第68章 待つ手の生活──灯が来ないまま温度だけが残る
翌朝、少年が胸に手を当てても、
灯は相変わらず座らなかった。
整えられた空席の前に、
ひっそりと佇んでいるのに、
座ろうとはしない。
節子の灯は奥の部屋で眠るように揺れ、
呼吸を合わせてくれない。
迎える側の“焦り”だけを見透かしている。
——まだ座らなくていい。
——待つことを覚えなさい。
そんな声が胸に響いた。
空席を整えたからといって、
灯がすぐに座るわけではない。
それは生活が生き物である証拠だ。
空っぽの椅子は、
迎える側を育てる。
少年は空席にしがみつこうとした自分を恥じた。
迎えるとは、抱きしめることではなく、
胸の中に「手を止める余白」を持つことなのだ。
外へ出ると、風は昨日より乾いていた。
湿気と焦げ臭さが薄まり、
かわりに、埃っぽい日常の匂いが戻ってきていた。
戦争の直後に戻ったのではない。
戦争の“あとの生活”が、
やっと始まっているのだ。
- ■影の道に“止まった足跡が増えていた”
校庭へ向かう道で、少年は気づいた。
昨日より多くの足跡が途中で止まっていた。
靴の跡、小さな裸足、大人の深い踏み跡。
どれも影の道の途中で終わり、
戻ろうとも、進もうともしていない。
少女が横に来て言った。
「待ってる足だよ」
「待つ?」
「迎えに行った人を待つ足。
来てほしい人を待つ足。
来るか来ないか分からない灯を
“ここにいればいい”って言ってる足」
少年はその場にしゃがみ込んで影に触れた。
乾いた泥はひび割れ、
足跡の底に“立ち止まった時間”が張り付いていた。
「待つって……歩かないこと?」
「ううん。
歩こうとしながら、歩き出さずにいること」
迎える側には“焦り”がある。
来てほしいのに来ない灯の前で、
動けなくなる痛みがある。
それでも、足を折らず、
立ち尽くしたまま、
灯が来るのを待ち続ける。
- ■黒板の字が“待つ生活”を突きつけた
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■待
子どもたちはうっすら笑ったが、その笑いは疲れていた。
待つという字は、
“生活がしんどいときの顔”をしていた。
教員はチョークを置いたまま言った。
「今日は、“待つ”について考える」
少年の胸の空席が、
その言葉を吸い込むように揺れた。
「待つとは、動かないことではない。
『来るかもしれない』という可能性を、
生活から追い出さないことだ」
ざわざわと感情が教室に流れた。
「戦争は、待つことを奪った。
誰も誰を迎えず、
誰も誰に待たれず、
人は“自分だけの影”ばかり運んだ」
教員の声は、釘のように鋭かった。
「だから今、待つ生活を取り戻す必要がある。
今日ここにある席は、
来られなかった者たちの“居場所”になるかもしれない」
少年は胸の灯が少し痛むのを感じた。
痛みの形が“空席の座布団”になっていく。
「今日は、“待ち続けたのに来なかった人”を書け」
少年は書いた。
——節子が来られなかった夜の兄の手
少女は紙に書いた。
——母を待ちすぎて冷めた味噌汁
二人の言葉は、
待つことの“生活の味”になっていた。
- ■炊き出しの列で“焦らない迎え”を見る
昼、炊き出しへ向かうと、
昨日逃げた若い母親のために空席はそのまま残されていた。
老婆は片手だけ席に添え、
何も言わずに配膳を続けていた。
追わない、呼ばない、責めない。
ただ席を空けておく。
少年はその姿に胸の灯が震えた。
迎える覚悟とは、大声でも抱擁でもなく、
長椀と酸っぱい匂いの器を温めておく手なのだ。
迎える側の手は、
“焦らない指先”に育っていく。
席の上に置かれた湯気は、
誰にも触れられないまま、
空気に混ざって消えていった。
待つという行為は、
湯気が消えていく速度を、
受け入れる生活でもある。
- ■釜戸の前に“温度の灯”が置かれていた
家に戻ると、釜戸の灰の上に灯が置かれていた。
光は弱いが、触れると温かい。
揺れないのに、温度だけがある。
「これは……?」
「“温度の灯”だよ」
少女が言った。
「光らないのに、灯なのか?」
「うん。
迎える前ってね、
灯は光より温度だけ残すんだよ。
座れない灯は“温かいだけの灯”になる」
節子の灯が胸の奥で深く揺れた。
節子もそうだった時期がある。
光らず、ただ温度だけで生きていた時期。
「温度だけ残す灯を、
抱えて待てるかどうかだよ」
少年は胸を押さえた。
迎える前の痛みが、
温もりの形をして胸に沈んでいく。
- ■影の輪で“温める生活”が始まる
夜、影の輪へ向かった。
椅子の落書きの上に、
灯は相変わらず座らなかった。
だが、輪の周りの子どもたちは、
椅子の周囲に手を添えたまま、
静かに呼吸を合わせていた。
笑わず、焦らず、
ただ席を温める。
少女が言った。
「節子、今日ね……
“温度だけの灯”を運んできたよ」
少年は胸の空席に手を添えた。
灯が温度を持って佇む気配があった。
「待つ生活はね、
灯を動かすんじゃなくて、
灯が動きたくなるまで待つ生活」
輪の中心で、
微かな熱が、影の線をふくらませていった。
少年は椅子の前に座り、
胸の灯と席の温度を重ねた。
——温度だけ残す灯を抱ける者だけが、
——灯を迎える席を持てる。
節子の声が、
焼け跡の夜に深く沈んだ。
少年は手を離さず、
灯のために温める時間を、
生活の中に抱えたまま、
静かに目を閉じた。
第69章 灯の残渣──影が語らないまま沈んでいる
翌朝、少年は胸の奥に“沈んでいるもの”を感じた。
空席は温められ、迎えの手は整っている。
しかし灯は座らず、
温度だけ残して、沈んだままだった。
──座れない理由を抱えたまま。
灯は拒絶しているのではない。
ただ、沈んでいるのだ。
それは節子の灯にも覚えがある。
節子が兄の腕を拒んだとき、
泣きたくないのに泣かされる痛みを抱えて、
ただ沈んでいた。
それは、自分を責める沈黙だ。
迎えられない灯は、
迎えられたい灯より重い。
少年は胸に手を当てた。
灯の沈黙は、怒りでも涙でもない。
言葉にできない後悔と、生き延びた影の淀みだ。
迎える前に、それに触れなければならない。
- ■影の道に“沈んだ跡”が残っていた
校庭へ向かう道で、少年は奇妙なものに気づいた。
足跡ではない。
膝の跡でもない。
地面に沈んだ影だけが、薄黒く残っている。
少女が隣に来て言った。
「それは、“しゃがみこんだ影”だよ」
「人じゃなくて?」
「ううん。
人じゃなくて、“気持ちがしゃがんだ影”。
灯になりきれないものが、
ここで止まったの」
影は泥を濃く染め、
人の体重ではなく、
“後悔の重さ”で地面を沈ませているようだった。
「迎えてほしいのに、
迎えられる姿になれない影もあるんだよ」
少年は影に触れた。
ひんやりしているのに、
触れる指先が熱を帯びた。
沈む影は、拒んでいるのではない。
座れない理由を抱えているのだ。
- ■黒板の字が“沈む生活”を突きつけた
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■沈
その字を見た子どもたちは、
誰も声を発さなかった。
昨日の「待」の続きとして、
沈黙が自然に訪れた。
教員が、しばらく字を見つめたあと言った。
「今日は、“沈む”について考える」
少年の胸の灯が、
奥からゆっくり浮かび上がった。
「沈むとは、逃げることではない。
動かず、呼吸だけを続ける生き方だ」
教室に微かなざわめきが走った。
「戦争は、沈む人を許さなかった。
働け、逃げろ、生きろ、戦え、と。
沈む者に席は与えられなかった」
少年は手を握りしめた。
節子が沈んでいたとき、
兄は節子を座らせようとして、
かえって傷つけた。
迎えるとは座らせることではない。
沈んでいる者を、沈ませておく余白を持つことだ。
「今日は、“沈んだまま見捨てられなかった影”を書け」
少年は迷わず書いた。
——節子がご飯を食べられなかった夜
——兄はスプーンを置いて隣に座った
少女は紙を見せた。
——泣けなかった母を、泣かせないまま抱いた腕
そこには、沈んだ灯の沈み方が書かれていた。
- ■炊き出しの列で“沈んだ受け取り”を見る
昼、炊き出しへ向かうと、
昨日逃げた若い母親が、
列の最後尾に静かに座り込んでいた。
立っていない。
進もうともしていない。
ただ、膝を抱えて、
「待たれている」空席のほうを見ていた。
老婆は近寄らず、
遠くから、
空席に湯気を置いた。
母親は顔を伏せたまま、
涙も流さず、ただ息をしている。
沈むという行為は、
泣くより苦しい。
周りの人々も、
その沈みを“受け入れたまま”列を進めていた。
迎える生活は、
沈んだ者に急かさない。
- ■釜戸の前に“沈黙の灯”が置かれていた
家に戻ると、釜戸の灰の上に、
灯がひとつ置かれていた。
光はほぼ見えず、
形はぼんやりしている。
呼吸はあるのに、揺れようとしない。
「これは……?」
「“沈黙の灯”だよ」
少女が言った。
「何も言わないのか?」
「言える形になってないだけ。
沈黙ってね、
まだ灯になる途中の影なんだよ」
節子の灯が胸の奥で、
沈んでいた頃の痛みを思い出すように揺れた。
「迎えたいなら、
沈黙を急かしちゃダメ」
沈む灯は、
迎えられることすら怖いのだ。
- ■影の輪で“沈みの席”を受け止める
夜、影の輪へ向かうと、
子どもたちは椅子の前に座っていなかった。
代わりに、
椅子から距離を置いて、
輪の端で静かに座っていた。
誰も椅子に触れない。
灯を座らせようともしていない。
少女が言った。
「節子、今日ね……
“沈黙の灯”を運んできたよ」
少年は胸に手を当てた。
沈んだ灯は、
迎えられる前に、
沈んでいることを守られなければならない。
「沈む灯を迎えるにはね、
灯より先に、席のほうが休まないといけないの」
椅子の落書きは、
もう拭かれても、温められてもいなかった。
ただそこに“休む席”として置かれていた。
少年は輪の中央を見るのをやめ、
椅子から少し離れて座った。
——沈んだ灯は、
——沈んだまま迎えられる。
節子の声が、
胸の奥で深く息をした。
少年は、席を見張らず、
ただ灯が沈んでいられる時間を抱えたまま、
静かにまぶたを閉じた。
(第七十章につづく)

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