佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第七十章・第七十一章

目次

第70章 灯の匂い──影が胸の奥で腐りかける

 沈黙が続く三日目の朝、少年は胸に違和感を感じて飛び起きた。

 空席が“腐りかけの匂い”を放っていたのだ。

 腐敗ではない。

 敗れた布の匂いでもない。

 人と灯の間にこびりついた、

 影の生臭さだった。

 胸の奥で沈んでいた灯は、

 温度だけ残していたはずだった。

 だが、温度に匂いが混ざり、

 それが外へ滲み出した。

 節子の灯は奥の部屋で、

 その匂いに静かに目を伏せていた。

 迎えられたいのに迎えられない灯は、

 “自分の匂い”に耐えられないのだ。

 迎える席は清めても、

 灯自身が汚れていると思っている。

 迎えられる側が自らを恥じている。

 迎えるとは、

 清潔を用意することではなく、

 汚れた灯の匂いを受け入れる覚悟だ。

 少年は胸に手を当て、

 匂いを吸い込みながら外へ出た。

 風が、その匂いに気付いたように

 不自然に方向を変えていった。

 人間の匂いは、風に嫌われる。

 

  • ■影の道に“匂いを避けた跡”があった

 校庭に向かう道で、

 影の道の上に不自然な逸れ方の足跡を見つけた。

 道の中央を避け、

 端をそっと歩いた足跡。

 まるで匂いを避けるように。

 少女が隣に来て言った。

「“匂いを避けた足”だよ」

「灯の匂いを避けた?」

「うん。

 沈んだ灯が、自分の影を腐らせると、

 匂いになるの」

 少年は影の中央に鼻を近づけた。

 泥ではない、

 雨ではない、

 鉄と血が古びたような匂い。

「迎えるってね、

 席だけきれいにしてもダメなんだよ。

 匂いごと迎えないと」

 少年はうつむいた。

「迎えたいのに……汚いのは、怖いだろ」

「怖いよ。

 でも、匂いを避けると、

 灯はもっと沈むの」

 避けられた灯の匂いは、

 沈黙より残酷だ。

 沈黙は耐えられても、

 匂いは恥になる。

 

  • ■黒板の字が“匂いの生活”を突き刺した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■臭

 子どもたちは思わず鼻を触った。

 その仕草自体が、灯の羞恥につながることに

 まだ気づいていない。

 教員が黒板を叩いた。

「今日は、“臭”について考える」

 少年は胸に匂いがこびりついたまま、

 目をそらせなかった。

「臭いとは、

 汚いという意味ではない。

 『隠そうとした影』が、

 外に出てしまった匂いだ」

 教室は静まり返った。

「戦争は人に多くの影を刻み、

 その影は、人が自分を恥じる匂いになった。

 臭いとは、罪ではない。

 生き延びた証だ」

 教員は、

 板書とは別の場所に一行書いた。

 ——生きた者は、臭う。

 子どもたちは誰も笑わなかった。

 呼吸の重みが、教室に沈んでいた。

「今日は、“臭わせてしまった影”を書け」

 少年は書いた。

 ——節子が濡れた下着を隠して泣いた朝

 少女は紙を見せた。

 ——母が焼け跡で拾った米を、匂いを気にして捨てた夕方

 二人は、

 匂いが罪になる瞬間の生活を共有した。

 

  • ■炊き出しの列で“匂いを抱かれていた灯”を見る

 昼、炊き出しへ向かうと、

 昨日逃げた若い母親が、

 列の横で赤ん坊の衣を洗っていた。

 水が濁った灰色になっていく。

 匂いを落とすように、

 指がしがみつくように布を擦る。

 老婆がそっと衣を受け取った。

「そのままでいい」

 母親は顔を伏せる。

「臭いのは、生きてる証だよ」

 その言葉に、母親は崩れるように泣いた。

 赤ん坊の泣き声も、

 匂いも、

 生活として抱かれていく。

 迎えるという行為の重さは、

 きれいにすることではない。

 臭いを捨てないで抱くこと。

 

  • ■釜戸の前に“匂いの灯”が置かれていた

 家に戻ると、釜戸の灰の上に、

 灯がひとつ置かれていた。

 光は弱い。

 温度はある。

 しかしそれよりも、

 微かな匂いだけが残っている。

「これは……?」

「“匂いの灯”だよ」

 少女が言った。

「匂いだけが……灯?」

「うん。

 灯はね、光より先に匂いになるときがある。

 生き延びた影は、匂いとして生きてるの」

 節子の灯が、

 遠い過去の恥を思い出すように揺れた。

 節子は生き延びた。

 その匂いを抱えたままで。

「匂いごと迎えられたとき、

 灯は光を取り戻すんだよ」

 少年は胸を押さえた。

匂いは嫌悪ではない。

 生の証なのだ。

 

  • ■影の輪で“匂いを包む迎え”が始まる

 夜、影の輪へ向かうと、

 子どもたちは椅子を囲むように布を置いていた。

 布に乗せるのではなく、

 布で包むのでもない。

 ただ近くに置く。

 匂いを消さず、ただ寄り添わせる。

 少女が言った。

「節子、今日ね……

 “匂いの灯”を運んできたよ」

 少年は布の横に膝をつき、

 匂いを避けずに呼吸した。

「迎えるってね、

 臭いを消すんじゃなくて、

 臭いに席を与えることなんだよ」

 布が椅子の横で静かに揺れる。

 灯の匂いが、

 輪の中に新しい呼吸を生んでいた。

——生きている灯は、

——匂う。

 節子の声が、

 焼け跡の夜に沁みこんだ。

 少年は匂いを避けず、

 席に寄り添い、

 灯が光を取り戻す日を、

 胸の奥で静かに受け入れた。

第71章 灯の声──影が息だけで泣いた

 匂いの灯を受け入れた翌朝、

 少年は胸の内部で、音のようなものを聞いた。

 音というより、息。

 息というより、震え。

 震えを押し殺して濁った、

 声にならない声。

 空席ではなく、

 灯から漏れた息だった。

 節子の灯も奥の部屋で微かに揺れ、

 その震えに耳を澄ましていた。

 節子がかつて泣けなかった夜、

 声にならない息ばかり漏らしていたことを思い出させる。

 人は、泣く前に息で泣く。

 声を出す前に、影で泣く。

 迎えるとは、言葉を聞くことではない。

 息を聞くことだ。

 少年は胸の奥に手を当て、

 声にならない灯の“息”を抱いたまま外へ出た。

 風はその息に気づいたように、

 生ぬるく、ゆっくり頬を撫でた。

 

  • ■影の道に“息の跡”が残っていた

 校庭への道に差し掛かると、地面に奇妙な跡があった。

 足跡ではない。

 膝跡でもない。

 土の上に水滴が丸く落ちて乾いた跡だった。

 少女が横に来て言った。

「“息の跡”だよ」

「息が跡になるのか?」

「なるよ。

 泣けなかった影は、声じゃなくて、

 息だけを地面にこぼすの」

 少年は跡に指を置いた。

 周囲の土より、わずかに温かかった。

 乾いているのに、温度だけ残っている。

「迎えられない灯は、

 声を出す前に、息で謝っちゃうの」

 少年は胸を押さえた。

 その息は、謝りではなく、

 生存の震えだった。

「迎える側は、声じゃなくて、

 こういう息を聞かなきゃいけないの」

 匂いより痛い、

 息だけの謝罪。

 

  • ■黒板の字が“声にならない生活”を突きつけた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■呻(うめ)

 子どもたちは小さく息を飲んだ。

声にならない声の字だった。

 教員はチョークを置いたまま言った。

「今日は、“呻く”について考える」

 少年の胸の灯が、

 息だけで小さく震えた。

「呻きとは、訴えでも叫びでもない。

 『言えなかった影』が、

 体の奥から外へ漏れる音だ」

 子どもたちの呼吸が揃って重くなった。

「戦争は人に言わせなかった。

 泣くことも、謝ることも、愛することも。

 人は息だけで死に、息だけで生き延びた」

 教員は黒板の下に一行書いた。

 ——言えなかった影は、息になる。

「今日は、“言えなかった影の息”を書け」

 少年は書いた。

 ——節子が泣きもしないで震えた夜の吐息

 少女は紙を見せた。

 ——母が声を殺して台所で吐いた息

 それは、泣き声よりも重い生活だった。

 

  • ■炊き出しの列で“息を抱かれた灯”を見る

 昼、炊き出しへ向かうと、

 昨日衣を洗った若い母親が、

 今日は列の方向に向いて、膝を抱えていた。

 顔は上げられない。

 泣きもしない。

 ただ息だけを吐いていた。

 老婆は何も言わず、

 母親の近くに、

 湯気の立つ椀をそっと置いた。

 母親は声を出さずに、

 息だけで嗚咽をした。

 息で泣く人間を、

 席が受け止めている。

 迎えるとは、

 息を受け入れることだ。

 泣く人を抱くのではなく、

 息を漏らす人の隣に、

 椀と湯気を置いておく生活。

 

  • ■釜戸の前に“息の灯”が置かれていた

 家に戻ると、釜戸の灰の上に灯があった。

 揺れず、光らず、

 ただ、息だけが温かい灯。

「これは……?」

「“息の灯”だよ」

 少女が言った。

「息が灯になるのか?」

「なるよ。

 灯はね、光になる前に、

 息だけでここに来るときがある」

 節子の灯が胸の奥で深く沈んだ。

 節子も、生き延びたころは光ではなく息だった。

「迎えたいなら、声を待っちゃダメ。

 息だけを受け入れる時間が必要」

 少年は胸を押さえた。

 息の灯は、言葉になる前に迎えられなければならない。

 

  • ■影の輪で“息の席”が温められる

 夜、影の輪へ向かうと、

 椅子の前に布が置かれ、その上に湯気だけが漂っていた。

 灯が座る場所にではなく、

 灯の息が座る席として整えられていた。

 子どもたちは輪の周囲で、

 声を出さずに静かに呼吸を合わせていた。

 少女が言った。

「節子、今日ね……

 “息の灯”を運んできたよ」

 少年は椅子に近づかず、

 息だけの席のそばに座った。

「迎えるってね、

 言葉を聞くことじゃなくて、

 『息のまま居ていい』って席を作ること」

 湯気が灯の息を包み、

 椅子の線が柔らかく揺れていく。

——灯はまず、息になる。

——息を抱ける者だけが灯を迎える。

 節子の声が、

 夜の深みに沈んで響いた。

 少年は声を使わず、

 息だけで灯を抱く生活を、

 胸の奥で静かに受け入れた。

(第七十二章につづく)

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