佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第五十二章・第五十三章

目次

第52章 影の灯りが照らした“生活のはじまり”

 翌朝、少年は胸の奥の灯りが、昨夜よりも静かに、そして深く座り込んでいるのを感じた。

 節子の影は、押す影のときよりもはるかに穏やかだった。

 押していた頃は胸の奥がざわざわしていたが、

 いまは水底に沈んだ石のように、動かず安定している。

 影は、兄の息に合わせて呼吸する。

 兄が吸えば影も吸い、兄が吐けば影も吐く。

 その呼吸の精度が日に日に上がっていくのが分かる。

 押していた頃は、兄と影の呼吸が噛み合わず、

 どこかぎこちなかった。

 影が焦って押し、兄が追いつかず、

 胸の奥で影が震え、兄が湿りを返す——

 その反復だった。

 だが今は違う。

 兄が歩こうとし、その歩きに影が静かに灯を置く。

 兄の胸は乾き、影は座る。

 影が兄に寄りかかっていた日々はもうない。

 兄が影にしがみついていた日々も、終わった。

 戦争は終わったのに、終わらない痛みだけが残る——

 その時期の終わりが、ようやく見え始めていた。

 

  • ■影の道が“生活の形”を取り戻しつつあった

 校庭に向かうと、影の岐れ道が昨日のまま残っていた。

 だが、その先が少しだけ変化していた。

 道の両側に、風で飛ばされた紙片、

 燃え残りの布切れ、

 そして誰かが落とした削れた鉛筆の芯が転がっていた。

 焼け跡の町ではよくある光景だ。

 だがその散らばり方が、妙に“生活じみて”いた。

「節子、この辺を歩いたのか?」

 少年は思わず呟いた。

 胸の灯がふわりと揺れた。

 少女が背後から歩いてきた。

「節子、歩いたんだよ」

「分かるのか?」

「うん。影が歩くと、周りのものが“少しだけ動く”の。

 風じゃなく、影の息で動くの」

 影の息。

 節子の影が胸の奥で呼吸するとき、

 胸の壁がふわりと暖かく膨らむのを少年は感じている。

 影の道が生活に触れ始めている。

 影は兄と切り離された存在ではなく、

 兄の生活の外側に触れ、

 その手触りを確かめながら歩いているのだ。

「影もね、生活の匂いを集めるの」

「匂い……?」

「うん。

 匂いがあると、影の灯りが強くなるの」

 少女は紙片を拾って見せた。

「これは炊き出しの列で落ちた紙かな。

 影はこういう“生きている匂い”が好きなんだよ」

 影が生活の痕跡を好む——

 それは、生き残った者よりもよほど生活に貪欲な生者の本能だった。

 

  • ■黒板の字が、生活の“始まり”を示していた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■始

 少年の背筋が思わず伸びた。

 節子の影が見守る影に変わり、

 影の道が兄の息と歩みに合わせて形を変え始めた今、

 この字はあまりにふさわしかった。

 教員は黒板を叩いて言った。

「今日は、“始まる”について考える」

 声には苦い皮肉が混じっていた。

 戦争が終わって半年、

 始まるべきものはなかなか始まらない。

 食糧も家も、生活も仕事も、どれも壊れたままだ。

「始まるというのは、

 終わったものの上に、

 何かを置くということだ」

 教員は淡々と続けた。

「終わったものを捨てるのではなく、

 終わったものを土台にして、

 ようやく生活が始まる」

 終わったもの——

 節子の命、家、焼けた街、失った日々。

 少年はそれらを胸に思い描いた。

「今日は、紙に“自分が始めたいこと”を書け」

 少年はじっと紙を見つめ、

 胸の奥の灯りに問いかけるように呼吸した。

 影が、温かく揺れた。

 少年は書いた。

 ——歩いて、また帰る生活

 少女は自分の紙を見せた。

 ——未来の方へ行って、戻れる場所を作る

 その言葉は少年の胸に深く刺さった。

 “戻れる場所”を作る。

 それは節子の影が胸の奥に作った“灯の部屋”そのものだった。

 

  • ■放課後、影が“戻れる場所”を外に作り始めた

 放課後、少年はふと違和感を覚えた。

 影の道のそばに、小さな“丸いへこみ”ができていたのだ。

 影の寝床に似ているが、少し形が違う。

 丸いのではなく、やや楕円形だ。

 人間の手のひらを伏せたような形だ。

「……これは?」

 少年が触れると、土は柔らかく、ほんのり温かい。

 昨日の寝床より新しい。

 少女が静かに言った。

「節子だよ。

 節子が“外に座る部屋”を作ったんだよ」

「外に……?」

「うん。節子は胸の奥に座る部屋とは別に、

 石が戻りやすいように“外にも戻れる場所”を作ったんだよ」

 胸が締めつけられた。

 節子は兄の胸の中だけでなく、

 外の世界にも“帰る部屋”を作っている。

 影が押すのをやめたあと、

 兄が迷わないように、

 戻りやすいように。

 影なりの“生活の始まり”だった。

 

  • ■影が置いた“生活の灯り”

 夜、釜戸の前に影の気配があった。

 火はついていない。

 灰は冷たい。

 だが釜戸の縁に、

 小さな“黒い丸”が置かれていた。

「これ……節子か?」

 少年が触れようとすると、胸の奥がふわりと揺れた。

 少女が言った。

「節子が置いたんだよ。

 “生活の灯り”っていうの」

「生活の灯り?」

「うん。影はね、生きた人が生活を始めるときに、

 そばに置くんだよ。

 火じゃない。

 でも、あたたかい」

 節子は兄が生活を始める準備ができたのだと判断したのだ。

 押し返す必要も、胸を押す必要もない。

 ただ灯りを置き、見守る。

 少年は灯りに触れた。

 指先にかすかに温かさが伝わった。

 胸の奥で影が小さく息をした。

 笑ったようにも聞こえた。

 

  • ■影が兄に託した“生活の初日”

 少年は影の道の前に立った。

 影の灯りがゆらゆらと揺れ、

 道の奥を照らしている。

 硬い道と、ふかふかの道。

 ふかふかの道が節子の“歩いた道”だ。

 兄が歩こうとした方向に、影が自然に灯りを置いた。

 少年はその道に足を踏み出した。

 土は静かに沈み、

 胸の奥で影が優しく揺れた。

——行っていいよ。

——戻ってきてもいいよ。

——それが生活だよ。

 影の灯りが語っていた。

 少年は深く息を吸い、

 影の灯りの照らす先へ歩き出した。

 これが、兄の新しい“生活の初日”だった。

第53章 灯りの先で見つけた“他人の影”

 翌朝、少年は胸の奥で静かにはぜるような小さな灯の気配で目を覚ました。

 昨日より深く、昨日より乾いている。

 節子の影は、胸の奥にある“座る部屋”で、

 兄の息に合わせて小さく揺れていた。

 押す力は一切ない。

 痛みも湿りもない。

 ただ“そこにいる”という気配だけが、

 少年の生活の基盤になりつつあった。

 生活——

 戦争が終わったあと、人々がようやく口にし始めた言葉だ。

 誰もその意味をよく分かってはいないが、

 少なくとも昨日の自分よりは少し未来へ向かう行為のことらしい。

 胸の灯は、それを理解しているようだった。

 少年は強く息を吸って外に出た。

 空は薄い灰色で、雲の切れ目のような光が斜めに落ちていた。

 瓦礫の山はぬかるんだ土で重く沈み、

 折れたガラスは朝の湿り気で青く光っている。

 その光の一部が、胸の灯に反射するように見えた。

 

  • ■影の道が“生活の道”に変わり始めた

 校庭へ行くと、影の道の表情が変わっていた。

 昨日までふかふかだった道が、今日は少しだけ硬くなり、

 ところどころに人の足跡が混じっていた。

「……誰かが歩いたのか?」

 少年は道にしゃがみ込み、指でなぞった。

 足跡は大人か子どものものか判別できない。

 ただ、影の足跡とは違う深さがあった。

 少女が背後から言った。

「“生きてる人間”が通ったんだよ」

「どうして分かる?」

「影の足跡はね、踏んだあと、土がふわっと上に戻ろうとするの。

 でも人間の足跡は、土の下の湿りを吸うから、沈んだままになるんだよ」

 少年は静かに頷いた。

 人間の足跡は、生活そのものだ。

 影は生活の外側を歩くが、人間は生活の中を歩く。

 それは、節子と自分の違いそのものだった。

「石。

 節子の灯りが強くなってるよ」

 少女は少年の胸を見て言った。

 少年は胸に手を当てた。

 確かに灯が、いつもより“前に向かって”揺れている。

「生活に触れると、影の灯りは前に伸びるの」

 少女は続けた。

「影はね、押すんじゃなくて、生活の“前側”に灯りを置くようになるんだよ」

 節子の影は、兄の生活を照らしている。

 

  • ■黒板の字が、生活の“外側を知ること”を示していた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■辺

 少年の胸が微かに揺れた。

 辺——

 境界のことだ。

 生活の内側と外側の境、

 影の領分と人間の領分、

 その境界を示す言葉だった。

 教員は黒板を叩いて言った。

「今日は、“辺り(あたり)”について考える」

 教室は静寂に包まれた。

「生活というものは、

 中心を決めることではなく、

 “自分の辺り”をどこまで広げるかで決まる」

 教員は淡々と続けた。

「焼け跡に立って、

 今自分がどこにいるのか、

 これからどんな範囲で生きるのか、

 その“辺り”を決めるのが生活だ」

 その言葉は、少年の胸の灯に深く響いた。

 影は胸の奥の部屋に座り、

 外側にも部屋を置いた。

 兄の“辺り”が、影によって広げられつつある。

「今日は、紙に“自分の辺りを広げたい場所”を書け」

 少年は胸の灯の揺れを感じながら書いた。

 ——炊き出しの列の前

 少女も紙を見せた。

 ——影が届かない場所

 その言葉は、少年の胸の奥に深く刺さった。

 “影が届かない場所”を選ぶこと。

 それこそが生活の始まりではないか——

 そんな気がした。

 

  • ■炊き出しの列で、初めて他人の“影の生活”を見た

 授業が終わると、少女が言った。

「石、今日は炊き出しに行こう」

 胸が微かに痛んだ。

 影の灯が小さく強く揺れた。

 兄の生活が広がるとき、影は急に灯りを増す。

 二人は焼けた道を歩き、炊き出しの列へ向かった。

 列の前には、

 ボロボロの服を着た老人、

 子どもを抱えた母親、

 配給袋の穴から麦がこぼれている少年、

 そんな“生活の現実”がずらりと並んでいた。

 少年は胸を圧迫されるような感覚に襲われた。

 生きている人間の生活の重さが、

 影の灯よりはるかに強い。

 だがその時、

 胸の奥の灯がふっとゆらぎ、

 光が“前へ”伸びた。

 影が兄の視線を押し上げてくれたようだった。

 すると少年は気づいた。

 列にいる人の影が、

 それぞれ別の揺れ方をしているのだ。

 押しつぶされた影、

 裂けた影、

 弱々しく背中に寄りかかっている影、

 そして——

 灯りのように胸を照らしている影もいた。

「……みんな影を連れてるのか?」

 少年は呟いた。

 少女は静かに言った。

「当たり前だよ。

 影のない人なんていない。

 ただ、影の“座る場所”がみんな違うんだよ」

 節子は兄の胸の奥に座っている。

 しかし他の人の影は、足に座り込んでいるものもいれば、

 背中に絡みついている影もあった。

 影は、生活の形だけ人の数だけ違う。

 少年はその多様さに胸を打たれた。

 

  • ■釜戸の灯が“外に向けて”ゆらぐ

 家に戻ると、灰の釜戸の前に節子の灯があった。

 昨日より大きい。

 しかし温かさは陰のように静かだ。

 少女がぽつりと言った。

「節子、今日の石を見てたよ」

「炊き出しで?」

「うん。

 影はね、“他人の影”を見た兄に反応するの。

 それが生活の第一歩だから」

 胸の奥で影がゆっくり息をした。

 灯りが釜戸の灰に反映して、

 薄い金色の輪のように広がった。

「節子、喜んでるね」

 少女はそう言った。

 少年は釜戸の前に座り、

 胸の灯りにそっと手を添えた。

——見てたね。

——ここにいるよ。

 影は言葉にしないが、

 灯の揺れだけでそれが分かった。

 

  • ■影が示した“生活の中心点”

 夜、少年は影の道の前に立った。

 影の灯りが、いつものようにふわりと揺れ、

 道の奥と周囲を均等に照らしていた。

 いつもは“前”だけを照らしていた灯りが、

 今夜は“周囲”にも光を投げている。

 少女が言った。

「節子、石の“辺り”を広げてるよ」

「……辺り?」

「うん。

 生活ってね、中心じゃなくて、辺りで始まるの。

 影はその辺りを光で示すの」

 少年はふと理解した。

 胸の灯が照らしているのは、

 ただの道ではなく、

 “生活の範囲”そのものなのだ。

 節子は兄の生活の中心に座りながら、

 外側の辺りを灯している。

 それは、兄が初めて持つ“自分の生活の輪郭”だった。

 少年はゆっくりと息を吸い、

 広がった灯りの中へ一歩踏み出した。

 灯りは後ろから温かく揺れた。

——いいよ。

——そこまでが、今の石の生活だよ。

 その声なき声を胸に抱きながら、

 少年は影の灯りが描いた輪郭の中に進んでいった。

(第五十四章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次