第66章 灯のための整え──影は埃を払う指になった
翌朝、少年は胸の奥に“手入れの欲求”を感じた。
迎えの灯が来る気配がしているのに、
胸の空席がどこか乱れているように思えた。
節子の灯が奥の部屋で、
うっすらと笑っている。
笑いながら、
「汚いまま迎えていいの?」
と言っているような気がした。
少年は胸を押さえた。
空席には、小さな影の埃が溜まっていた。
昨日までの貸し借り、
預けと返しの重みの“残りかす”だ。
迎える前に、それを払い落とさなければならない。
——迎えるってことは、
——席をきれいにすることなんだ。
外へ出ると、いつになく風が強かった。
風は焼け跡の埃を巻き上げ、
校庭へ向かう道の泥を薄く乾かしていった。
風が灯より先に整えようとしている気がした。
- ■影の道に“掃かれた跡”があった
校庭への道に着いたとき、
少年は驚いた。
影の道の一部に、
ごく薄い線が引かれていた。
まるで、小さな箒で掃いたような跡。
少女が横に来て言った。
「誰かが整えたんだよ。
迎える前は、影もきれいにしないと」
「影まで……?」
「うん。
影ってね、灯が座るところにもなるの。
影は椅子の足なんだよ」
少年は掃き跡を指でなぞった。
土はさらさらしていて、
昨日の湿った泥とは違っていた。
「迎える灯は、
汚れがあると座れないの?」
「座れないわけじゃないよ。
でもね、
“来てよかった”って思えるような席にしてあげないと」
風がまた吹き、
掃き跡に新しい砂を乗せた。
灯を迎える席は、
永遠に整え続けなければならない。
- ■黒板の字が“整える生活”を突きつけた
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■整
ざわめきがうっすら広がった。
整える、という行為は、
生活が“人を迎える準備に入った”ことを示すからだ。
教員が黒板を叩いた。
「今日は、“整える”について考える」
少年の胸の空席が、
その言葉にゆっくり反応した。
「整えるとは、
綺麗にすることではない。
『迎えるつもりがあります』と
生活の姿勢を示すことだ」
教室が静かになった。
「戦争は、
人が人を迎える姿勢を奪った。
誰も整えず、
誰も迎えず、
ただ奪い、ただ放り出し、
席を壊し続けた」
少年は無意識に胸を押さえた。
節子の灯が、そこに寄り添って揺れていた。
「整えるとは、
許すことではなく、
『受け入れる準備をする意志』だ」
子どもたちはそれぞれ紙に向かった。
「今日は、“整えそびれたままの場所”を書け」
少年は書いた。
——節子のために整えられなかった机
少女の紙にはこう書かれていた。
——母が帰る部屋の布団
二人の字は、
迎える前の寂しさで静かだった。
- ■炊き出しの列で見た“整えの手”
昼、炊き出しへ向かうと、
配給係の青年が、
釜の側面を布で拭いていた。
焼けた灰の匂い。
焦げ付きが落ちきらない表面。
それでも、青年は何度も拭いている。
「拭いても綺麗にならないでしょうに」
老婆が言うと、
「迎えたいんですよ」
青年は答えた。
「誰を?」
「今日、来られるかもしれない人を」
老婆は黙った。
青年の手の拭き方は、
拭きながら許しているかのようだった。
少年の胸の灯が、
その“整えの手”に揺れた。
——迎える前の拭き掃除は、
——自分の生活に言い訳しないための掃除。
節子がそう言っているようだった。
- ■釜戸の前に“整えの灯”が置かれる
家に戻ると、釜戸の灰の上に、
とても弱い光の灯が置かれていた。
光はほとんど見えないが、
形だけはくっきりしている。
まるで椅子に座る前の、
姿勢だけを示す灯のようだった。
「これは……?」
「“整えの灯”だよ」
少女は言った。
「灯が整えるの?」
「ううん。
灯が来る前に、人が整えるの。
この灯は『整えてください』って座ってるの」
灯は何も主張しないのに、
胸の奥を強く締め付けてくる。
「整える前に灯が来てしまうと、
灯は痛がるんだよ」
少年は胸を押さえた。
節子がある時、痛がった記憶が甦った。
- ■影の輪で“椅子を拭く儀式”が始まる
夜、影の輪へ向かった。
輪の中心の椅子の落書きは、
砂でうっすら汚れていた。
子どもたちが何をするでもなく、
ただその椅子の線を指で拭いていた。
誰も言葉を発しない。
ただ、拭く。
整える。
迎える前に、椅子を清める。
少女も輪のふちに膝をついて
椅子の線を拭いた。
「節子、今日ね……
“整えの灯”を運んできたよ」
少年は胸の空席がきゅっと狭まるのを感じた。
くすぐったい痛みがあった。
「整えるってね、
『来てくれていい』っていう無言の合図」
少年は輪の中心に近づき、
その椅子の線を慎重に拭った。
——迎える前に、
——席を綺麗にしておく生活。
節子の声が、
風より静かに胸に触れた。
少年は拭いた椅子の前に座り、
胸の灯を[整える側]として静かに抱いた。
第67章 灯のためらい──影が扉で立ち止まる

翌朝、少年は胸に違和感を覚えて目を開けた。
空席は整っている。
埃も影も払った。
しかし胸の奥に、
“入りたがらない気配”があった。
灯が来ようとしているのに、
扉の外に立ち止まっている。
節子の灯は奥の部屋で身じろぎもしなかった。
まるで「まだよ」と言っているかのようだ。
空席は用意した、
迎える覚悟もある、
だが——
迎えられる側が来たがらない。
その重みが胸に滞留していた。
灯は光るだけではない。
光らずに躊躇することもある。
少年は喉が渇き、
外の風を吸い込むように扉を開けて外へ出た。
風は昨日より重く、湿っていた。
焼け跡ではなく、“人の生活の残り香”が濃かった。
濡れた灰の匂い、
隠しきれない魚の腐りかけの匂い、
怒りを押し込めた唾の匂い。
迎えられる灯は、人の匂いに怯えていた。
- ■影の道に“立ち止まりの跡”があった
校庭へ向かう道で、少年は足を止めた。
影の道の途中に、
足跡が二つ重なり、
その先に踏み込みの跡がなかった。
誰かが途中まで来て、
迷って、
帰ろうとした跡。
「ここまで来たのに、帰ったのか?」
少年が呟くと、
「帰ったんじゃないよ」
いつの間にか少女が隣に来て言った。
「入れなかったの。」
「入りたくないのか?」
「迎えてもらうのは、こわいんだよ。
自分が汚れていると思ってる人ほどね」
足跡には指先で触れられるほどの震えが残っていた。
影の泥が、
“後ろめたさ”の形をしていた。
「迎えてほしいのに、迎えられたくない灯ってあるの」
少年は胸を押さえた。
本人が背負った影の汚れを、
迎えられたくない灯は抱え続けている。
迎えの灯は、人を試す。
迎える覚悟が本物かどうか。
- ■黒板の字が“ためらいの生活”を示す
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■躊
教員は字の横に指を添えたまま、
しばらく沈黙した。
少年はその沈黙の意味が分かった気がした。
迎える前に、来られない者の痛みに触れなければならない。
教員が言った。
「今日は、“ためらい”について考える」
子どもたちはめずらしくざわめかなかった。
「迎える覚悟があっても、
迎えられる側の影が、それを拒むことがある。
人は、自分が汚れたまま席に座るのを恥じるのだ」
少年の胸の灯が深く揺れた。
灯の形に見える“恥じらい”がそこに隠れている。
「戦争は人に影を刻んだ。
影を持っている者ほど、
『迎えられる」ことに耐えられなくなる」
教員は、黒板に指で線を引いた。
「今日は、“迎えられそうで逃げた影”を書け」
少年は書いた。
——節子が兄の腕を拒んだ夜
少女の紙にはこう書かれていた。
——母が帰りかけて家に入らなかった朝
二人の言葉は、
迎えるより痛い拒絶を孕んでいた。
- ■炊き出しの列で“拒まれた迎え”を見る
昼、炊き出しへ向かうと、
昨日戻ってきた若い母親が、
赤ん坊を抱いて悶えていた。
老婆が近づいて言った。
「席はあるよ。入んなさい」
母親は涙をこらえたまま、
言葉が漏れた。
「……顔向けできないんです」
老婆は首を振った。
「顔なんか向けなくていいから戻っておいで」
母親は赤ん坊を抱いたまま、
胸の前に手を置き、うずくまった。
迎えられたいのに、
迎えられたくない。
赤ん坊が泣き出すと、
母親はその声に耐えられず、
影の脇道に逃げ込んだ。
老婆は追わなかった。
追うことは迎えることではない。
追わずに待つ。
それが迎えなのだ。
- ■釜戸の前に“拒んだ灯”が置かれていた
家に戻ると、釜戸の灰の上に、
とても弱い灯が置かれていた。
光はあるのに、
揺れようとしない灯。
少女が言った。
「“ためらいの灯”だよ」
「来たのか?」
「来たけど、座りたくない灯。
整った席を見ると、
『自分は座れない』って思ってしまう灯」
灯は震えることもなく、
ただそこに“居づらそうに”置かれていた。
「迎える前に、灯のためらいを受け止めてあげないと」
少年は胸を押さえた。
節子の灯が、
兄の腕を拒んだ夜の記憶を呼び戻していた。
- ■影の輪で“座れない灯”の席を温める
夜、影の輪へ向かった。
椅子の落書きは拭き終わっているのに、
輪の中心に灯は座らない。
子どもたちは誰も座らず、
椅子の周りに“手を添える”ようにしていた。
触れず、乗せず、
ただ席を温める。
座らない灯のために、
席をあたためる。
少女が言った。
「節子、今日ね……
“座れない灯”を運んできたよ」
少年は胸の奥の空席が、
痛みとあたたかさの両方で満たされるのを感じた。
「迎えるってね、
席に座らせることじゃないの。
座れるまで待つことなの。」
少年はゆっくり膝をつき、
椅子の落書きに手を添えた。
——灯が自分で座れるようになるまで、
——温めて待つ生活。
節子の声が、
焼け跡の夜に静かに響いた。
少年は手を離さず、
席の冷たさがほんのり温まり始めるのを感じた。
(第六十八章につづく)

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