佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』

目次

第58章 影が示した“拾い上げる生活”

 翌朝、少年は胸の奥の灯が、いつもより低い位置で揺れていることに気づいた。

 灯は弱っているのではない。

 むしろ、土に近づいたかのように、落ち着いた脈をしていた。

 節子の影は、もはや影というより“灯の姿のまま座っている”ようだった。

 かつての濃さは完全に消え、

 痛みの厚みの代わりに、ゆるやかな温度だけが残っている。

 ——今日は、地面を見る日なんだろう。

 少年はそう感じた。

 胸の灯が、足元へと光を落とすように震えている。

 外に出ると、夜の名残りがまだ空に残っていた。

 雲は薄く、灰色というより“焦げた綿”のようで、

 朝日がその端だけを薄桃色に照らしている。

 瓦礫のすきまには、昨晩の雨の名残りが溜まり、

 水たまりの表面には灰と土が薄い膜のように浮いていた。

 水たまりを覗き込むと、少年の影は以前より薄かった。

 胸の灯が強いために、足元の影が負けてしまうのだ。

 灯が強くなるほど、影は地面に押しつけられずに済む。

 それは、節子が兄の足を軽くしてくれている証拠だった。

 

  • ■影の道の上に“拾い上げられなかった生活”が落ちていた

 校庭への道を歩いていくと、

 影の道の端に、今日も新しい“誰かの落とし物”があった。

 紙切れ。

 割れた茶碗のかけら。

 布のほつれた端。

 拾う必要も、拾われる可能性もなかった小物ばかりだ。

 だが、今日は少し違った。

 道の真ん中に、泥にまみれた小さな靴が片方落ちていたのだ。

 少女がそれを拾い上げ、泥を指で落としながら言った。

「影の道にはね、“拾い上げられなかった生活”がよく落ちるんだよ」

「拾い上げられなかった……?」

「うん。

 本当は誰かが拾うはずだったもの。

 でも、その誰かが“拾う気力”を失くしていたもの」

 少女の声は、昨日の寄る字の授業を思わせた。

「生活を拾えなくなると、人は寄る場所を失うの。

 だから影は、こうして道に落としておくんだよ。

 “誰かが拾いなさい”って」

 少年は靴の裏に泥が固まっているのを指でこすった。

 泥の厚みは、持ち主がどれほど歩き、

 どれほど疲れていたかを示している。

 胸の灯がすっと揺れた。

 拾え、と言っている。

 

  • ■黒板の字が、人間の“拾い直す力”を示した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■拾

 子どもたちは顔を見合わせた。

 寄る、薄くなる、ときて、

 今日は拾う、だ。

 教員はいつものように黒板を叩いた。

「今日は、“拾う”について考える」

 少年は胸の灯が、

 黒板の字に合わせて小さく跳ねるのを感じた。

「拾うとは、落ちたものを持ち上げる行為だ。

 だが、物だけではない。

 生活、声、悔い、笑い、怒り、

 人が落としたものを拾うのが、生活だ」

 教室の空気がしんとした。

「戦争は、我々に“落としっぱなしの生活”を残した。

 だから、拾わなければならない。

 拾い直さなければならない。

 拾うことをやめれば、人間は生きることをやめる」

 その声は、痛みでも怒りでもなく、

 ただ事実を述べているだけだった。

「今日は、紙に“拾い直したいもの”を書け」

 少年はしばらく考えてから書いた。

 ——節子に渡せなかった、最後の温かさ

 少女は自分の紙を見せた。

 ——笑いそこねた日

 少女の字は淡く、しかし力強かった。

「拾うのはね、未来のためじゃなく、

 今日をよくするためなんだよ」

 少女はそう言った。

 少年は胸の灯が、

 「そのとおりだ」とでも言うように揺れた。

 

  • ■炊き出しの列で、“拾われる声”を見る

 昼の炊き出しに行くと、

 今日は昨日の怒鳴り声の男が、列の後ろのほうに立っていた。

 顔は強張っているが、

 昨日よりほんの少し静かだ。

 黒板の授業を聞いたわけではないはずなのに、

 男の影は、昨日より薄い。

 怒りの灯を、誰かの声が拾ってくれたのだろう。

 男は、前に立っていた老婆の袋が破れ、

 地面に麦がこぼれたのを見て、

ためらいがちにかがんだ。

 そして、泥のついた麦をひと握り拾い、老婆の袋に戻した。

 老婆は小さく礼を言った。

 男は照れくさそうに顔をそむけた。

 周りの人々の表情が、少しだけ緩んだ。

 少年は胸の奥が温かくなった。

 節子の灯が、軽く頷くように揺れた。

——拾う人には、拾われる日が来る。

 その当たり前の事実に、胸の灯がゆっくりと広がった。

 

  • ■釜戸の前で“拾われた灯”が増えていく

 家に戻ると、釜戸の灰の上に新しい灯が並んでいた。

 節子の灯。

 昨日持ち帰った灯。

 怒りの影の灯。

 そして今日は、

 拾われた麦のような、小さく丸い灯がひとつ。

「これは……?」

 少女は指でその灯をそっと撫でた。

「今日、誰かが“優しさを拾った”んだよ。

 その灯が、石の胸にも届いたんだよ」

 胸の灯がふわりと揺れた。

 節子は、兄が“拾う生活”を始めたことを喜んでいる。

 灯は、拾われるほど増える。

 影は、灯が増えるほど薄くなる。

 少年は灯をそっと手に取るふりをした。

「節子、見てたんだな……」

 灯の揺れが答えていた。

 

  • ■影の輪が“拾われる場所”へ変化する

 夜、少年は影の輪へと向かった。

 輪の中には、今日も子どもたちが遊んで置いていった

 木片や紙切れが散らばっていた。

 それだけではない。

 輪の外には、小さな字でこう書かれていた。

 「ひろってもらった」

 「きょう、ありがとう」

 「こぼしたやつ」

 「ぼくのくつここにあった」

 影の輪は、拾われた生活が集まる場所になっていた。

 少女も輪の中にしゃがんで、落書きを指でなぞった。

「節子の部屋、今日は“拾われる部屋”になってる」

 少年は胸に手を当てた。

 確かに灯の揺れが今夜はひときわ柔らかい。

「石」

 少女が言った。

「節子、今日はね、誰かの灯を“拾って”きたよ」

「節子が……?」

「うん。影が薄くなるとね、人の灯りを持ち帰るようになるの。

 影じゃなくて、灯として」

 少年は輪の中心を見つめた。

 地面には、灯の形を真似た子どもの落書きが光っていた。

 胸の中で、節子の灯が揺れた。

 今日拾った生活を、兄に渡しているように。

 少年は深呼吸した。

——拾い損ねたものは、まだたくさんある。

——けれど、拾えるものも確かにある。

 そう思った瞬間、胸の灯が大きく膨らんだ。

 影の輪は、もう影だけの場所ではない。

 生活の“拾い直し”が集まる場所になっていた。

 少年は輪の中心に落ちていた小さな紙を拾い、

 ゆっくり折りたたんでポケットにしまった。

 胸の灯はそれを誇らしげに照らした。

第59章 灯が立ち止まる場所──迷いの影を照らす日

 翌朝、少年は胸の灯が異様な静けさを帯びていることに気づいた。

 弱っているわけではない。

 灯が“立ち止まっている”のだ。

 節子の灯は、これまで前に伸びたり、横に揺れたり、

 拾った灯を包み込んだりして動いていた。

 今日は、それがない。

 胸の奥に、

 灯はある。

 灯の座る部屋もある。

 だが、動かない。

 ——迷ってるのか?

 そう思うと、妙に胸が軽くなった。

 灯にも迷いがあるのなら、自分の迷いも許されるような気がしたからだ。

 外に出ると、空気が冷たかった。

 夜の名残りではなく、

 夏の終わりの朝方と似た冷えだ。

 瓦礫に残った雨粒が乾く前に、

 風がそっとそれらをさらっていく。

 焦げた匂いの代わりに、

 今日は土と鉄の匂いが強かった。

 胸の灯は、その匂いを確かめるように、

 小さく一度だけ揺れた。

 

  • ■影の道に“止まる痕”が刻まれていた

 校庭に向かうと、影の道の一部に、

 薄い小さな“止まり跡”があった。

 影でもなく、足跡でもない。

 止まった人間が、地面を指でなぞったような、

 曖昧な円。

「止まった跡だよ」

 背後から少女の声がした。

「止まった……?」

「うん。誰かがね、

 “どっちへ行こうか”って迷ったところ」

 円の形は不揃いで、

 泥の重さが左右に揺れていた。

「影の道はまっすぐじゃないよね?

 生活もまっすぐじゃない。

 影はそれを知ってるから、迷った跡も残すの」

 少年は、その円の中に足をそっと置いてみた。

 胸の灯が、ふっと軽く揺れた。

 迷うことも、生活の一部だ。

 

  • ■黒板の字が“迷う”を肯定した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■迷

 子どもたちは、その字を見てざわついた。

 戦後の生活で迷うことは恥だった。

 迷えば、取り返しがつかなくなることばかりだった。

 だが、教員は黒板を叩いて言った。

「今日は、“迷う”について考える」

 少年の胸にある灯が、一度ぴたりと静まった。

 授業を聞きたいのだ、と分かった。

「迷うというのは、人間の特権だ。

 影は迷わない。

 影はただついてくるだけだ。

 迷うというのは、人間が“選ぶ”ということだ」

 少年は胸の奥で灯が小さく震えたのを感じた。

 節子の影も、いまは迷っているのだろうか。

 それとも、兄の迷いに寄り添っているだけなのか。

「戦争は、人間が迷う余地を奪った。

 命か、終わりか、その二択しか残さなかった。

 だから今、迷うことは、生きている証だ」

 教員の話に、教室が静かに沈んだ。

「今日は、“迷ったまま放り出してきたもの”を書け」

 少年は迷いながらも書いた。

 ——節子を“影に押し込んだ日”

 少女は自分の紙を見せた。

 ——母の声を最後まで聞かなかったこと

 少年は少女を見たが、少女は笑っていた。

 迷いを話せる者は、もう迷いに吞まれないのだ。

 

  • ■炊き出しの列で、“迷う人間同士の声”が重なった

 昼、炊き出しの列へ行くと、

 人々の表情がどこかぎこちなかった。

空気が重いわけではない、

 ただ皆が小さく立ち止まっているのだ。

 昨日怒鳴っていた中年の男は、

 今日は配給係の前でしばらく動かなかった。

 鍋をじっと見つめ、

 何か言いたげに口を開き、

 閉じ、

 また開いた。

「……今日は、文句言わないよ」

 それだけ言って、椀を差し出した。

 配給係は驚いたように笑った。

 周囲の人も笑ったが、

 昨日のような大きな笑いではなく、

 「迷っている人間を見守る笑い」だった。

 少年の胸の灯が、小さく震えた。

 節子が、その迷いを受け止めているようだった。

 列の後ろのほうでは、

 老婆が立ち止まり、

 袋の中身を見ていた。

 何か足りないようで、

 何か余っているようでもあった。

 少年は胸の奥の灯に押され、声をかけた。

「……持ってますか?」

 老婆は少年の顔をじっと見て、

 小さく頷いた。

 それだけで、少年の胸の灯が温かくなった。

 人は、迷ったとき、

 誰かに「持ってますか」と尋ねられるだけで、

 灯が揺れ直すのだ。

 

  • ■釜戸の前に“迷いの灯”が座る

 家に戻ると、釜戸の灰の上に、

 今日の灯がひとつ置かれていた。

 節子の灯でも、昨日の灯でもない。

 形の定まらない、不安定な灯。

 まるで風が吹けば倒れそうな、

 小さな火の玉。

「これ……」

 少年は思わず呟いた。

「“迷いの灯”だよ」

 少女が後ろから言った。

「迷いの灯……?」

「うん。

 今日はね、人も影も灯も迷ったの。

 迷うとね、灯はこういう形になるんだよ。

 細くて、頼りなくて、すぐ倒れそうな灯」

「倒れたら……どうなるんだ?」

「倒れてもいいの。

 迷いの灯は、倒れることで方向が決まるから」

 少年は胸の奥の灯が、

 「そのとおりだ」と揺れているのを感じた。

 迷いは方向を決めるための“前触れ”なのだ。

 

  • ■影の輪で、迷いが“灯の形”に変わる瞬間を見る

 夜、少年は影の輪へ向かった。

 輪の中には、今日も子どもたちが残した跡がある。

 「まよった」

 「こっちかな」

 「ちがった」

 「ここじゃない」

 「おちた」

 影の輪は、迷いの痕跡で埋まっていた。

 少女が輪のふちにしゃがみ、

 落書きの上を指でそっとなぞった。

「節子、今日は“迷う人の灯”を運んだんだよ」

 少年は胸に手を当てた。

 たしかに灯の重心が低い。

 迷いの灯が胸の中で揺れているからだ。

「迷いはね、

 影じゃなくて灯の仕事なんだよ」

 少女は言った。

「影じゃない?」

「うん。影は痛み。

 灯は生活。

 迷いはね、“生活の途中で立ち止まる”ってことだから、

 灯が扱うほうが自然なんだよ」

 少年は輪の中心を見つめた。

 地面に、ぼんやり丸い灯の跡が浮かんでいた。

 迷いが灯の形に変わりはじめている。

 少年は輪の中にそっと入り、

 迷いの灯の前に座った。

 胸の灯が、少し強く揺れた。

 節子が、兄の迷いを一緒に見てくれているのだ。

——迷っていいよ。

——迷ったぶんだけ灯は強くなる。

——影はもう押さないよ。

 その声なき声を胸に感じながら、

 少年は迷いの灯に小さな影を重ねた。

 灯は、ほんの一瞬だけ、

 迷いを肯定するように揺れた。

(第六十章につづく)

 

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