第百二章 灯の引き算──影が「足さない暮らし」を始めた午後
午後、少年は自分が何かを“足さなくなっている”ことに気づいた。
言葉を足さない。
理由を足さない。
勇気を足そうともしない。
慰めを足そうともしない。
代わりに、必要のないものを一つずつ引いていく。
引くと、空く。
空くと、息が通る。
息が通ると、生活が回り始める。
灯は戻らない。
行き先は決めない。
速度は合わせる。
それらの次に残るのは、引き算だった。
——足すとね、
——自分の匂いが濃くなるんだよ。
——引くと、
——相手の匂いが分かる。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その言葉を信じたわけではない。
ただ、今日は確かに、匂いが分かる日だった。
薪の匂い。
湿った土の匂い。
炊き出しの汁の匂い。
それらが、いつもよりはっきり届く。
- ■影の道で「置き去りにされた看板」を拾わない
影の道の端に、古い看板が倒れていた。
板に書かれた文字は半分消え、
「防空」「注意」などの名残だけが読めた。
少年はそれを拾わなかった。
拾えば、何かに使える気がする。
薪にもなる。
板にもなる。
だが、拾わない。
少女が言った。
「拾わないの?」
「今日は、拾わない」
「うん。
それ、引き算だね」
少年は頷いた。
拾えるものを拾わないのは、贅沢ではない。
背中の荷を増やさないための選択だ。
持てる量は限られている。
限られているなら、
何を持たないかを決めるほうが重要になる。
看板は、そこに残った。
残ることで、過去の匂いだけを道に置く。
拾ってしまえば、過去は道から消える。
残す引き算が、ある。
- ■黒板に字が書かれず「消し跡」だけが残る
教室に入ると、黒板はきれいに消されていた。
だが、よく見ると、薄い消し跡が残っている。
ここに何かが書かれていた。
書かれて、消された。
消されたことが、今日の授業だった。
教員は言った。
「今日は、足さない話をする」
生徒たちは、静かに顔を上げた。
「戦争は、足した。
標語を足し、
命令を足し、
恐怖を足した」
少年は、壁に貼られた紙の文字を思い出した。
あれは足し算の文字だった。
足すほど、逃げ道が消えた。
「生活は、引く」
教員は続けた。
「言葉を引く。
手を引く。
期待を引く。
その分、息が残る」
教員は黒板に何も書かないまま、
チョークを置いた。
「今日は、
“引いてよかったもの”を、
心の中で一つだけ選べ」
少年は選んだ。
節子の死に意味を足す癖。
意味を足せば足すほど、節子が遠くなる。
遠くなるなら、足すのをやめる。
少女は、何も言わなかった。
その沈黙も、引き算だった。
- ■炊き出しの列で「具の多さ」を求めない
午後の炊き出しで、今日は具が少なかった。
列の中の誰かが、いつもなら文句を言ったかもしれない。
だが、誰も言わない。
言わない、というより、求めない。
青年が鍋をかき混ぜながら言った。
「今日は汁だ」
それだけだ。
説明はない。
理由もない。
不足を正当化しない。
正当化しないことで、不足は不足のまま置かれる。
置かれた不足は、争いになりにくい。
少年は椀を受け取り、
具を数えなかった。
数えないことが、引き算になる。
数えれば欲が増える。
欲が増えれば、奪う理由が増える。
- ■釜戸の前で「一つだけ」やる
家に戻ると、少年は釜戸の前で、
薪を一本だけ足した。
二本ではない。
三本でもない。
一本。
それ以上やれば、火が荒れる。
やらなければ、消える。
一本が、今の生活に合う。
少女が言った。
「いいね。
足しすぎない火」
少年は頷いた。
火も、心も、同じだ。
足すほど暴れることがある。
引けば、落ち着く。
- ■影の輪で「余計な席」を作らない
夜、影の輪へ向かうと、
席は増えていなかった。
戻り席も、預かり席も、名のない空きも、
必要な分だけ残っている。
増やしすぎない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
余計な席を作らなかったよ」
少年は、その言葉に深く頷いた。
席を増やすのは、やさしさにも見える。
だが、増やしすぎると、
誰も座らない席が増えて、
輪が疲れる。
輪が疲れれば、影が薄くなる。
影が薄くなれば、灯は落ち着かない。
——足さなくて、
——ありがとう。
節子の声が、
風に混じってそう言った気がした。
少年は、
その声に返事をしなかった。
返事を足さない。
それが、今日の引き算だった。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥には、
減らしたものの分だけ、
息が入る。
焼け跡の午後は、
余計なものを足さずに進む。
少年は、引き算の暮らしを、
静かに始めていた。
第百三章 灯の居所──影が「ここにある」を受け入れた夕暮れ

夕暮れ、少年は立ち止まり、あたりの気配が過不足なく満ちていることに気づいた。
足りないわけでも、余っているわけでもない。
ただ、ここにある。
その「ここ」が、今日は胸に収まる。
居場所を探さなくていい日だ。
灯は戻らない。
だが、戻らないことが、欠落を意味しなくなっている。
行き先を決めない。
速度を合わせる。
足さない。
引く。
それらの作法が積み重なると、最後に残るのは居所だった。
行く先ではない。
始まりでもない。
今、立っている場所。
——居所ってね、
——選ぶんじゃなくて、
——気づくものなんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、うなずかなかった。
うなずく必要がなかった。
気づいたという事実だけで、十分だったからだ。
- ■影の道が「動かない影」を持つ
影の道を歩くと、影が足元から離れない。
朝や昼は、影は伸びたり縮んだりして、どこか落ち着きがない。
だが夕暮れの影は、動かない。
足と一緒に止まり、足と一緒に進む。
少女が言った。
「影、今日は逃げないね」
「捕まえようとしてないからな」
「うん。
居所が合ってると、
影は離れない」
少年は、自分の歩幅を変えなかった。
影は自然に付いてくる。
引き寄せもしない。
追いかけもしない。
居所が合えば、関係はそれだけで成立する。
- ■黒板の字が「居」で止まり、動かない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■居
教員は、その字を消さず、足さず、ただ眺めてから言った。
「今日は、居ることの話をする」
生徒たちは、少しだけ背筋を伸ばした。
居る、という言葉は、命令にも逃げにもなりにくい。
「戦争は、
居ることを許さなかった。
動け。
移れ。
進め」
少年は、逃げ続けた日々を思い出した。
居ることが、危険だった日々。
「生活は、
居ることから始まる」
教員は、黒板の字に触れなかった。
「どこへ行くかより、
どこに居られるかだ」
少年は紙に書いた。
——節子と並んで座れた床
行き先ではない。
床だ。
そこに居られた事実が、今も胸を支えている。
少女は、何も書かなかった。
居ることは、書かなくても成立する。
- ■炊き出しの列で「居場所が譲られる」
夕方の炊き出しで、列に一人、ふらつく老人がいた。
誰かが声をかける前に、
前の人が一歩横へずれた。
場所が、譲られた。
順番ではない。
居場所だ。
老人は、その空きを見て、
静かにそこへ立った。
礼も説明もない。
だが、列は乱れなかった。
居場所は、奪うものではなく、
気づいた人が空けるものだ。
少年は、その光景を見て、胸が静かに温まるのを感じた。
- ■釜戸の前で、座る
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
何もしない。
火を見るでもなく、
灰をならすでもなく、
ただ座る。
少女が言った。
「今日は、
座る日だね」
少年は頷いた。
座ることは、止まることではない。
居所を確認することだ。
灯が戻らない場所に、
自分が居る。
それだけで、
生活は続いている。
- ■影の輪で「居る席」が確かめられる
夜、影の輪へ向かうと、
席はいつも通り、必要な分だけあった。
増えてもいない。
減ってもいない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
居る席を、
動かさなかったよ」
少年は、その言葉に深く息を吐いた。
動かさないことが、
守ることになる日がある。
——ここで、
——いい。
節子の声が、
そう言った気がした。
少年は、
その声を追わなかった。
追わないことで、
居所が固定される。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥に、
探さない静けさがある。
探さないから、
見失わない。
焼け跡の夕暮れは、
行き先を示さない。
だが、居所を与える。
少年は、
「ここに居る」という事実を、
初めて重さなく受け取った。
(第百四章につづく)

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