佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第八十二章・第八十三章

目次

第八十二章 灯の居残り──影が席を温め続けた朝

 朝、少年は目を覚ました瞬間に、胸の奥で「居残る」という決断が行われた気配を感じた。

 昨夜、戻ってきた灯は、鳩尾のあたりで静かに呼吸をしていたが、今朝はそれよりも深く、骨の内側に腰を落ち着けている。

 外へ行く準備も、輪へ戻る気配もない。

 ただ、ここに居る。

 それだけを選んだようだった。

 節子の灯は背骨の奥で、昨夜と同じ位置に留まり、

 何も言わず、しかし逃げる素振りも見せなかった。

 ——今日は、出ない日だね。

 そんな調子の沈黙が、背中から胸へ伝わる。

 少年は布団の中で、しばらく動かなかった。

 灯が居残る日というのは、

 なにかを始める日でも、終える日でもない。

 決断をしないことを決断する日なのだと、

 体が先に理解していた。

 

■影の道に「消えなかった足跡」が残っていた

 学校へ向かう影の道は、昨夜の雨で半分ほど流されていた。

 線も足跡も、輪郭がぼやけ、

 どれが行きでどれが帰りなのか、見分けがつかない。

 だが、その中に、

 どうしても消えない足跡がひとつだけあった。

 深く踏みしめられた跡でもない。

 何度も上書きされたわけでもない。

 ただ、

 そこに立ち止まり、

 動かなかった時間が長かったせいで、

 土が固まってしまったような跡だった。

 少女が足を止め、そこを見下ろした。

「“居残った足”だね」

「歩いてないのに、残るのか」

「歩かない時間が長いと、

 逆に、地面に覚えられちゃうんだよ」

 少女は、

 足跡の縁を指でなぞった。

「外へ行く足も、

 帰る足も、

 たしかに大事だけどね。

 今日は動かない、って決めた足も、

 生活には必要なの」

 少年は、自分の胸の灯を思った。

 今朝の灯は、

 まさにこの足跡のようだった。

 外へ行かず、

 帰るでもなく、

 ただ、胸の中で地面を固めている。

 

■黒板の字が「居残る」という行為を肯定した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■残

 その字を見た瞬間、

 少年は少し身構えた。

 残る、という言葉は、

 いつも「取り残される」と並んで使われてきたからだ。

 だが教員は、

 今日はその字を責めるようには語らなかった。

「今日は、“残る”について考える」

 少年の鳩尾の灯が、

 動かないまま、

 しかし確かに温度を保った。

「残るというのは、

 遅れることでも、

 負けることでもない」

 教員はそう言って、

 黒板の字の横に、

 小さくもう一字を書いた。

 ——居

「生活にはな、

 “先へ行く者”と

 “戻る者”だけでなく、

 居残って場所を保つ者が必要だ」

 教室の空気が、

 ゆっくりと落ち着いていく。

「誰も居なくなった場所は、

 すぐに荒れる。

 風が吹き、

 埃が積もり、

 やがて“帰る場所”ですらなくなる」

 少年は、

 節子が死んだあとの家を思い出した。

 誰も居なかった時間の長さが、

 家をどれほど冷たくしたか。

「今日は、“居残ったことで守られたもの”を書け」

 少年は、迷わず書いた。

 ——節子が眠っている間、

  何もできずに横に座っていた夜

 少女も紙を見せた。

 ——母が倒れたあと、

  誰もいなくならないように

  家に灯りをつけ続けた日

 二人の文字は、

 何もしなかった時間が、

 実は場所を守っていたことを

 静かに証明していた。

 

■炊き出しの列に「抜けない席」があった

 昼、炊き出しに向かうと、

 列の一角に、

 いつも空いているはずの場所が埋まっていた。

 若い母親が、

 今日は並ばず、

 列の端に腰を下ろしている。

 配給を受け取るでもなく、

 去るでもない。

 ただ、そこに居る。

 「今日は、受け取らないの?」

 誰かが聞くと、

 母親は首を振った。

「昨日、少し多くもらったから。

 今日は……居てるだけ」

 列はそのまま流れ、

 母親の前後を通り過ぎていく。

 誰も咎めず、

 誰も追い立てない。

 受け取らない人が居ることで、

 列が保たれているようにさえ見えた。

 少年の胸の灯が、

 その光景に合わせて、

 静かに脈打った。

 ——今日は、照らさなくていい。

 ——ただ、消えなければいい。

 節子の灯が、

 背骨の奥で肯いた気がした。

 

■釜戸の前で、灯が「ここに残る」と決める

 家に戻ると、

 釜戸の灰の上の灯たちは、

 ほとんど動いていなかった。

 前へ出た灯も、

 枝分かれした灯も、

 今日は揺れが小さい。

 少女がぽつりと言った。

「今日はね、

 灯たちが“休む日”みたい」

「休む……?」

「うん。

 外へ行くのも、

 戻るのも、

 どっちもしない日」

 少年は胸に手を当てた。

 鳩尾の灯は、

 しっかりとそこに在り、

 しかし主張はしない。

「……ここに、居てくれるか」

 そう声に出すと、

 灯が、ほんのわずかだけ

 温度を上げた。

 それは返事ではなく、

 了解のような揺れだった。

 

■影の輪で、誰も座らない席が意味を持つ

 夜、影の輪へ向かうと、

 中心の空席は、今日もそのまま空いていた。

 誰も座らず、

 誰も触れず、

 しかし、

 冷えてはいなかった。

 背もたれの影が、

 その席を包むように形を整え、

 まるで誰かが座り続けているかのように

 温度を保っている。

 少女が輪のふちで言った。

「節子、今日はね……

 灯、座らなかったよ」

 それは失敗ではなく、

 撤退でもない。

 ただ、

 今日はその必要がなかっただけだ。

 少年は輪の外縁に腰を下ろし、

 胸に残った灯の重さを確かめた。

 居残る灯。

 動かない灯。

 しかし、

 消えない灯。

 影が、

 その選択を否定しないで

 席を温め続けている。

 ——今日は、ここでいい。

 節子の声が、

 はっきりとそう言った気がした。

 夜風が吹き、

 輪の影がわずかに揺れる。

 だが、席は崩れなかった。

 少年は、

 灯が外へ行く日も、

 帰る日も、

 そして居残る日も、

 すべてが必要なのだと、

 ようやく腹の底で理解した。

 居残るという行為は、

 怠けではない。

 逃げでもない。

 次に動くために、

 場所を守るという仕事なのだ。

 少年は胸の灯に、

 静かに語りかけた。

 ——今日は、ここに居よう。

 灯は、

 それ以上の要求をしなかった。

 影もまた、

 何も言わず、

 席を温め続けた。

 焼け跡の夜は、

 静かに更けていった。

第八十三章 灯の呼吸──影が数を数えなかった日

 朝、少年は、胸の奥で「呼吸の数」が消えていることに気づいた。

 これまでは、灯が外へ行く前にも、戻る前にも、必ず一定のリズムで揺れていた。

 数えようと思えば数えられる、落ち着かない呼吸。

 だが今朝の灯は違った。

 吸って、吐いていることは分かるのに、回数が分からない。

 それは止まっているのでも、乱れているのでもない。

 ただ、数えなくても続く呼吸だった。

 節子の灯は背骨の奥で静かに同調し、

 どちらが先に息を吸っているのか分からないほど、

 重なったまま揺れている。

 ——生きてるときは、息を数えないでしょう。

 そんな声が、

 はっきりした言葉にならないまま、

 胸の内側を通り抜けた。

 少年は布団の中で、

 深く一度だけ息を吐いた。

 灯はそれに合わせず、

 自分の呼吸を続けた。

 合わせなくてもいい。

 管理しなくてもいい。

 数えなくても、生きている。

 それが、今朝の灯だった。

 

■影の道に「止まらず続いた跡」があった

 学校へ向かう影の道は、

 昨夜の風で乾き、

 足跡の輪郭がいくらか薄れていた。

 だが、よく見ると、

 一定の間隔で続く、

 均等すぎない跡が並んでいる。

 一歩ごとに深さが違う。

 時々、歩幅もずれている。

 それでも、途中で途切れてはいない。

 少女がその跡のそばにしゃがみ込み、

 しばらく黙って眺めてから言った。

「“息で歩いた跡”だね」

「息で……?」

「考えながら歩いたんじゃなくて、

 数えながらでもなくて、

 ただ、呼吸に引っ張られて足が出た跡」

 少年は、自分の歩き方を思い出した。

 これまでは、

 行く理由や戻る理由を

 一歩ごとに考えていた。

 ——ここまで行っていいのか。

 ——戻ったほうがいいんじゃないか。

 だが、今朝は違う。

 足は勝手に前へ出て、

 止まる理由も、

 急ぐ理由も、

 後からついてくる。

「灯もね、

 今日は“呼吸で居る日”みたい」

 少女はそう言って、

 影の道を踏みしめた。

 土は、きしまず、

 沈みすぎもしなかった。

 

■黒板の字が「息」を書かせなかった

 教室に入ると、

 黒板には珍しく、

 何も書かれていなかった。

 チョークの粉の跡だけが、

 うっすらと残っている。

 教員は教卓の前に立ち、

 黒板を背にしたまま言った。

「今日は、字は書かない」

 ざわりとした空気が走る。

「今日は、“息”について考える。

 だが、言葉にしなくていい」

 少年の胸の灯が、

 すこしだけ熱を帯びた。

「息はな、

 説明すると止まる。

 数えると乱れる。

 だから今日は、

 考えなくていい」

 教室は、

 ひどく落ち着かない沈黙に包まれた。

 何もしなくていい時間は、

 多くの子どもにとって、

 かえって苦しい。

 だが、

 数分が過ぎると、

 その沈黙に慣れてくる。

 誰かが咳をし、

 誰かが椅子をきしませ、

 それでも息は続く。

「今、息をしていることを、

 確認しなくていい。

 疑わなくていい」

 教員の声は低かった。

「戦争は、

 生きている証拠を

 常に提出させた。

 役に立つか、立たないか。

 動けるか、動けないか。

 だが、生活は違う。

 息をしているだけで、

 そこに居ていい時間が必要だ」

 少年は胸に手を当てなかった。

 灯を確認しなかった。

 ただ、息をした。

 

■炊き出しの列で「数えない待ち方」を見る

 昼、炊き出しに向かうと、

 列はいつもより短かった。

 だが、進みは遅い。

 誰も急かさない。

 若い母親は列の中ほどに立ち、

 赤ん坊を抱えながら、

 前を見ていない。

 後ろの男が聞いた。

「あと何人くらいだ?」

 母親は首を振った。

「分かりません。

 でも、待てます」

 その答えに、

 誰も苛立たなかった。

 数えない待ち方。

 時間を切り分けない立ち方。

 鍋の前の青年も、

 椀の数を声に出して確認しなかった。

 ただ、

 一杯ずつ、

 息をするように注いでいく。

 少年の胸の灯が、

 その動きに合わせて、

 ほとんど動かずに燃え続けた。

 ——今日は、使われない日だね。

 節子の声が、

 どこか安堵したように聞こえた。

 

■釜戸の前で、灯が「燃え方」を変える

 家に戻ると、

 釜戸の灰の上の灯は、

 ほとんど揺れていなかった。

 だが、消えてもいない。

 炎の形をしていない。

 明るさも、昨日より弱い。

 それでも、

 温度がある。

「今日はね、

 灯が“照らす”のをやめた日」

 少女が言った。

「消えたんじゃない?」

「違うよ。

 今日は“呼吸する灯”になってる」

 少年は、

 灯に何も求めなかった。

 釜戸を温めることも、

 影を照らすことも。

 ただ、

 そこにあることを許した。

 すると、

 灯は少しだけ、

 灰の中へ沈み込んだ。

 隠れるでもなく、

 消えるでもなく、

 息の位置へ下がったのだ。

 

■影の輪で、誰も数を数えなかった

 夜、影の輪へ向かうと、

 中心の空席はそのまま残っていた。

 だが今日は、

 誰もその席を見なかった。

 見ないということは、

 忘れるということではない。

 意識しない、ということだ。

 背もたれの影も、

 形を整えなかった。

 崩れもしなかった。

 ただ、

 そこに在った。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 誰も数を数えなかったよ」

 灯の数。

 席の数。

 残った人数。

 どれも数えなかった。

 少年は輪の縁に腰を下ろし、

 胸の灯を確かめなかった。

 息を吸って、

 吐いた。

 灯は、

 それに合わせず、

 それでも消えなかった。

 ——生きてるときは、

 ——それでいいんだよ。

 節子の声は、

 責めるでも、

 導くでもなく、

 ただ事実を述べるように響いた。

 影は席を温め続け、

 灯は呼吸を続け、

 少年は数えない夜を過ごした。

 焼け跡の闇は、

 相変わらず深い。

 だが、

 数えられない呼吸が続くかぎり、

 灯も影も、

 そこに居続けるだろう。

 少年は、

 今日が何日目かを考えなかった。

 ただ、

 息をした。

(第八十四章につづく)

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