佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第四十六章・第四十七章

目次

第46章 影が沈む朝、そして残る声

 節子の影が言葉を発してから、夜はしばらく動かなかった。

 世界がその一言を受け止めるのに時間をかけているようだった。

 “生きたかった”という言葉は、火の残り香よりも濃く、

 死の匂いよりも重く、その夜の空気に峠をつくった。

 少年は釜戸の前にうずくまり、胸の熱が落ちつくのを待っていた。

 影の声は消えたが、胸の奥の震えはまだ残っていた。

 節子の影が、そこにいる証だった。

 少女は隣で静かに座っていた。

 影の言葉を聞いた人間の変化を、彼女はもう何度も見てきたのだろう。

 表情には驚きも涙もなく、ただ穏やかな達観があった。

「石、今、胸、痛くないでしょう」

 少女は淡々と言った。

「……痛くない」

「それはね、影が“言えてよかった”って思ってるからだよ」

 そういうものなのか、と少年は思った。

 節子は、生きている最後の瞬間、喉に何か詰まったように言葉を飲み込んだ。

 思い返せばそれがずっと胸の奥に残っていて、

 少年自身も何かを言われそこねた後ろめたさの中に閉じ込められていた。

 その“残り”が、今ようやく抜けた。

 

  • ■影の沈む朝

 夜が終わる頃、釜戸の灰の下の光も完全に消えた。

 火と影はよく似ている。

 どちらも形なく揺れ、どちらも宿がなければ消える。

 節子の影は、ようやく言葉を吐き出し、再び静かになった。

 外へ出ると、空が白んでいた。

 昨日よりもわずかに明るい。

 胸の湿りがなくなったせいか、胸郭が軽く広がるのが分かった。

 校庭へ向かうと、影の寝床は深く沈んでいた。

 土の中央にできた楕円形の窪みは、まるで“座り込んだ影の余韻”のようだった。

 少女がその土を指で押した。

「影が喋った朝は、土が重くなるの」

「節子は……ここに座ったんだな」

「うん。座って、喋って、泣き止んだ」

 喋って、泣き止んだ。

 その事実が、少年の胸に重く響いた。

 生きている間、一度も言えなかった言葉を、影になってようやく言えたのだ。

 影にしなければ言えなかった。

 そう思うと、胸の奥に冷たいものが流れた。

 

  • ■黒板の字が、朝の影を示した

 学校に着くと、教室の黒板に今日の字が書かれていた。

 ■声

 少年の心臓が跳ねた。

 教員は黒板を叩き、いつもよりゆっくりと口を開いた。

「今日は“声”について考える」

 少女が少年のほうをちらりと見た。

 影が声を持った夜の次の朝に、この字が書かれる偶然。

 教員が何を知っているのか分からないが、

 少年は胸の奥で節子の影がひっそりと寛いでいるのを感じた。

「声は、人が生きた証だ」

「声は、死んだ者が残す最後の形だ」

 教員の言葉が、少年の胸の奥をなぞる。

 節子の声は、妹が最後に残した“生きたかった証”だ。

「声は空気を震わせる。

 影の声は、人の胸を震わせる」

 少年は息をのんだ。

 胸の震え、それこそが昨夜の影の声だった。

「今日は、紙に“聞こえたことのある声”をひとつ書け」

 配られた紙に、少年は震える手で書いた。

 ——節子の“生きたかった”

 その文字は、紙の上でゆっくりと滲んだ。

 その滲みは紙のせいではなく、少年の心の問題だった。

 少女は少年に紙を見せた。

 ——影の“ありがとう”

 その一言に、少年の胸が再び熱くなった。

 節子が言いたかった本当の言葉は、もしかしたらそれだったのかもしれない。

 その言葉をどうやって少女が悟ったのか、少年には分からなかった。

 だが、少女は影の世界を理解している。

 影は胸の湿りだけではなく、匂いにも言葉を混ぜるという。

節子の影は、泣きながら微かな香りを残したのかもしれない。

 

  • ■放課後、影の“余韻”が残された

 校庭の影の寝床は、朝よりも静まっていた。

 土の窪みはまだ深かったが、その重みは柔らかくなっていた。

 まるで影が息を整え、今はただ座っているようだった。

「石、節子はね、まだここにいるよ」

「……喋り終えたのに?」

「うん。喋っても、いなくなるわけじゃないから。

 影はね、“言葉で満たされる”の」

「満たされる……?」

「うん。言いたかったことを言って、胸の奥の隙間が埋まるんだよ。

 そうすると影は静かになるの」

 胸の湿りが消えた理由が分かった。

 節子は“満たされた”のだ。

 少年は寝床の円を撫でながら、小さくつぶやいた。

「……節子」

 胸の奥で、影が静かに微笑んだような気がした。

昨日までの湿りも痛みもない。

ただ、温もりのようなものが残っていた。

 

  • ■少年は初めて“影ではない”声を出した

 夕暮れ、釜戸の前で灰をかき混ぜながら、少年はふと気づいた。

 胸の奥に、影の声ではない自分自身の声が湧いてきていた。

 ——節子を忘れたくない。

 ——でも、影だけに寄りかかってはいけない。

 そんな生々しい思いだった。

 影を飼うことは、影に寄りかかることでもある。

 寄りかかれば影は強くなり、胸の奥を占領する。

 その危うさに、少年は初めて気づいた。

 少女はそれを察したように言った。

「影といっしょに生きるってね、影に飲まれるってことじゃないよ」

「じゃあ……?」

「隣に置くこと。

 昔の家族みたいに。でも、前はちゃんと向いて歩くの」

 その言葉が胸に落ちた。

 節子は死んだ。

 影は残った。

 だが、少年自身が前に進もうとしなければ、影は家族ではなく“重り”になる。

 影が喋った夜を境に、少年はようやくそれに気づいた。

 

  • ■影が示した次の“宿”

 夜になると、少女が校庭へ少年を連れ出した。

 影の寝床は変わらずあったが、その横に小さな丸がひとつ増えていた。

「……これは?」

「節子がつくった“新しい宿”だよ」

「新しい……?」

「うん。影が喋ったあと、自分の場所を増やすの。

 昔の家の部屋みたいに」

 影の寝床が、ふたつになっていた。

 兄と、影と――その間に小さな距離が生まれたのかもしれない。

 少年はその新しい丸をそっと触った。

 土は柔らかく、まだ影が形を作ったばかりの温もりが残っていた。

 節子の影は、もう泣いていない。

 そして、兄の胸に寄りかかるだけでなく、

 自分の“部屋”をつくりはじめたのだ。

「影はね、居場所が増えると安定するんだよ」

 少女は言った。

「石が前に進めるように、節子も準備してるんだ」

 影が兄の成長に合わせて場所を増やす。

 その優しさに、少年は胸が熱くなった。

 節子は影になってなお、兄を助けようとしている。

生きていたときと同じように。

 少年は深く息を吸った。

 胸に湿りはもうない。

 代わりに、静かなあたたかさが広がった。

 影とともに生きることは、

 影に縛られることではなく、

 影とともに前へ進むことなのだ。

 新しい影の宿が、夜の土の中で静かに呼吸していた。

第47章 影の歩く音が聞こえた日

 翌朝、少年は胸の奥に“からっぽ”のような軽さを覚えた。

 昨日、節子の影が言葉を残し、泣き止み、落ち着いた。

 その余韻が、胸の奥をすうっと撫でていくようだった。

 湿りも痛みもない。

 重さもない。

 ただ、静かだ。

 静けさは、良いものでもあり、悪いものでもあった。

 影が落ち着いたから静かになったのか。

 それとも、影が一時的に“離れている”から静かになったのか。

 どちらとも取れるような、曖昧な静けさだ。

 節子の影は、昨夜“生きたかった”と喋った。

 その一言は少年の胸の奥にまだ柔らかく残っており、

 それが静けさをより深くしていた。

 外へ出ると、朝の空気が薄く冷えていた。

 校舎の壁に残る黒い焦げ跡、割れた窓枠の木のささくれ、

 雨に濡れた土の匂い——

 すべてが以前より鮮やかに見えるのは、

 胸の湿りが消えて呼吸が深くなったからかもしれない。

 

  • ■影の寝床に変化があった

 校庭に向かうと、影の寝床が二つ並んでいるのが見えた。

 昨夜、節子がつくった“新しい宿”は、

 朝日を受けてなお、柔らかく、丸い形を保っていた。

 少女がその横にしゃがみ込み、土を撫でた。

「節子、昨夜ここで座ってたよ」

「分かるのか?」

「うん。影が座った土は、重みが一日だけ残るからね」

 少女は淡々と言った。

 影の世界では、“座る”という行為が存在する。

 座ることは、落ち着くことでもあり、居場所を定めることでもある。

「節子ね、石がちゃんと聞いてあげたから、

 自分の部屋をつくったんだよ」

「……部屋か」

「影はね、いくつも宿を持てるの。大人みたいに」

 土に残った影の“部屋”を見ながら、少年は胸の奥がひどく静まり返るのを感じた。

 節子は、影になっても兄に寄りかかるだけでなく、

 兄を助けようとしているのだ。

 ——影は死者ではない。

——影は“残った命”なのだ。

 そんな考えが少年の胸に浮かんだとき、

 風のような、しかし風ではない気配が足元をくすぐった。

「……節子?」

 思わずつぶやくと、胸の奥がほんの少しだけ震えた。

 声ではなく、呼吸の残りのような震え。

 それは節子の“挨拶”のように思えた。

 

  • ■黒板の字が“前に進む”ことを示した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■歩

 教員は黒板を叩いた。

「今日は、“歩く”について考える」

 歩く――

 それは影が昨夜、しずかに始めたことでもあった。

「戦後の町は壊れ、人の心も壊れた。

 だが、生き残った者は歩かねばならない」

 教員は続けた。

「影も、歩く。

 影は眠り、座り、息をして、歩き出す」

 少年は胸の奥に小さな震えを感じた。

 節子の影は昨夜、“歩き出した”のだ。

「今日は、紙に“歩く理由”を書け」

 配られた紙を前に、子どもたちは困惑した。

 歩く理由など、日々の生活に飲み込まれ、誰も考えたことがなかった。

 少年は紙にこう書いた。

 ——影が部屋をつくったから

 少女は少年の紙を見て、少し微笑んだ。

 そして少女は自分の紙を見せた。

 ——胸の奥に残った声が押すから

 その言葉に少年の胸がきゅっと収縮した。

 節子の影の声が、少年の背中を押しているのだ。

 

  • ■影の“歩いた音”が聞こえた

 放課後、少女に誘われて校庭の影の寝床に戻ると、

 二つの丸の間に、小さな“筋”ができていた。

「……これ」

「うん。節子の“歩いた跡”だよ」

「跡……なのか?」

「影が歩くとね、土が細く固くなるの」

 少女の指がその筋をなぞる。

 確かに昨夜は存在しなかった筋だ。

 節子の影が、兄に言葉を吐き出したあと、

 寝床と新しい部屋の間を行き来したのだろう。

 その道は、細くて弱々しい。

 しかし、確かに“歩いた証”だった。

「石、これね、影の“生活の道”なんだよ」

「生活……?」

「うん。

 影もね、人間に寄りかかるだけじゃなくて、

 自分で動けるようになると道をつくるの」

 その言葉に少年の胸がひどく温かくなった。

 節子は、影になっても生き直している。

 弟を置いて逝ってしまった罪悪に縛られていたはずなのに、

 今は兄のそばで、再び“生活”を始めている。

 影に生活がある――

 それは思いも寄らない概念だった。

 だが、影が生活を始めるということは、

 兄が前に進まなければならないことでもあった。

 

  • ■釜戸の前で、影の“新しい音”がした

 夕暮れ時、釜戸の前で火の残り香をかき回していると、

 灰の下からふっと小さな音が聞こえた。

 パチ……

 火がついたわけではない。

 影が灰に触れたときに出る音だ。

 少女が背後から言った。

「節子、火のそばに来てるよ」

 火は、影にとって“温もりの記憶”だ。

 妹が生きていた頃、家の釜戸の前で暖を取っていた姿が、

 影の中に静かに残っているのだろう。

 少年は釜戸に近づき、囁くように言った。

「……節子、ここにいるんだな」

 胸の奥がまた、ひとつ震えた。

 昨日のような涙ではなく、

新しい生活の予感のような震えだった。

 

  • ■影が“兄を押す日”が来る

 夜が近づき、少女がふと口を開いた。

「石。

 節子、もうすぐ“押す”よ」

「押す……?」

「うん。影がね、誰かといっしょに生きようとするとね、

 胸の奥からそっと押すの。

 前に進めって合図だよ」

 節子の影が、兄を押す。

 それは、生きているときにはできなかった姉妹の役割かもしれなかった。

「節子は石を生かしたいんだよ」

 少女は断言した。

「影はね、自分が言えなかった気持ちを、

 生き残った人に“押す”ことで渡すんだよ」

 その言葉が胸の奥に深く落ちたとき、

少年ははじめて自分の足元を見ることができた。

 ——影の生活は影のもの。

——生き残った自分の生活は、自分のもの。

 節子の影は、一緒に生きるが、

 しがみつくためではなく、押すためにそばにいる。

 その意味をようやく理解したとき、

 影の寝床と新しい宿の間をつなぐ細い“道”が、

 夕暮れの光の中で小さく輝いた。

 影の歩いた道が、兄の未来を示す地図のように見えた。

 

  • ■そして、影が示す“次の夜へ”

 夜が深まりはじめ、土の冷気がゆっくりと地面から立ち上る。

 影たちは夜の空気を吸い込み、動きはじめる。

 節子の影が、今日つくった筋をまた歩くのか、

 あるいは別の道をつくりはじめるのか——

 少年はそれを見届けようと静かに座った。

 少女が少年に寄り添って、ぽつりと言った。

「石、節子、今日も歩くよ」

「分かるのか?」

「うん。“押す前の影”は、歩くの」

 胸の奥が静かに震えた。

 節子は、兄に言葉を渡したあとも、

 まだ歩こうとしている。

 そして、兄を押そうとしている。

 影の夜のはじまりに、少年は深く息を吸った。

 胸の奥は湿っても痛んでもいない。

 その代わり、淡い温もりが静かに広がっていた。

 

——影は歩き、兄を押し、

 そして、兄は前へ進む時を迎える。

 その気配が、確かに夜の空気の中にあった。

(第四十八章につづく)

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