、いまはない。
ないからといって、失った感じはしない。
失うのは、取り戻したいものに対して起きる。
今日は、取り戻したい衝動がなかった。
灯は戻らない。
一歩は踏み出さず、半拍を守り、分け前は通り道のまま。
その積み重ねが、夕暮れの色と混ざり合って、余白を作る。
余白は、何もない場所ではない。
置かないで済んだものが、空気に溶けていく場所だ。
少年は、その余白に、今日の自分を座らせた。
——置いていくってね、
——捨てることじゃないよ。
——背負わないことだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、今日はその声に少しだけ頷いた。
頷いても、教えにはならない夕暮れだった。
- ■影の道で「拾わない石」を選ぶ
影の道には、手のひらほどの丸い石が転がっていた。
投げれば、よく跳ねそうな石。
握れば、手に収まる重さ。
持っていくこともできる。
だが少年は、拾わなかった。
拾えば、しばらくは手が温まる。
だが温まりは、やがて重さに変わる。
重さは、次の選択を狭める。
狭められた選択は、焦りを呼ぶ。
焦りは、乱暴を連れてくる。
少女が言った。
「いい石だよ」
「いいから、
置く」
「うん。
置けるのも、
強さだね」
少年は、石のそばを静かに通り過ぎた。
石は石のまま残る。
残ることで、誰かが必要なときに拾える。
必要なときは、石のほうから近づいてくる。
今日は、近づかない。
- ■黒板の字が「余」で止まり、「捨」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■余
余るの「余」。
捨てるの「捨」ではない。
教員は、その字を見て言った。
「今日は、余白の話をする」
生徒たちは、少し拍子抜けした。
余白は、役に立たないと教えられてきたからだ。
「戦争は、
余白を嫌った。
隙をなくせ。
間を詰めろ」
少年は、詰められた時間を思い出した。
詰められた時間には、逃げ場がない。
逃げ場がないと、人は人に当たる。
「生活の余白は、
逃げ場ではない」
教員は続けた。
「余白は、
衝突を起こさないための空気だ」
黒板の「余」の字の周りに、教員は何も足さなかった。
線も、説明も、例も。
足さないことで、余白は余白のまま働く。
少年は紙に書かなかった。
余白は、書くと埋まる。
- ■炊き出しの列で「皿を返す」
夕方の炊き出しで、少年は皿を受け取り、食べ終えたあと、すぐに返した。
名残惜しさはあった。
だが、舐めるように時間を引き延ばさない。
引き延ばすと、皿は“自分のもの”になる。
自分のものになれば、離すのが辛くなる。
青年は受け取って、軽く頷いた。
言葉はない。
返す動作が、十分な挨拶だ。
少女が言った。
「早いね」
「空ける」
「うん。
空けると、
次が来る」
空ける。
それは譲ることとは少し違う。
次のために、場を保つことだ。
- ■釜戸の前で「背負わない薪」を選ぶ
家に戻ると、少年は薪置き場を見た。
持てば運べる量がある。
だが今日は、一束も取らない。
取らないことで、腕は空く。
腕が空けば、転んだときに手が出る。
手が出れば、怪我が減る。
怪我が減れば、余計な水を使わない。
水を使わなければ、渇きが暴れない。
少女が言った。
「何もしないの?」
「背負わない」
「うん。
背負わない日は、
長く歩ける」
少年は釜戸の前に座り、何もしない時間を置いた。
何もしないことは、怠けではない。
置いていくという選択だ。
- ■影の輪で「余白を中央に置かない」
夕暮れ、影の輪へ向かうと、輪は静かにほどけかけていた。
中心の空席は相変わらず空席だが、今日はそこに余白を置かない。
余白は中央に置くと、皆が集まってしまう。
集まれば、余白は役目を背負わされる。
役目を背負えば、余白ではなくなる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
余白を、
背負わせなかったよ」
少年は、その言葉に胸が静かになるのを感じた。
余白は、背負うものではない。
通り過ぎるものだ。
——軽くなったね。
節子の声が、夕暮れの風に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、余白は風になる。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
肩が楽だ。
楽だからといって、浮かれない。
浮かれれば、また何かを拾ってしまう。
焼け跡の夕暮れは、
何も約束しない。
だが、置いていくことを許す。
少年は、今日一日の重さを、どこかに置いてきたまま、
軽い肩で夜へ向かう準備をしていた。
(第百十八章につづく)

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