第七十六章 灯をゆだねる足──影がそっと前へ押した
翌朝、少年はいつもより遅く目を覚ました。
背中にはまだ、影の背もたれの感触が残っている。
胸の奥では、隣に座った灯が、
昨夜と同じ姿勢のまま、
しかしどこか――前のめりになって揺れていた。
半分だけ腰を下ろし、
半分だけ立つ準備を残したまま、
灯は胸の中の空席の縁に、
体重を少しずつ預けてきている。
節子の灯は背中側で静かに揺れ、
その前のめり加減を、
どこかおかしそうに、けれど誇らしげに見ていた。
——そろそろ、
——足も前へ出したくなる頃だよ。
そんな声が、
背骨のあたりから聞こえてくるようだった。
少年は上体を起こし、
胸にそっと手を当てた。
灯は逃げるでもなく、
しがみつくでもなく、
「進みたい」とも「ここにいたい」とも言わないまま
じりじりと前へ寄っている。
迎えることは、
ここまでだったのかもしれない――
ふと、そう思った。
この先は、灯のほうが、
自分の足でどこかへ歩き出す番なのだ。
少年は、灯を掴まず、
押しもしないと決めて、
静かに布団を抜け出した。
■影の道に“前へ滑った足跡”があった
校庭へ向かう影の道を歩いていると、
地面に妙な足跡が残っているのが目に入った。
一歩分の足跡の前に、
土をざっと擦ったような浅い傷が走っている。
しっかりと踏み出したのではなく、
躊躇いながら前へすべった足の跡だった。
その傷跡は、
次の一歩を決めきれずに前へにじんだように、
泥の表面を薄く削っていた。
少女が横に来てしゃがみ込み、
その傷を指でなぞった。
「“ゆだねた足”の跡だよ」
「ゆだねた……?」
「うん。
自分でしっかり踏み出したんじゃなくてね、
『倒れたら誰かが支えてくれる』って
半分だけ信じて出した足」
少年は、
自分のかかとを影の道に合わせて立ってみた。
足を前に出そうとしても、
全体重を預ける勇気は出ない。
かかとが地面から離れきれず、
つま先だけ、にじるように前へ出る。
ちょうど、その跡と同じだった。
「怖くないのか?」
「怖いよ」
少女はあっさり答えた。
「でも、“支える影”を一度知っちゃうとね、
足が勝手に前へ滑り出すの」
胸の奥で、隣の灯が
その言葉に合わせて小さく揺れた。
——おまえ一人で立てなくても、
——前に出る足ぐらいは出せるだろう。
節子が、
半分からかうような声で言う気配がした。
■黒板の字が“進むかわりの一歩”を示した
教室に入ると、
黒板には今日の字が書かれていた。
■歩
子どもたちは、
どこか投げやりな笑いを浮かべた。
歩く、と言われるほど、
自分たちの足は自由ではないと知っていたからだ。
教員はチョークを置き、
ふだんより長く、
黒板の字を見つめてから口を開いた。
「今日は、“歩く”について考える」
少年の胸の灯が、
肩に寄りかかったまま、
しかし微かに前を向いた。
「歩くとは、
遠くへ行くことではない」
教員は言った。
「倒れずに次の場所へ移ることだ」
教室に、
乾いた笑いと本気の沈黙が入り混じった。
「戦争は『走れ』と命じた。
止まるな、追い越せ、逃げろ、と。
走れない者は置き去りにされた。
だが、戦後の生活は違う。
走らなくていい。
歩けなくてもいい。
それでも、足を前へにじませる者たちで
続いていく」
少年は胸に手を当てた。
灯は走ろうとしていない。
ただ、前の席に体重を預けたがっている。
「今日は、“歩いたとはいえないけれど、前へ動いてしまったこと”を書け」
少年は迷いながら書いた。
——節子が死んだあとも、
炊き出しの列に並んだ自分の足
少女は紙に書いて見せた。
——母の帰りを待ちきれず、
空の食卓を片づけてしまった夜
二人の文字は、
「立ち尽くしていたつもり」で
じつは前へ動いてしまっていた
生活の瞬間を浮かび上がらせた。
■炊き出しの列で“押される一歩”を見る
昼、炊き出しの列へ向かうと、
若い母親は、
今日は列の真ん中あたりに立っていた。
だが、その足元は不安定だった。
赤ん坊を抱えた腕に力が入りすぎているのか、
膝が笑っている。
列がじわりと動くたびに、
母親は出すべき足を
半歩遅れて出す。
そのたび、
後ろの男が、ごくわずかに
背中を手の甲で押した。
押しているようでいて、
押し飛ばすつもりはない。
倒れないぎりぎりの力で、
前へ「預けさせる」ための押し方だった。
母親は振り返らない。
礼も言わない。
しかし、
足は確かに前へ出ていた。
「おい、前が空いてるぞ」
誰かが叫ぶと、
列全体が、
押すでもなく、
引くでもなく、
互いの背中に少しずつ身体をゆだねて前へ動いた。
少年の胸の灯が、
その動きに合わせるように小さく前後に揺れた。
——自分で出した一歩だけが
——前進じゃないんだよ。
節子の声が、
ゆるい皮肉を含んで微かに笑った。
■釜戸の前で、“灯を前に出す勇気”を学ぶ
家へ戻ると、釜戸の灰の上に、
灯が三つ並んでいた。
節子の灯。
寄りかかる灯。
ぐらつきながら支えを探していた灯。
そして、その三つの少し前――
灰の薄い部分の上に、
小さな、ほとんど影と見分けがつかない灯が
ちょこんと立っていた。
「あれは?」
「“前へ出てしまった灯”だよ」
少女が言った。
「しまった……?」
「うん。
自分じゃ、まだ早いって思ってたはずなのに、
気がついたら、
後ろの灯たちより前へ出ちゃってた灯」
小さな灯は、
むしろ居心地が悪そうに震えている。
誰も押していないのに、
列のいちばん先に出てしまった子どものような揺れ方をしていた。
「そのままにしておいていいのか?」
「いいんだよ」
少女は即答した。
「前へ出たからって、
偉い灯でも、
立派な灯でもない。
ただ、たまたま前の場所を担当する番が来ただけ」
節子の灯が、
胸の奥でぽん、と軽く弾けるように揺れた。
——おまえも、
たまたま“兄”という番に立たされたんだ。
少年は、
自分が選んだ覚えのない「役目」の重さを、
少しだけ違う角度から見直した。
番は、
誰かが意図して選んだわけではない。
たまたまその位置にいた者が、
灯や影を「前へ運ぶ役」になるだけだ。
支える役、
迎える役、
前へ滑らせる役――
どれも順番で回ってくる。
■影の輪で、“運ばれる灯と運ぶ影”が混ざり合う
夜、影の輪へ向かうと、
輪の中心の景色がこれまでと少し違っていた。
椅子の落書き、
背もたれの影、
子どもたちの半分腰掛け――
それらはそのままだったが、
椅子の前から輪の外へ向かって、
細い線がいくつも引かれていた。
まるで、
灯を外へ運ぶ“しるし”のような線だった。
少女が輪のふちにしゃがみ込み、
指でその線をなぞりながら言った。
「節子、今日ね……
“運ばれる灯”を、何本か外に出してきたよ」
少年は思わず問うた。
「外に……行ったのか?」
「うん。
輪の中だけじゃ、生きられなくなった灯たちがね。
炊き出しの列とか、
崩れた家の中とか、
校庭の隅の水たまりとか――
そういう場所へ歩いて行きたがったの」
輪の外へ伸びた線は、
それぞれ少しずつ方向が違っていた。
誰かの家へ、
誰かの背中へ、
誰かの空腹へ、
灯たちは勝手に進んでいく。
「運んだのは、誰だ?」
「影たちだよ」
少女は微笑んだ。
「支えるだけじゃなくてね、
今度は背中をそっと押す影も出てきたの」
少年は輪の中心に足を踏み入れ、
椅子の前からのびる線の一本に膝をついた。
線は、
まだ頼りない。
消えそうなほど薄い。
だが、その先で、
誰かの生活が
ほんの少し明るくなっている光景を、
かすかに想像することができた。
——おまえの灯も、
——いつか誰かのところへ行くよ。
節子の声が、
輪の外から聞こえた気がした。
少年は胸を押さえ、
自分の中に座っている灯に
そっと問いかけた。
――ここにいるか?
――それとも、どこかへ行きたいか?
灯はすぐには答えなかった。
ただ、昨日までより少しだけ
前のほうへ寄った位置で揺れ続けた。
輪の中では、
誰も「行け」とも「行くな」とも言わない。
ただ、線だけが増えていく。
運ばれる灯の線。
運びたがる影の線。
そのどちらもが、
夜の焼け跡の地面に、
細く、かすかに刻まれていた。
少年は輪の中で、
前へにじむ線を指先でなぞりながら、
自分の足も、
灯と一緒に
どこかへゆだねていく日のことを
ぼんやりと思い描いた。
走らなくていい。
立派に歩けなくてもいい。
倒れずに、
誰かの支えを借りながら、
灯を連れてにじみ出るように前へ進むことなら、
自分にもできるかもしれない――
そんな考えが
胸の奥にゆっくりと沈んでいった。
第七十七章 灯の置き場所──影が道を空けた

翌朝、少年が目を開けたとき、胸の奥の灯はまだそこにいた。
しかし昨夜とは位置が違う。
灯は、胸の真ん中から少しずれて、
鳩尾のあたりに沈み込むように座っていた。
これまでの灯は、
胸骨の上を行ったり来たりして、
肩に寄りかかったり、背中にまわったりしていたのに、
今朝の灯は、
身体の重心に寄り添うように、
じっと沈んでいた。
まるで、そこが
「自分の居場所」だと決めたかのように。
節子の灯は、背骨の奥で
ゆっくりと横たわり、
その決定を後押ししているようだった。
——そこなら、倒れても死なない。
そんな声が、
体の内側から響いた気がした。
少年は布団の中で息を吐いた。
灯に“置き場所”ができるということは、
灯が、いつかそこから
出ていく準備をしているということでもある。
胸が軽くなるのかと思えば、
逆だった。
身体の奥が、
ひどく軋んだ。
それは痛みではなく、
骨が伸びたときに感じる、
居場所に慣れようとする痛覚だった。
■影の道に“空けられた一人分の場所”
学校へ向かう道には、
昨日よりも数が増えた影の線が走っていた。
線のほとんどは、
輪から離れて別々の方向へ伸びている。
それぞれの線の先には、
灯を運ぶ生活の気配がある。
しかし、その中央に、
ぽっかりと道が空いている部分があった。
影も足跡もついていない、
まだ誰も踏み出していない道。
まるで、
「一人分だけ残された未来」のように。
少女が道の前で立ち止まり、
傾いた影の輪郭を眺めながら言った。
「ここ、灯の置き場所になるかもしれない」
「置き場所?」
「そう。
灯は胸に住み続けるわけじゃないよ。
そのうちどこかへ行くの。
でもね、いきなり遠くへ行ける灯ばかりじゃない」
少女は空いた道にそっと片足だけ踏み込んで言った。
「最初は、すぐ近くに置かれる場所が必要なんだよ」
少年は、小さな乾いた息を漏らした。
胸の奥の灯が、
しん、と沈んだまま震えている。
「ここに置くのか?」
「置きたかったら置きなよ。
置きたくなければ、もうしばらく胸に住まわせな」
少女の声はやさしいが、
そのやさしさは、
選ばせてくれるやさしさだった。
選べなければ選ばずにいてもいい。
選べるなら選べばいい。
選んだ責任も、
選ばなかった痛みも、
ちゃんと誰かが背負えるように、
道だけが空いていた。
■黒板の字が“居場所の選び方”を語った
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■居
教員が黒板の前に立ち、
子どもたちを見渡した。
「今日は、『居る』について考える」
少年の胸の灯が、
鳩尾で小さく揺れた。
「居るとは、
ただ存在することではない」
教員は言った。
「そこに、居させてもらえることだ」
教室にたまった息が、
ゆっくりと吐き出された。
「戦争は『役に立つ者』だけを求めた。
役に立たなくなれば、
その者の存在は、
『不要』とされた。
しかし生活は違う。
生活は、
役に立たない者たちの居場所で成り立つ」
少年は、灯が鳩尾で震えるのを感じた。
灯は役に立とうとしていない。
ただ、胸の奥を照らしているだけだ。
「居るというのは、
誰かの役に立つことではなく、
居てもいい場所を得ることだ」
教員は、
子どもたちの目をまっすぐ見つめた。
「今日は、『役に立たないのに居たい場所』を書け」
少年は時間をかけて書いた。
——節子が死んだあとも、
姉と母の隣にいたかった台所の椅子
少女も紙を見せた。
——母の味噌汁が薄くても、
その匂いのそばに居たかった朝
二人の文字は、
役目ではなく、
ただ存在したかった場所を告白していた。
■炊き出しの列に“無理に立たせない場所”
昼、炊き出しへ向かうと、
若い母親は列の外の石に腰を下ろしていた。
赤ん坊が熱を出し、
立っていられないらしい。
だが、その母親を
誰も列に引っ張りこもうとしなかった。
老婆が、
そっと母親の前の椀を
「二つ分」受け取ってきて置いた。
誰も何も言わない。
ただ、
母親が座っていられる場所を、
列が自然に空けたのだった。
その場所は役に立たない。
働きもしない。
ただ、座っているだけ。
しかしそこは、
生活の一部として
確かに必要とされていた。
少年の胸の灯が、
鳩尾のあたりで
おとなしく燃えていた。
——居させてもらえる場所って、
——出してもらえるご飯より大事だよ。
節子の声が、
釜戸の匂いをともなって
微かに響いた気がした。
■灯の置き場所を決める“手を出さない勇気”
家に戻ると、
釜戸の灰の上で灯たちは揺れていた。
揺れているが、
どの灯も、昨夜より動かない。
節子の灯。
寄りかかる灯。
たまたま前へ出た灯。
支えを探してぐらついた灯。
それぞれが、
それぞれの場所で揺れている。
少年は、
胸の灯を釜戸のどこへ置くべきか迷った。
少女はそれを見て言った。
「置きたければ置きなよ。
置きたくなければ置くなよ。
どっちでも、
灯はちゃんと居場所を見つけるから」
「でも、置いたら……」
「置いたら、灯はもう、
おまえの中だけの灯じゃなくなる。
外の生活の灯になる」
少年の胸の奥がぎり、と引き締まった。
節子は、もう胸の灯ではなく、
生活の灯としてどこかで燃えているのかもしれなかった。
その可能性が、
痛みでもあり、
安堵でもあった。
少年は、
灯に手を伸ばしかけて――
やめた。
手を出すことが、
灯を掴むことになり、
灯の自由を奪う気がしたからだ。
代わりに、
釜戸の端の空いた灰の上に
自分の指先をそっと置いた。
じかに支えず、
そこに居られる場所を示すだけの動作。
少女が目を細めて言った。
「それが、灯の置き場所を作る手だよ」
少年は、
胸の灯の重さが少し抜けるのを感じた。
灯はまだ胸にある。
だが、もう半分は、
釜戸の灰の匂いを吸い始めていた。
■影の輪が“灯のための空席”を作った
夜、影の輪へ向かうと、
輪の中に空席があった。
誰かの椅子が壊れたのではない。
誰も座らなかったのだ。
輪の子どもたちが
その空席を囲みながら座っていた。
少女が輪のふちで言った。
「節子が、灯の置き場所を空けたんだよ」
空席には、背もたれの影が寄り添い、
椅子の線が薄く揺れていた。
座るな、と言うのではなく、
座らせたい相手を
いつか迎えるために空けてある。
少年はその光景を見て、
胸の灯にそっと問いかけた。
――まだここにいたいか?
――それとも、そこに座りたいか?
灯は揺れたが、答えなかった。
ただ、今夜は胸の奥で、
いつもより少し自由に揺れていた。
輪の中心の空席は、
灯のための未来だった。
それは強制しない未来で、
燈火のようにゆらゆら揺れ、
影が骨のかわりになる未来だった。
少年は、
灯が自分の胸にいようが、
空席に座ろうが、
どちらでもいいのだと
ようやく思えるようになった。
それは諦めではなく、
灯の生き方を尊重するような
静かで遠い愛しさだった。
空席は、灯を追い出すためでも、
そこに縛るためでもない。
ただ、灯が選べる未来を
空けておくための席だった。
節子の影が言った。
——ここに座るも座らないも、
——灯が決めることだよ。
少年は背中を影に預け、
夜道の風に胸を開いた。
灯は、胸の奥で静かに揺れ続けた。
(第七十八章につづく)

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