佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第九十八章・第九十九章

目次

第九十八章 灯の余白──影が「書かない行」を残した夜

 夜、少年は机代わりの板切れを片づけながら、紙切れの端に残った余白に目を留めた。
 一行だけ書いた紙は、まだ使える。
 使える、という言い方が、今日はしっくりこなかった。
 余白は、使うためにあるのではない。
 残すためにある。

 書く手を許された朝から一日が過ぎ、胸の奥は静かに疲れていた。
 臨界の熱は、記録の温度へと落ち着いたが、落ち着きは同時に重さも連れてくる。
 書けるようになるというのは、楽になることではない。
 選ばなければならなくなる、ということだ。
 何を書くか。
 何を書かないか。
 そして、どこで止めるか。

 ——余白はね、
 ——逃げじゃないよ。
 ——呼吸だよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
 少年は、その言葉に、初めてはっきりと頷いた。
 書かない行は、怠慢ではない。
 書きすぎないための呼吸だ。

 

  • ■影の道に「消されなかった白」が残る

 夜風に吹かれながら影の道を歩くと、
 昼に見た白い線の一部が、雨に洗われて薄くなっていた。
 それでも、完全には消えていない。
 石と石の間に、
 線になりきらない白が残っている。

 少女が言った。

「消えたんじゃないね」

「残ったな」

「うん。
 消さなかった白

 少年はその言い方が気に入った。
 消えた跡ではなく、
 消されなかった白。
 人が消そうとしなかった結果、残ったもの。

「書かない行も、
 これと同じだよ」
 少女は続けた。
「消し忘れじゃない。
 消さなかった選択」

 少年は足を止め、白の上に足を置かないように避けて通った。
 踏めば消える。
 踏まなければ残る。
 その判断は、誰にも命じられていない。

 

  • ■黒板の字が「余」で止まった

 夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■余

 足りないのではない。
 余っている。
 だが、その余りは、捨てられる余りではない。

 教員はチョークを置いたまま言った。

「今日は、余白の話をする」

 教室の空気が、少し緩んだ。
 余白は、試験にも、命令にも、なりにくい。

「戦争は、
 余白を嫌った。
 行間を詰め、
 沈黙を埋め、
 空白を疑った」

 少年は思った。
 節子の沈黙も、
 余白として許されなかった時間があった。

「だが生活は、
 余白がなければ続かない」

 教員は、黒板の「余」の字の周りに、何も書かなかった。

「余白は、
 書かないことを決めた人の仕事だ」

 少年は紙に、何も書かなかった。
 それでいいと、今日は分かっていた。
 少女も、ペンを置いたまま、窓の外を見ていた。

 

  • ■炊き出しの列で「一口分の余り」が回る

 夜の炊き出しでは、
 鍋の底に、ほんの一口分の汁が残った。

 誰の椀にも注げない量。
 捨てるには惜しい。
 だが、分けるには足りない。

 青年は、その鍋を火から下ろし、
 蓋をして、脇へ置いた。

「これは、余白だ」
 と、誰かが冗談めかして言った。

 皆が笑った。
 笑いは短く、軽い。
 だが、その場の空気は温まった。

 余った汁は、
 誰のものにもならない。
 だから、争いにもならない。
 翌朝、別の鍋に混ぜられるかもしれないし、
 そのまま捨てられるかもしれない。
 行き先を決めない余り。
 それが、今日の作法だった。

 

  • ■釜戸の前で、少年が「書かない行」を守る

 家に戻ると、少年は紙切れをもう一度取り出した。
 一行の下に、広い余白。
 炭を置けば、簡単に埋まる。
 だが、今日は置かない。

 少女が隣に座り、何も言わずに頷いた。
 許可でも、禁止でもない。
 ただ、見守る頷き。

 少年は、紙を折った。
 余白を内側にして折る。
 見えなくするが、消さない。
 その仕草が、胸の奥を落ち着かせた。

「書かないって、
 意外と難しいな」
 少年が言うと、
 少女は笑った。

「うん。
 でも、
 書かないって決めた日は、
 ちゃんと生きてる証拠だよ」

 少年は、その言葉を胸に置いた。
 書いた行で生きる日もある。
 書かない行で生きる日もある。
 どちらも、生活だ。

 

  • ■影の輪で「余白の席」が残る

 夜、影の輪へ向かうと、
 中心の空席の周りに、
 もう一つ、空いた場所があった。

 席ではない。
 通路でもない。
 ただ、何も置かれていない場所。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……
 書かない行の席を作ったよ」

 少年は、その空きを見つめた。
 灯の席ではない。
 戻り道でもない。
 だが、確かに必要な空きだ。

 ——それで、いい。

 節子の声が、
 風の中でそう言った気がした。
 少年は、その声を追わなかった。
 追わないことが、余白を守ることだ。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
 胸の奥には、
 書いた一行と、
 書かなかった行が、
 並んで置かれている。

 どちらも重たい。
 どちらも軽い。
 重さと軽さが釣り合う場所が、
 余白なのだと、少年は思った。

 焼け跡の夜は、
 今日も冷える。
 だが、紙の余白のように、
 冷えきらない場所が、確かに残っている。

 灯は戻らない。
 だが、戻らない灯のために、
 書かない行が、
 静かに生き続けていた。

第九十九章 灯の重さ──影が「持たない選択」を覚えた朝

 朝、少年は肩が軽いことに気づいた。
 眠りが深かったわけではない。
 夢を見なかったわけでもない。
 ただ、起き上がるとき、いつも感じていた引き戻される重さが、今日はなかった。

 灯は戻らない。
 記録は一行で止まり、余白は折られて胸に収まっている。
 その状態が続くと、身体は勝手に次の作法を覚えるらしい。
 持たない
 それは投げ捨てることではない。
 忘れることでもない。
 ただ、腕に載せ続けない選択だ。

 ——重さってね、
 ——無くなるんじゃないよ。
 ——置き場所が変わるだけ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
 少年は、声の主を探さなかった。
 探さないことが、置き場所を動かす作法だからだ。

 

  • ■影の道に「持たれなかった荷」が並ぶ

 学校へ向かう影の道の脇に、荷物がいくつか並んでいた。
 布に包まれた鍋。
 割れた椀。
 穴の空いた靴。

 誰かが捨てたのではない。
 誰かが一時的に置いたのだ。
 持ち歩けば邪魔になるが、後で必要になるかもしれない。
 その判断が、道端に整然とした列を作っている。

 少女が言った。

「持たないで、置いたんだね」

「盗まれないのか?」

「盗む人は、
 自分の重さで手が塞がってる」

 少年は、その言葉に小さく笑った。
 重さは、奪う側の手も縛る。
 持たない選択は、
 自分を軽くするだけでなく、
 他人を疑わなくて済ませる。

 少年は荷に触れず、
 距離を測って通り過ぎた。
 触れない理解が、ここでも役に立つ。

 

  • ■黒板の字が「重」で止まり、消される

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■重

 教員は、その字を一度見てから、
 何も言わずに消した。
 消された黒板に、粉が残る。

「今日は、重さの話をしない」
 教員はそう言った。

 ざわりとした空気が、すぐに落ち着く。
 話さない、という選択が、
 この字に似合っていた。

「重さは、
 説明すると増える」

 教員は続けた。

「理由を足すほど、
 背負う意味が増え、
 下ろす理由が減る」

 少年は、節子の死に、
 どれだけ多くの理由を付けてきたかを思い出した。
 理由は慰めにならなかった。
 ただ、背中の荷を増やした。

「今日は、
 “持たなくてよかった重さ”を、
 考えるだけでいい」

 書く必要はない。
 声に出す必要もない。
 考えるだけ。
 その余白が、胸に優しかった。

 

  • ■炊き出しの列で「軽い椀」が選ばれる

 昼の炊き出しでは、
 木の椀と金属の椀が並べられていた。

 金属の椀は丈夫だ。
 だが重い。
 木の椀は軽いが、欠けやすい。

 多くの人が、
 今日は木の椀を選んだ。
 理由を誰も言わない。
 歩く距離が長い。
 腕が疲れている。
 それだけだ。

 少年も木の椀を受け取った。
 軽さは、量を減らさなかった。
 同じ一杯が、
 少しだけ楽に運べる。

 ——軽いって、
 ——正しいとか間違いじゃないんだな。

 少年は、胸の内でそう思った。

 

  • ■釜戸の前で、手を空にする

 家に戻ると、
 少年は釜戸の前で立ち止まった。
 何かをしようとして、
 何もしない。

 灰をならすでもなく、
 薪を足すでもなく、
 温度を確かめもしない。

 少女が言った。

「今日は、手を空にする日だね」

 少年は頷いた。
 手が空くと、
 胸が軽くなる。
 胸が軽いと、
 息が深くなる。

 灯が戻らない場所に、
 手を伸ばさない。
 それが、今日の作法だった。

 

  • ■影の輪で「持たない席」が生まれる

 夜、影の輪へ向かうと、
 輪の外側に、
 小さな空きが一つできていた。

 席ではない。
 通路でもない。
 ただ、誰も荷を置かない場所。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……
 重さを持たない席を作ったよ」

 少年は、その空きを見て、
 安心した。
 座らなくてもいい場所。
 何も背負わなくていい場所。

 ——持たなくても、
 ——忘れてないよ。

 節子の声が、
 そう言った気がした。
 少年は、その声を抱えなかった。
 抱えないことが、
 今日の答えだ。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
 胸の奥には、
 一行の記録と、
 折られた余白と、
 置かれた重さがある。

 どれも、手に持っていない。
 それでいい。
 それが、生活の進み方だ。

 焼け跡の朝は、
 今日も続く。
 少年は、軽い肩で、
 次の一日を迎える準備をした。

(第百章につづく)

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