第72章 灯の欲──影が座りたがった夜
息の灯を抱えた翌朝、
少年は胸の奥で“揺れ方の変化”を感じた。
昨日までの灯は、
息だけで、沈黙と匂いを抱えていた。
しかし今朝の灯は、
胸の空席に 寄ろうとしている。
寄りたい。
座りたい。
だが、座れない。
それは謝罪ではなく、
羞恥でもなく、
欲だった。
——生きたい。
——座りたい。
——迎えられたい。
節子の灯が奥の部屋で、
懐かしむように静かに揺れた。
節子の灯も、
生き延びたとき、
泣く前にまず“欲”になって兄に寄った。
生きたがる灯は、
恥と息の奥にある。
少年は胸を押さえ、
灯の「座りたい」という震えに、
呼吸を合わせた。
迎えるとは声を出させることではない。
灯の欲に場所を与えることだ。
- ■影の道に“座りたかった跡”があった
校庭へ向かう道で、
地面に見慣れない跡を見つけた。
座った跡でもなく、
立ち止まった跡でもない。
膝まで曲がりながら、座りきれなかった形。
少女が横に来て言った。
「“座りきれなかった影”だよ」
「座れなかったのか?」
「座りたかったの。
座ろうとして、
でも、最後の瞬間に怖くなって、
膝だけ折れた影」
跡は泥に半分だけ食い込み、
尻はついていない。
座りたいのに座れない焦りが
形になって残っていた。
「灯はね、
座りたいのに座れない自分を、
もっと恥じてしまうの」
少年は胸が疼いた。
座らない灯より、
座りたいのに座れない灯のほうが痛い。
迎えるとは、
座らせることではない。
座りきれない震えを守ることだ。
- ■黒板の字が“欲の生活”を突きつけた
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■欲
思わず誰かが息を飲んだ。
欲という字は、戦後の焼け跡にとって、
もっとも厄介で、もっとも人間的な字だった。
教員は黒板に背を向けたまま言った。
「今日は、“欲”について考える」
少年の胸の灯が、
痛むように揺れた。
「欲は汚いものではない。
欲は、生きたいという意思だ」
教室に渋さが広がる。
「戦争は、人から選ぶ欲を奪い、
生き延びた後は、
欲を持つことに罪悪感を植えつけた。
生きたい人ほど、
生きたいと言えなくなった」
教員の声は冷たく、正確だった。
「今日は、“言えなかった欲”を書け」
少年は書いた。
——節子が食べたいと泣けなかった夜
少女は紙を見せた。
——母が帰りたいと誰にも言わなかった夕暮れ
灯にも、言えない欲がある。
声にならない、
生きたい灯。
- ■炊き出しの列で“欲を抱かれた灯”を見る
昼、炊き出しへ向かうと、
若い母親は列に立っていた。
まだ顔は上げられない。
しかし、列に加わっている。
立っている。
座らない。
逃げない。
人々の匂いと湯気の中で、
膝を震わせながら欲を抱いている。
老婆は何も言わず、
母親の前の椀に
ほんの少し多めに汁を注いだ。
母親は泣かず、
声も出さず、
息だけで“受け取った”。
それは座れない灯が、
座りたいと願う人間の姿だった。
欲は恥ではない。
恥じた欲だけが、生き延びる。
- ■釜戸の前に“欲の灯”が置かれていた
家に戻ると、釜戸の灰の上に、
灯がひとつ置かれていた。
弱い光、
震える息、
そして、
座りたいという暖かさ。
「これは……?」
「“欲の灯”だよ」
少女が言った。
「座りたがってる?」
「うん。
でも座れない。
座りたいと思うことが、
怖い灯なの」
節子の灯が胸の奥で、
恥を知るように静かに揺れた。
「迎えたいなら、
座りたい灯の“怖さ”を抱かなきゃいけない」
迎えるとは、
座らせることではなく、
座りたくて震える灯のために
席を守り続けることだ。
- ■影の輪で“座りたい灯の席”を守る
夜、影の輪へ向かうと、
子どもたちは椅子の前から少し距離を取り、
座りたい灯が近づく余地をあけていた。
椅子に触れず、
呼んでも、迎えすぎてもいない。
席は守られている。
灯が自分の意志で来られるように。
少女が言った。
「節子、今日ね……
“座りたい灯”を運んできたよ」
少年は胸に手を当てた。
息と匂いと欲が混ざった灯が、
空席に近づいたり、離れたりしている気配がある。
「迎えるってね、
座らせるんじゃなくて、
座りたい灯に、座りたいままでいさせること」
少年は椅子の前に座らず、
椅子の横に膝をつき、静かに空席を守った。
——灯は欲になる。
——欲を抱ける席だけが灯を迎える。
節子の声が、
焼け跡の夜に深く沈んだ。
少年は匂いと息と欲を抱き、
灯が「座りたい」と言える時間を、
胸の奥に広げたまま、
静かに目を閉じた。
第七十三章 灯が半分だけ座った朝──影が横に腰を下ろした
翌朝、少年は胸の奥で、
今までと違う種類の揺れを感じて目を覚ました。
空席の前で、
灯が、半分だけ座っている。
胸の中のその光景は奇妙だった。
尻を落としたわけではない。
完全に腰掛けたわけでもない。
片膝を折り、
もう片方の足はまだ立ったまま、
灯が“いつでも逃げられる姿勢”で座ろうとしていた。
節子の灯が奥の部屋で、
小さく笑った気配がした。
からかう笑いではない。
「ああ、その座り方ね」と、
知っている者の笑いだ。
節子の灯も、かつてそうだったのだろう。
兄の胸に戻りたくて、戻るのが怖くて、
半分だけ座っていた夜があったのだ。
——座った。
——でも、いつでも立てるように座っている。
少年は胸に手を当て、
灯の「半分だけの決意」を確かめた。
迎えるとは、
中途半端な座り方を責めないことだと知った。
外へ出ると、空気は妙に澄んでいた。
昨日まで漂っていた匂いの濁りが薄れ、
かわりに、焼け跡の土と、
どこか遠くで焚かれた木の匂いが混じり合っていた。
戦争の匂いでもなく、
完全な日常の匂いでもない。
半分だけ戻ってきた生活の匂いだった。
■影の道に“片方だけ座った跡”があった
校庭へ向かう道で、
少年は地面に不思議な跡を見つけた。
片膝だけ土に深く沈み、
もう片方の足はその横に立っている。
座りきった尻の跡は無い。
少女がいつものように横に来て言った。
「“半分だけ座った影”だよ」
「半分だけ……?」
「うん。
本当は座りたい。
座りたいけど、
全部座ってしまうと、
もう二度と立てなくなる気がする人の跡」
少年はその跡に指を置いた。
座りたさと、逃げたさとが混じった泥の固さ。
中途半端な重みだけが残っている。
「半分だけ座れるようになったのは、
それでも大きな一歩なんだよ」
「座りきれないのにか?」
「うん。
“座りたい”って欲が、
生きたい欲と同じ場所から出てきた証拠だから」
胸の灯が、
その言葉を肯定するように強く揺れた。
迎えるとは、
立ちっぱなしを責めないことでもなく、
最後まで座らせることでもなく、
半分だけ座った姿勢を、肯定して待つことなのだ。
■黒板の字が“半分の生活”を認めた
教室に入ると、
黒板には今日の字が書かれていた。
■半
子どもたちのあいだに、
かすかな苦笑が流れた。
半分という言葉は、
「ちゃんとしていない」と責められる時に
叩きつけられる言葉だからだ。
教員が黒板を叩いた。
「今日は、“半分”について考える」
少年の胸の灯が、
半分座ったまま静かに震えた。
「半分とは、
『中途半端』ではない。
まだ終わっていない状態のことだ」
教室に、
妙な安堵と戸惑いが混ざった空気が流れた。
「戦争は、人に“全か無か”を強いた。
生きるか死ぬか、
敵か味方か、
役に立つか、邪魔か。
そのあいだにある“半分”を許さなかった」
教員の声は冷たかったが、
言葉の中身は温かかった。
「だが生活は、そうはいかない。
泣きたいのに泣けない、
帰りたいのに帰れない、
座りたいのに座りきれない。
そういう“半分の状態”で続いていく」
少年は胸に手を当てた。
節子も、灯も、自分も、
いつも半分のまま生きてきた。
「今日は、“半分のまま終わらなかったもの”を書け」
少年は書いた。
——節子に渡せなかった粥の温度
少女は紙を見せた。
——母と一緒に食べきれなかった夕飯
二人の字は、
半分のまま終わり、
しかしまだどこかで続いている生活を表していた。
■炊き出しの列で“半分だけ列にいる背中”
昼、炊き出しへ向かうと、
例の若い母親が、
今日は列の“横”に立っていた。
完全に並んではいない。
かといって離れているわけでもない。
半歩だけ、列に寄り添って立っている。
赤ん坊を抱いたその背中は、
列の一員のようでいて、
まだ外側の者でもあった。
老婆がそっと声をかけた。
「並んだらいいのに」
母親は首を振った。
だが、足は逃げなかった。
「ここにいるだけで……精一杯なんです」
その言葉に、
周囲の影がわずかに揺れた。
完全に戻ってきたわけではない。
半分だけ、戻ってきている。
少年は胸の灯が、
「それでいい」と言うように揺れるのを感じた。
迎える側には、
“半分だけ来られた人を責めない力”が要る。
列の何人かは、
母親の立つ半歩分のずれを、
何事もない顔で受け入れていた。
生活は、揃わない足並みで続いていく。
■釜戸の前に“半分だけ座った灯”があった
家へ戻ると、
釜戸の灰の上に、
灯がひとつ置かれていた。
片側だけが灰に沈み、
もう片側はぎこちなく浮いている。
揺れも光も、左右で違っていた。
「これは……?」
「“半分だけ座れた灯”だよ」
少女が言った。
「座ったのか、座れてないのか……どっちなんだ?」
「どっちでもあるの。
座ったし、座れていない。
それでいい灯」
節子の灯が胸の奥で、
どこか誇らしげに揺れた。
節子も、いつかこの形で兄の胸に戻ったのかもしれない。
「迎えたいならね、
“中途半端な座り方”を笑わないでいてあげて」
少年は思わず胸の前で手を合わせた。
半分だけ座った灯は、
全力で座ろうとした証だからだ。
迎えるとは、
完成した姿だけを受け入れることではない。
揺れながら座りかけている姿そのものを許すことだった。
■影の輪で、“二つ並ぶ腰掛け”を見る
夜、影の輪へ向かうと、
輪の中心に描かれた椅子の落書きが、
少し変わっていた。
椅子が二つになっている。
ひとつはしっかりとした線の椅子。
もうひとつは線が薄く、
どこか頼りない椅子。
少女が輪のふちにしゃがみ込み、
その二つの椅子を指でなぞった。
「節子、今日ね……
“半分だけ座りに来た灯”を運んできたよ」
少年は輪の中にそっと足を踏み入れた。
ふたつの椅子のうち、
どちらにも座らず、
その間に膝をついた。
「どうして椅子が二つなんだ?」
「ひとつは“迎える側”の椅子。
もうひとつは、“迎えられる側”の椅子」
「灯にも椅子がいるのか」
「うん。
灯はね、人の胸に座る前に、
こうやって“練習用の椅子”に半分だけ座るの」
少年は半分だけ線の薄い椅子を見つめた。
そこに、誰かの恥ずかしさや、
座りきれない欲や、
言えなかった息が、
そっと腰を下ろし始めている気配があった。
胸の灯が、
その薄い椅子の線と重なる。
——全部座れなくていい。
——半分だけでも、座りたいと思ったなら、それでいい。
節子の声なき声が、
輪の上に静かに降りた。
少年は自分のための椅子ではなく、
“灯のための薄い椅子”の線を、
指で静かになぞった。
そして、
自分自身も半分だけ腰を落とした。
完全に座らず、
すぐ立てる姿勢のまま。
迎える側もまた、
半分だけ座ったところからしか始められないのだと、
少年は胸の奥で理解した。
影の輪の中心で、
半分だけ座った灯と、
半分だけ座った少年の気配が、
静かに重なっていった。
(第七十四章につづく)

コメント