第百章 灯の行き先──影が「先を決めない」朝
朝、少年は戸口に立って、外の光を一度だけ見た。
見る、というより、測るに近かった。
今日の光は白い。
暖かさを約束しない白だ。
だが、拒みもしない。
行き先を示さない光は、歩き出す者にだけ意味を持つ。
灯は戻らない。
重さは置かれ、余白は折られ、記録は一行で止まっている。
それらが揃うと、不思議なことに、胸の奥で「次」を急かす声が消える。
先を決めないことが、進まないことと同義ではないと、身体が知り始めたのだ。
——行き先はね、
——決めるものじゃなくて、
——通って分かるものなんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を肯定も否定もしなかった。
肯定すれば指針になり、否定すれば抵抗になる。
どちらも、今日は余計だった。
- ■影の道に「分岐だけが残る」
影の道を歩くと、二つに割れた道が現れた。
どちらも似ている。
瓦礫の量。
影の濃さ。
風の通り。
違いは、ほとんどない。
少女が立ち止まった。
「今日は、どっち?」
少年は肩をすくめた。
「決めない」
少女は少し驚いた顔をして、すぐに笑った。
「いいね。
じゃあ、足が選ぶほう」
二人は同時に一歩を出し、自然に同じ道へ入った。
理由はない。
だが、理由がないことが、今日は理由だった。
分岐は、
選ばれなかった道を失わせない。
選ばれた道も、正解にしない。
ただ、通過を許す。
- ■黒板の字が「先」を指さなかった
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■先
だが、矢印も説明もない。
教員は言った。
「今日は、先について話さない」
まただ。
だが、生徒たちは戸惑わなかった。
話さないことが、ここ数日で一つの授業になっている。
「戦争は、
常に先を決めた。
進め。
勝て。
耐えろ」
少年は、命令の矢印を思い出した。
矢印は、人を早く動かす。
同時に、立ち止まる場所を消す。
「生活は、
先を決めない時間を必要とする」
教員は黒板の「先」を消さずに、
何も足さなかった。
「今日は、
“決めなかったことで助かったこと”を、
思い出すだけでいい」
少年は思い出した。
節子を病院へ連れて行くか、連れて行かないか、
決められなかった時間。
あの逡巡が、
節子と並んで座る最後の時間を作った。
決めなかったから、
一緒に居られた。
- ■炊き出しの列で「行き先不明の鍋」が置かれる
昼の炊き出しでは、
一つの鍋が、
行き先を書かれないまま置かれていた。
「これは?」
誰かが聞くと、
青年は答えた。
「未定」
未定の鍋。
配るかもしれない。
明日に回すかもしれない。
別の場所へ運ぶかもしれない。
だが、その未定が、
今日の列を落ち着かせていた。
誰も奪おうとしない。
誰も期待しすぎない。
行き先が決まっていないものは、
争いの理由になりにくい。
少年は思った。
灯の行き先も、
いまは未定でいい。
- ■釜戸の前で、道具を選ばない
家に戻ると、
少年は釜戸の前で、
何をするかを決めなかった。
薪を足すか。
灰を払うか。
ただ座るか。
少女が言った。
「今日は、
順番を決めない日だね」
少年は頷いた。
順番を決めないと、
手が勝手に動く。
必要なことから、
必要な分だけ。
それで、十分だった。
- ■影の輪で「行き先のない席」が開く
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席の向こうに、
もう一つ、名のない空きがあった。
席でも、
通路でもない。
行き先のない場所。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
灯の行き先を、
決めなかったよ」
少年は、その空きを見て、
胸が楽になるのを感じた。
行き先を決めると、
そこへ行かせようとしてしまう。
決めなければ、
灯は、灯の速度で動ける。
——先は、
——今日じゃなくていい。
節子の声が、
風の中でそう言った気がした。
少年は、
その声を追わなかった。
追わないことが、
行き先を奪わないことだからだ。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥には、
決めなかった選択が、
静かに並んでいる。
それらは、
迷いではない。
猶予だ。
焼け跡の朝は、
先を示さないまま明るい。
少年は、
決めない足取りで、
それでも確かに、前へ進んでいた。
第百一章 灯の速度──影が「急がない歩幅」を覚えた昼

昼、少年は自分の歩幅が、いつの間にか小さくなっていることに気づいた。
小さくなった、というより、合ってきたという感じだった。
速くも遅くもない。
ただ、今日の身体に合う長さ。
合わない歩幅は、足裏に違和感を残す。
合う歩幅は、違和感を作らない代わりに、景色を増やす。
灯は戻らない。
行き先は決めていない。
重さは置かれ、余白は折られ、記録は一行のままだ。
それらが揃った今、胸の奥で起きている変化は、速度だった。
急がない。
遅らせない。
合わせる。
——速度ってね、
——心が先に行くと速すぎるんだよ。
——身体が先に行くと遅すぎる。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、声の真偽を確かめなかった。
確かめるより、歩いてみるほうが早い。
- ■影の道で「追い越さない影」を見る
影の道を歩くと、前を行く人がいた。
少年より少し遅い。
追い越そうと思えば、簡単にできる距離だ。
だが、追い越さなかった。
理由はない。
ただ、影が重なり合う距離が、心地よかった。
影と影が、互いの輪郭を壊さず、同じ方向へ流れる。
少女が横で言った。
「追い越さないの?」
「今日は、
追い越さない」
「うん。
その速度、
影が嫌がってない」
少年は、その言い方に少し笑った。
影が嫌がらない速度。
それは、誰かに合わせる速度ではない。
場に合わせる速度だ。
瓦礫の角を曲がると、前の人は別の道へ入った。
自然な別れ。
挨拶も理由もない。
それでいい。
- ■黒板の字が「速」にならなかった
教室に入ると、黒板には文字が書かれていなかった。
教員はチョークを持ったまま、しばらく黙ってから言った。
「今日は、速度の話をしない」
また、しない。
それでも、皆は分かっている。
“しない”が、もう一つの教えになっている。
「戦争は、
速さを強いた。
急げ。
間に合え。
置いていくな」
少年は、急げと言われて転んだ日のことを思い出した。
転んだ理由は、遅かったからではない。
速さが合っていなかったからだ。
「生活は、
速さを選ばせる」
教員は続けた。
「選ぶというのは、
比べることではない。
自分の一歩と、
地面の反発を合わせることだ」
少年は紙に、短く書いた。
——今日は、
転ばない速さ
少女は、何も書かなかった。
書かない速度も、今日は正解だった。
- ■炊き出しの列で「進まない間」が守られる
昼の炊き出しでは、列が途中で止まった。
理由は簡単だ。
鍋が一度、火から外されたからだ。
「焦げる」
青年がそう言って、鍋を少し休ませた。
列は進まない。
誰も文句を言わない。
進まない間に、
人は肩を下ろし、
足の位置を変え、
息を整える。
止まることは、遅れることではない。
合う速度に戻すことだ。
少年は、胸の内側でも、同じことが起きているのを感じた。
灯が戻らない時間に、
心が先走りそうになると、
身体が止める。
止めることが、守ることになる。
- ■釜戸の前で、火の速さを待つ
家に戻ると、少年は釜戸の前に座り、火を見た。
薪を足さない。
灰も払わない。
ただ、燃える速度を待つ。
火は、急がせると荒れる。
放っておくと消える。
見て合わせる。
それだけで、火は安定する。
少女が言った。
「火も、
待たれると、
ちゃんと燃えるね」
少年は頷いた。
灯も、同じだ。
呼び戻さなくても、
追いかけなくても、
待たれることで、別の形に落ち着く。
- ■影の輪で「歩幅の印」が並ぶ
夜、影の輪へ向かうと、
輪の縁に、小さな印がいくつか並んでいた。
足跡ではない。
等間隔でもない。
人それぞれの歩幅の印だ。
少女が輪の外で言った。
「今日はね……
みんなの速さを、
揃えなかったよ」
少年は、その印を一つ一つ見た。
大きい印。
小さい印。
曲がった印。
どれも、消されていない。
——同じにしなくて、
——ありがとう。
節子の声が、
風に混じってそう言った気がした。
少年は、
その声を追わなかった。
追えば、また速さが狂う。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥で、
速度が落ち着いている。
急がない。
遅れない。
ただ、合っている。
焼け跡の昼は、
今日も進む。
進み方は、人の数だけある。
少年は、自分の歩幅で、
影と並んで歩くことを覚え始めていた。
(第百二章につづく)

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