第九十四章 灯の沈黙──影が「聞かない」を選んだ午後
昼前、少年は胸の奥が静かすぎることに気づいた。
音が消えたのではない。
消えたのは、音を探す癖だ。
残響を確かめようと耳を澄ます、その身構えが、今日は起きなかった。
灯は戻らない。
残響も、今は主張しない。
それなのに、胸は空洞にならない。
空洞にならない理由を、少年は言葉にしなかった。
言葉にすれば、また“聞く側”に戻ってしまうからだ。
——沈黙ってね、
——聞かないことじゃないんだよ。
——聞こうとしないことなんだよ。
節子の声が、背骨の奥で、そう言った気がした。
声だったのか、声の記憶だったのか、少年には区別がつかなかった。
だが区別しないこと自体が、今日は正しいように思えた。
- ■影の道に「足音のない区間」が生まれた
学校へ向かう影の道に、
音が消える区間があった。
瓦礫はある。
土もある。
だが、足を置いても、音が立たない。
踏み固められた場所だ。
少女がその区間で歩みを緩めた。
「ここ、
音が返ってこないね」
「静かだな」
「ううん。
返事をしないだけ」
少年は、返事をしない道という言い方が、妙に腑に落ちた。
道が無反応なのではない。
反応を返す役目を、いったん降りている。
「返事をしないって、
悪いことじゃないのか?」
少女は首を振った。
「いつも返事をすると、
相手を疲れさせることもあるよ」
少年は、節子の咳に、
何度も声をかけ続けた夜を思い出した。
返事を引き出そうとする声は、
優しさであると同時に、
負担でもあった。
足音のない区間を抜けると、
再び音が戻った。
音が戻ると、
少年はほっとした。
だが、戻らない区間があったことも、
なぜか胸に残った。
- ■黒板の字が「黙」で伏せられていた
教室に入ると、
黒板には布がかけられていた。
教員は、
布を外さずに言った。
「今日は、
黙ることについて考える」
ざわりとした気配が、すぐに引いた。
黙ることは、
この時代、疑われやすい行為だ。
隠している。
反抗している。
怠けている。
そう解釈されがちだった。
「戦争は、
黙る者を許さなかった」
教員の声は低かった。
「命令に応えろ。
返事をしろ。
声を出せ。
それが、生き残る条件だった」
少年の胸が、
ひくりと動いた。
「だが生活は、
黙る時間を必要とする」
教員は、
黒板の布を少しだけめくった。
現れた字は、これだった。
■黙
だが、その字の一部が、
意図的に隠されている。
「全部見せない黙り方もある。
全部隠さない黙り方もある」
少年は、
節子の最期の沈黙を思い出した。
あれは拒絶ではなかった。
体が、もう返事をしなかっただけだ。
「今日は、
“黙ってよかったこと”を書け」
少年は書いた。
——節子が眠ったあと、
声をかけなかった時間
少女は紙を見せた。
——母が泣かなかった夜に、
理由を聞かなかったこと
教室は、
誰の声も必要としない空気に包まれた。
- ■炊き出しの列で「無言の合図」が止まる
昼の炊き出しでは、
今日は合図の音も減っていた。
鍋を叩く音は一度だけ。
あとは、
列が自然に止まり、進む。
青年は何も言わない。
指示もしない。
ただ、
鍋の前に立っている。
人々は、
その沈黙を破ろうとしなかった。
沈黙は、
怠慢でも混乱でもない。
過不足のない時間だった。
少年は、
声がなくても回る生活を見て、
灯がいなくても回る胸のことを思った。
——いないから壊れる、
——というわけじゃない。
壊れないように、
声を足さない日がある。
- ■釜戸の前で、沈黙が熱を保つ
家に戻ると、
釜戸の前は、相変わらず静かだった。
だが、
冷たくはない。
少年は、
灰の上に手をかざした。
灯はいない。
音もない。
それでも、
ほんのわずかな温度が、
掌に伝わる。
「まだ、残ってるな」
少年が言うと、
少女は首を振った。
「残ってるんじゃない。
沈黙が、保ってる」
沈黙が熱を保つ。
その言い方は、
少年にとって新しかった。
喋らない。
触らない。
確かめない。
それでも、
生活の温度は下がらない。
- ■影の輪で「黙る席」が中心を空ける
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席は、
いつもより広く取られていた。
誰も近づかない。
誰も説明しない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
灯の席を、
黙ることで守ったよ」
少年は、その言葉に頷いた。
守るために、
触れない。
呼ばない。
語らない。
輪の中に、
音はない。
だが、
不安もない。
——黙ってくれて、
——ありがとう。
節子の声が、
そう言った気がした。
だが少年は、
その声を追わなかった。
追わないことが、
今日の作法だった。
少年は縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
胸は、
灯を探さない。
耳は、
残響を追わない。
沈黙は、
失われた証ではない。
役目を終えた証だ。
焼け跡の午後は、
音を足さずに進む。
影は、
語らずに支える。
少年は、
黙ったまま、
生きていることを続けた。
第九十五章 灯の手触り──影が「確かめない確かさ」を選んだ夕方

夕方、少年は胸の奥に触れた気がする感覚だけが残っていることに気づいた。
触れたのではない。
触れた“気がした”だけだ。
それでも、その気配は、確かな手触りとして胸に居座っている。
灯は戻らない。
残響も沈黙も、今日は前へ出ない。
それなのに、胸は落ち着いている。
落ち着きの理由を、少年は確かめなかった。
確かめれば、言葉が要る。
言葉が要れば、また形にしなければならない。
——確かさってね、
——触らなくても分かる日があるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
声なのか、思い出なのか、
区別はつかない。
だが、区別しないことが、今日の正解だった。
- ■影の道で「触れなかった縁」を歩く
学校からの帰り、影の道の縁に、崩れかけた煉瓦の列があった。
触れれば落ちる。
落ちれば音がする。
音がすれば、誰かが振り向く。
少年は、煉瓦に触れなかった。
触れないまま、
距離を測り、
足の置き場を決め、
縁に沿って歩いた。
少女が言った。
「今の、
触らないで確かめたね」
「危ないのは分かった」
「うん。
でも、触らなくても分かったでしょ」
少年は頷いた。
危なさは、
触れて初めて分かるものではない。
視線の高さ。
影の濃さ。
風の通り。
それらが、先に教えてくれる。
「灯もね、
いま、そういう位置にいる」
少女が言った。
胸の奥を覗き込むような言い方だったが、
覗かないことが、今日の作法だ。
- ■黒板の字が「触」に届かなかった
教室に入ると、黒板には二画だけが残っていた。
「触」の字を書こうとして、途中でやめた跡だ。
教員はチョークを置き、
生徒たちを見回して言った。
「今日は、“触らない理解”について考える」
触らない理解。
矛盾のように聞こえたが、
少年には、今日一日で十分に分かる言葉だった。
「戦争は、
触らせなかった。
死に触れるな。
疑いに触れるな。
命令に触れるな」
教室の空気が、少し張り詰める。
「だが生活は、
触らない選択を、自分で決める」
教員は、途中の字を消さなかった。
完成させない。
完成させないこと自体が、理解の形だった。
「触れないからこそ、
壊さずに済むものがある」
少年は紙に書いた。
——節子の最期の夜、
背中に手を置かなかったこと
置けば、
自分の体温を移したくなっただろう。
移せば、
離れられなくなっただろう。
少女は紙を見せた。
——母の荷物を、
勝手に片づけなかった夕方
触らないことは、
無関心ではない。
尊重だ。
- ■炊き出しの列で「触れずに伝わる量」を見る
夕方の炊き出しでは、
量を量る柄杓が使われなかった。
青年は、
鍋の中を一度見て、
椀を差し出す。
量は、
毎回少しずつ違う。
だが、
誰も不満を言わない。
多い日も、
少ない日も、
触れずに伝わる合図があった。
「今日は、このくらい」
と、誰も言わないのに、
列は納得して進む。
少年は思った。
触らないで伝わるのは、
信用があるからだ。
確かめない確かさは、
積み重なった日々の形だ。
- ■釜戸の前で、触れない手が温度を覚える
家に戻ると、
釜戸の前に立ち、
少年は手を伸ばしかけて止めた。
触れない。
触れないが、
距離だけを測る。
灰の上に、
まだ熱があることが分かる。
触れなくても、
空気が教えてくれる。
「分かる?」
少女が言う。
「うん」
少年は手を下ろした。
触らないことで、
熱は熱のまま保たれる。
「灯もね、
触られないほうが、
ちゃんと灯でいられる日がある」
少年は、その言葉に、
はじめて深く頷いた。
- ■影の輪で「触れない席」が守られる
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席は、
細い線で囲まれていた。
入るな、という線ではない。
触れるな、という線だ。
誰も踏み込まない。
誰も説明しない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
灯の席を、
触らないで残したよ」
少年は、
その席を見つめた。
座らなくても、
灯はそこに居る。
居るという感覚だけが、
静かに共有されている。
——触らなくても、
——分かってくれて、
——ありがとう。
節子の声が、
風のように通り過ぎた気がした。
少年は、
その声を引き止めなかった。
触らないことは、
離れることではない。
距離を守ることだ。
少年は輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
胸の奥に、
手触りはない。
だが、
確かさがある。
それは、
触れて確かめた確かさより、
ずっと壊れにくい。
焼け跡の夕方は、
触れない距離で、
人を生かす。
影は、
手を出さずに、
支え続けていた。
(第九十六章につづく)

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