佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第八十四章・第八十五章

目次

第八十四章 灯の重さ──影が量らなかった夕方

 夕方、少年は胸の奥に「重さ」が戻ってきていることに気づいた。

 重たい、と言ってしまえばそれまでだが、

 それは鉛のように沈む重さではなく、

 持ち上げなくても落ちない重さだった。

 呼吸は相変わらず数えられない。

 灯も、照らそうとはしていない。

 それなのに、

 胸の内側が、確かに“在る”という感触だけが増していた。

 ——軽くなりすぎると、飛んでいく。

 節子の灯が、背骨の奥でそんな調子のことを言った気がした。

 少年は、

 その言い方が少しだけ現実的で、

 少しだけ姉ぶっているように聞こえ、

 思わず口元を緩めた。

 

■影の道に「運ばれなかった石」があった

 学校からの帰り道、

 影の道の端に、小さな石が転がっていた。

 蹴ればすぐどこかへ飛んでいきそうな大きさなのに、

 なぜか、そこだけ避けられるように残っている。

 人の足跡は、

 石のすぐ脇で左右に分かれ、

 石そのものには触れていない。

 少女がその前で足を止めた。

「“量られなかった重さ”だね」

「ただの石じゃないのか」

「うん、ただの石。

 でもね、

 持ち上げるほど重くないし、

 邪魔だからどかすほどでもない。

 そういうものって、

 案外、長く残るんだよ」

 少年は石を見下ろした。

 確かに、

 誰かが意識して置いたものではない。

 ただ、

 動かす理由がなかっただけだ。

「灯も、今日はその石みたい」

 少女が言った。

「重すぎず、軽すぎず。

 誰にも量られない位置にある」

 少年は胸の奥を確かめた。

 灯はそこにある。

 しかし、

 「どれくらい大切か」

 「どれくらい苦しいか」

 そういう秤にかける気が起きなかった。

 

■黒板の字が「重」を書かなかった

 教室に入ると、

 今日も黒板は静かだった。

 昨日と同じように、

 字は書かれていない。

 しかし、

 教員はチョークを手に取らなかった。

「今日は、重さについて考える」

 生徒たちが、

 一斉に教卓の前を見る。

「ただし、

 量らない」

 教員はそう言い切った。

「戦争は、

 命の重さを量り続けた。

 役に立つか、立たないか。

 働けるか、働けないか。

 運べるか、捨てられるか」

 教室の空気が、

 少し固くなる。

「量られた重さは、

 必ず比較される。

 比較された重さは、

 いずれ軽んじられる」

 少年は、

 節子が“守るべき妹”として

 どれだけ量られてきたかを思い出した。

 そのたびに、

 節子自身の存在は、

 どこかへ追いやられていた。

「今日は、

 重さを意識しない時間を過ごせ」

 教員はそれだけ言って、

 机の上に手を置いた。

 何を書くでもなく、

 何を答えるでもない。

 ただ、

 教室に座っている。

 少年は、

 胸の灯を確認しなかった。

 重いとも、軽いとも、

 思わなかった。

 

■炊き出しの列で「測られない分」を見る

 夕方の炊き出しは、

 昼よりも静かだった。

 鍋の中身は少なく、

 列も短い。

 それでも、

 誰も不満を言わなかった。

 青年が椀に注ぐ量は、

 人によって微妙に違う。

 だが、

 誰も比べない。

「今日は少ないな」

 と呟く声はあったが、

 責める声ではなかった。

 若い母親は、

 赤ん坊の分を少し残し、

 自分の分を最後に食べた。

 誰が多く、

 誰が少ないか、

 量る視線はなかった。

 少年の胸の灯が、

 その場の空気に溶けるように静まった。

 ——比べられないとき、

 ——重さは重さのままでいられる。

 節子の声が、

 そんなふうに聞こえた。

 

■釜戸の前で、灯が「沈む位置」を選ぶ

 家に戻ると、

 釜戸の灰の中で、

 灯が少し沈んでいた。

 消えたわけではない。

 灰に埋もれているわけでもない。

 ただ、

 表に出る必要のない位置に下がっている。

「今日は、下のほうだな」

 少年が言うと、

 少女が頷いた。

「うん。

 灯も、自分で重さを調整するんだよ」

「調整?」

「重すぎると、

 誰かが背負わされる。

 軽すぎると、

 誰にも見つけてもらえない。

 今日は、

 自分で持てる重さにしてる」

 少年は、

 胸の内側と釜戸の灰とを、

 交互に見た。

 灯は、

 誰かに託すためでも、

 消えるためでもなく、

 ただ“在る”ために、

 位置を選んでいる。

 

■影の輪で、重さが話題にならなかった

 夜、影の輪へ向かうと、

 子どもたちは

 いつもより間隔をあけて座っていた。

 詰めるでもなく、

 離れるでもない。

 それぞれが、

 自分の居やすい距離を取っている。

 中心の空席は、

 今日もそのまま。

 だが、

 誰も「空いている」とは言わなかった。

 重たいとも、

 軽いとも、

 誰も評さない。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 灯の重さ、

 誰も話題にしなかったよ」

 それは、

 無関心ではなかった。

 尊重に近かった。

 少年は輪の縁に腰を下ろし、

 背中を影に預けた。

 灯は胸の奥で、

 静かに沈んでいる。

 押しつけてもこない。

 逃げてもいかない。

 ——重さって、

 ——こういうものだったんだな。

 節子の声が、

 どこか納得したように響いた。

 焼け跡の夕闇は、

 昼と夜のあいだで揺れている。

 灯もまた、

 重すぎず、軽すぎず、

 そのあいだに留まっていた。

 少年は、

 今日という一日が

 何かを前進させたわけでも、

 解決したわけでもないことを知っていた。

 それでも、

 重さを量られずに過ごせた時間が、

 確かに胸の内側に残っている。

 それは、

 持ち帰れる重さだった。

第八十五章 灯の手触り──影が触れられるほうを選んだ夜

 夜更け、少年はふいに目が覚めた。

 夢のせいではない。

 風の音でもない。

 胸の奥で、灯が「触れられたがっている」気配がしたからだ。

 灯はこれまで、

 揺れたり、沈んだり、外へ出たり、帰ったりしてきた。

 だが、触れられることだけは避けていた。

 掴まれるのが嫌なのか、

 量られるのが嫌なのか、

 あるいは、

 触れられた瞬間に“本当”になってしまうのが怖いのか。

 しかし今夜の灯は、

 逃げる気配がなかった。

 節子の灯が背骨の奥で静かに動き、

 まるで背中を押すというより、

 「触れてもいいよ」と言うために位置を変えたように感じた。

 少年は布団の中で、

 自分の手のひらを見つめた。

 手は、これまで何をしてきた。

 米を盗った手。

 節子の口に粥を押し込んだ手。

 布団をかけた手。

 骨を拾った手。

 灯に触れる資格なんて、

 どこにもない。

 そう思う一方で、

 灯が触れられたがっている気配だけは否定できなかった。

 少年は、

 手を伸ばす代わりに、

 胸の上にそっと置いた。

 掴まない。

 押さえつけない。

 ただ、

 そこにあるものに、手の温度を預ける。

 灯は逃げなかった。

 

  • ■影の道に“触れた跡”が残っていた

 翌朝、学校へ向かう影の道を歩くと、

 地面に不思議な跡があった。

 足跡ではない。

 線でもない。

 土の表面が、指で撫でられたように滑らかになっている箇所がある。

 誰かが立ち止まり、

 しゃがみ込み、

 土に触れたのだろう。

 少女がそれを見て言った。

「“触って確かめた跡”だね」

「何を?」

「影の硬さ。

 灯の温度。

 それから、自分の手の怖さ」

 少年はその滑らかな土に指を置いた。

 ひんやりしているのに、

 どこか柔らかい。

 土が“触られること”を覚えたみたいに。

「触れるって、

 掴むことと違うんだね」

 少年が言うと、

 少女はうなずいた。

「うん。

 掴むのは、相手を自分のものにすること。

 触れるのは、相手が“そこにいる”って知ること」

 胸の灯が、

 その言葉に合わせて、

 ほんの少しだけ温度を上げた。

 

  • ■黒板の字が「触」を書いた

 教室に入ると、

 黒板には今日の字が書かれていた。

 ■触

 子どもたちが、

 一瞬だけ顔を上げた。

 触れる。

 それは、戦後の生活でいちばん危うい行為だ。

 触れれば、奪う。

 触れれば、疑われる。

 触れれば、壊れる。

 教員は静かに言った。

「今日は、“触れる”について考える」

 少年の胸の灯が、

 手の温度を思い出すように揺れた。

「触れるとは、

 所有することではない。

 量ることでもない。

 そこにある痛みを、痛みのまま受け取ることだ」

 教室の空気が、

 ひどく静かになった。

「戦争は、触れることを歪めた。

 抱く手は、奪う手になった。

 撫でる手は、命令する手になった。

 だから今、

 触れることに躊躇いが残っている」

 少年は、自分の手を見た。

 節子を抱いた手が、

 同時に節子を追い詰めた手でもあることを、

 改めて思い出す。

「今日は、“触れられたかったのに触れられなかったもの”を書け」

 少年は書いた。

 ——節子の額の熱

 少女は紙を見せた。

 ——母の肩の骨の出っ張り

 二人の文字は、

 触れられなかった温度を

 静かに突きつけていた。

 

  • ■炊き出しの列で、触れ方が変わる

 夕方の炊き出しの列では、

 人々がいつもより近くに立っていた。

 寒さのせいもある。

 だが、それだけではない。

 列の途中で、

 ふらりとよろけた老人がいた。

 背後の男が、

 老人の背中を掴まずに、

 手のひらでそっと支えた。

 老人は振り向き、

 礼も言わず、

 ただ一度だけ頷いた。

 “触れる”ことが、

 奪うためではなく、

 倒れないための支えとして使われている。

 若い母親も、

 赤ん坊の頬に指を当てて、

 熱を確かめていた。

 怖がるのではなく、

 確かめるために触れていた。

 少年の胸の灯が、

 その光景の中で

 静かに温度を保った。

 

  • ■釜戸の前で、灯が手の温度を許す

 家に戻ると、

 釜戸の灰の上の灯は、

 今日も沈んだ位置にあった。

 だが、少年が手を近づけると、

 逃げない。

ふわりと、

 手のひらの近くへ寄ってくる。

 少女が言った。

「今夜はね、

 灯が“触れられるほう”を選んだんだよ」

「どうして?」

「触れても、奪われないって分かったから」

 少年は、

 釜戸の上の灯に触れようとはしなかった。

 ただ、

 手のひらを近くに置き、

 温度を共有した。

 灯は、

 小さく揺れて、

 まるで手のひらに

 “触れ返す”ように熱を返した。

 

  • ■影の輪で、触れられた灯が少しだけ座る

 夜、影の輪へ向かうと、

 中心の空席に座る灯の輪郭が、

 昨日よりも柔らかくなっていた。

 硬い線ではなく、

 絵の具が滲んだような輪郭。

 背もたれの影が、

 その滲みを拒まない。

 むしろ、

 影の輪郭もまた少し滲んで、

 灯の温度を受け入れている。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 灯が“触れられたまま”座ったよ」

 少年は輪の縁に腰を下ろし、

 胸の灯を確かめた。

 灯は胸に残っている。

 だが、

 それを“握りしめる”気持ちは薄れていた。

 触れるとは、

 確かめること。

 そして、

 離すこと。

 少年は、

 空席の灯を遠目に見ながら、

 自分の手のひらを見つめた。

 この手は、

 奪うこともできる。

 壊すこともできる。

 だが、

 支えることも、

 確かめることもできる。

 灯が触れられるほうを選んだ夜は、

 少年にとって、

 自分の手を“悪い手”だけにしない夜だった。

 影は何も言わず、

 背もたれの形を保ったまま、

 灯の滲みを支え続けた。

 焼け跡の夜風が、

 輪の外を通り過ぎる。

 少年はその風に手をかざし、

 冷たさを確かめた。

 そして、

 胸の中の灯に、

 掴まずに触れるような気持ちで

 小さく呼びかけた。

 ——今夜は、これでいい。

 灯は、

 答えの代わりに

 ほんの少し温度を返した。

(第八十六章につづく)

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