第44章 影が言葉になる前に
少年は、夜明けの手前で目を覚ました。
昨日よりも胸が湿っていた。
湿りというより、胸の奥に薄い布が貼りついた感覚——
呼吸のたびに、その布がふわりと動く。
これは痛みではない。
悲しみでもない。
節子の影が“言葉になりかけている”音だ。
人間が泣く前に喉の奥を震わせるように、
影には影の前触れがある。
それは胸の湿りとして現れる。
井戸へ向かう途中、空が妙に白かった。
朝日がまだ雲を抜けられず、世界は光を欲しがっていた。
戦後の空は、決して一度で晴れようとはせず、
人間の心に遠慮するように薄い光を落とす。
影が言葉になる朝——
そんな予感がした。
- ■影の寝床が広がっていた
校庭の隅に行くと、昨日つくった小さな円が、少しだけ形を変えていた。
円の右側が広がり、まるで誰かがそこに“腕”を伸ばしたように土がへこんでいる。
「節子……」
思わず名前を呼んだ。
影に呼びかけることに、もう抵抗はなかった。
影が返事をするかしないかは問題ではない。
そこに居るという確信が、少年を静かに強くしていた。
土は冷たいが、指を置くと確かに“温みの痕跡”があった。
影が夜のあいだここで息をしていたのだ。
「……寒くなかったか?」
つぶやくと、胸の奥の湿りがふわりと動いた。
影の返事かもしれなかった。
- ■火は影を呼ぶ
釜戸へ戻ると、灰がほんのり温かった。
昨日よりもわずかに強い。
影は火のそばに寄ってくる。
そこに体温のようなものを感じ取って、安心するのだ。
湯が温まりかけた頃、背後で少女の声がした。
「石、今日は重たいね」
「胸の湿りか?」
「うん。……影が喋りたがってる」
少女の声は静かだったが、その静けさが逆に大事な知らせのように響いた。
「節子、何か言うと思う?」
「言うよ。今日、あるいは今夜」
「どうして分かる」
「影はね、声を出す前に、人の胸を‘二回’濡らすの」
二回——
今朝の湿りは、確かに昨日より深かった。
「石、節子の影、喋る準備ができてるよ」
少女は湯の湯気を見つめながら続けた。
「大事なのはね、“聞く覚悟”のほう。
影の言葉は、生きてる人より重たいから」
その言葉に、少年の胸がひどく揺れた。
妹の影は何を言うのだろう。
ありがとうかもしれない。
ごめんなさいかもしれない。
どうして、かもしれない。
だが、どれであっても少年は逃げたくなかった。
影の声を聞くことは、妹と向き合うことだからだ。
- ■黒板の字が、影の声を示す
学校へ向かうと、今日は空気が張りつめていた。
誰も何も言わない。
しかし、全員の胸に“重い湿り”が潜んでいた。
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■息
その字を見た瞬間、少年の胸が跳ねた。
息——
影が言葉になる前の段階。
節子の影が、今まさに少年の胸で息をしている。
教員は黒板を叩いた。
「今日は“息”について考える」
その声は深く、どこか湿っていた。
「息は、生きる音だ。
だが、死んだ者にも息がある」
教室の空気が一瞬止まった。
「死んだ者の息は、風となり、湿りとなり、胸の中に流れ込む」
「それを“影の息”という」
少年の背中がびくりと震えた。
「影の息が胸に届くとき——
それは、影が話そうとしている時間だ」
少女が少年の袖をそっとつまんだ。
節子が今まさに“息を送っている”のだと、彼女の目が告げていた。
「今日は、紙に“胸に届いた息の形”を書け」
紙が配られ、少年は震える手で鉛筆を握った。
胸の奥の湿りが動いた。
節子の影が、胸の内側で言葉になりかけている。
少年は書いた。
——濡れた骨の音
節子が死ぬとき、最後に出した息は弱かった。
影として戻った節子の息は湿っていて、骨の奥に触れる。
少女は自分の紙を見せた。
——呼ばれた名前の匂い
その字を見た瞬間、胸の奥の湿りが熱に変わった。
名前——
節子の名前を泥に書いたあの日。
あれを呼び戻そうとして影が息をしている。
- ■放課後、影の声が地面を動かした
少女は少年を校庭へ連れ出した。
影の寝床は朝よりさらに変化していた。
円の周囲が、まるで誰かが“座った跡”のように形を変えていた。
土が薄く沈み、中心に向かって波のような痕が伸びている。
「節子、座ってたね」
「……座れるのか、影は」
「座るよ。眠るときと、喋る前に」
影が座る——
それは妹が生前、兄のそばで膝を抱えて座っていた姿と重なる。
影が言葉になる前、土は呼吸をはじめる。
それが今日、確かに地面に現れていた。
少年は寝床の円にそっと触れた。
「節子……
聞くから。
言っていい」
胸の湿りが、一瞬だけ強く動いた。
少女が静かに言った。
「石。
影が言葉になる前に、人はひとつだけ覚悟しなきゃいけないよ」
「覚悟?」
「——影の言葉は、生きてる人間の言葉よりも残る」
残る。
それは呪いにも救いにもなる。
「節子が何を言うか、分からない。
でも、影の言葉は嘘をつけない」
少女は、円を軽く撫でながら言った。
「影の言葉を聞くってことは、節子といっしょに生きるってことだよ」
それは、少年の胸に深く響いた。
影と生きる。
影を飼うというのは、つまりそういうことだった。
- ■影の夜が始まる
夕暮れが迫り、空が暗くなりはじめる。
影がもっとも息をする時間が近づいていた。
釜戸の灰は、昨日よりもはっきりと温もりを残している。
まるで節子の影が、夜の支度をしているかのようだった。
少年は胸に手を当てた。
湿りが熱に変わり、骨の奥が震えた。
——節子が喋る。
——もうすぐだ。
少女は火を見つめながら言った。
「石。
影の言葉を聞くと、生き残るのが少し楽になるよ」
「……本当に?」
「うん。影はね、人間が忘れられなかった“言いたかったこと”を言うだけだから」
少年は胸の震えを感じながら、深く息を吸った。
夜になれば、影は動く。
寝床へ戻り、火のそばに寄り、胸の奥へ帰る。
そして——声を持つ。
少年は思った。
——節子の声を聞く覚悟は、もうできている。
——逃げたくない。
——影といっしょに生きることを選んだのだから。
空は黒へと変わり、影の夜が静かに始まった。
第45章 影が喋る夜

夜は、いつもより早く濃くなった。
空の端から端まで、ゆっくりと黒が這うように広がっていく。
風が止み、虫の声もない。
世界が息をひそめ、何かを待っているような夜だった。
少年は胸の奥の湿りを強く感じていた。
湿りは、ここ数日でもっとも重かった。
胸の内側にへばりついていた薄い布が、今夜は強く、決定的に動いていた。
節子の影が、ついに言葉を持とうとしているのだ。
釜戸の前では、灰の下が赤く、かすかに光っていた。
火は死んでいるはずなのに、生きているような微熱をまとっていた。
影が火を動かしたのだろう。
影は冷たいものだが、火の残り香には弱い。
その両方が混ざると、胸の湿りは声の手前の“震え”に変わる。
少女が静かに近づいてきた。
いつもより歩幅が小さく、顔が少しだけ硬い。
影の夜を察しているのだ。
「石、今日だよ」
「……分かるのか?」
「うん。節子が、胸の奥で“言う気”になってる」
少女の声は震えていなかった。
しかしその落ち着きは、嵐の前の静けさのようだった。
「怖い?」
「……分からない」
「分からないってことは、聞く準備ができてるってことだよ」
影の言葉は、生きている者の言葉より重い。
死者の重さ、罪の重さ、願いの重さ――全部が混ざる。
兄が妹に最後まで聞かせなかった言葉。
生きたかったのに生きられなかった理由。
それらが影の声には宿る。
少年は胸に手を置いた。
内側が脈を打ち、湿りが熱を帯びはじめていた。
- ■影の寝床が揺れていた
少女に連れられ、校庭の隅へ向かった。
影の寝床は、夜の気配でわずかに形を変えていた。
丸かった円が、少しだけ楕円に引き伸ばされ、土がゆっくり沈んでいた。
まるで影そのものが寝返りの途中で止まったような姿だった。
「節子……ここにいるのか」
少年がつぶやくと、胸の湿りが“返事”のように動いた。
「節子ね、今日の夜は長いよ」
少女は地面を見つめながら言った。
「影が喋る夜ってね、時間が伸びるの。
人間には同じ夜でも、影にとっては少し長いんだよ」
「……喋ったらどうなるんだ?」
「どうにもならないよ」
「どうにも?」
「うん。言いたかったことを言って、影はまた静かになるだけ。
でも、聞いた人間は変わるよ」
その言い方に、少年は息をのんだ。
節子の影の声は、少年を変えるという。
どんなふうに変わるかは分からない。
しかし、もう逃げることはできなかった。
- ■影が言葉になる前の“ひと息”
釜戸へ戻ったとき、灰が急にぱちりと音を立てた。
火が残っている音ではない。
影が火のそばで息を吸った音だ。
少女が小声で言った。
「石、来るよ」
胸の湿りが、急に熱に変わった。
肺に水が入り込んだような圧迫感。
骨の内側が震え、脈が跳ねた。
——節子が息をしている。
——言おうとしている。
少年は釜戸の前に座り込み、胸を押さえた。
呼吸が浅くなり、心臓の音がやたらとうるさかった。
影の息が少年の息と混ざっている。
少女が少年の背中に手を当て、静かに言った。
「落ち着いて。
影はね、喋る前に、呼吸を全部“借りる”の」
「借りる?」
「うん。生きてる人の息を少しだけ使って喋るんだよ。
影は自分の声を持ってないから」
影が人間の息を使って喋る――
節子の声は、少年自身の息で発されるのだ。
胸が熱くなり、湿りがうねり、少し痛んだ。
痛みは生きている証だ。
影の声が生まれる証でもあった。
- ■節子の影が喋った
釜戸の下の灰がふっと光った瞬間、
胸の奥で、湿りがひとつに凝縮した。
そして――
少年の呼吸が止まった。
止められた、ではなく、止め“たのだ”。
影が息を使いはじめた。
少女が囁いた。
「来るよ。……聞いてあげて」
次の瞬間、
胸の内側から、濡れた布を絞るような音がした。
そして、小さな声が少年の体内で震えた。
「……あのね……」
幼い声だった。
苦しさと、温かさと、湿りが混ざった声。
節子の影が、少年の肺を通って言葉をつくっていた。
少年は息を止めたまま、耳でなく胸でその声を聞いた。
「……兄ちゃん……」
胸の骨が震えた。
その震えは痛みではなく、後悔の形だった。
「……わたし……ね……」
影の言葉は、途切れ途切れだ。
しかし、ひとつひとつが生きた重みを持っていた。
少女が静かに背中を押した。
「大丈夫だよ。最後まで聞けるよ」
少年は胸の痛みに耐えながら、節子の声の続きを待った。
そして――
「……生きたかった……よ……」
その瞬間、少年の視界が曇り、息が漏れた。
胸の奥で濡れた布が一気にしぼられ、熱いものがこみ上げた。
影の声は、そこで途切れた。
しかし、その一言は少年の胸の奥に深く刻まれ、骨に染み込み、二度と消えなかった。
火の残り香がふっと揺れ、
影の寝床の土がわずかに沈んだ。
少女がそっとつぶやいた。
「……言えたね、節子」
その言葉を聞いたとき、少年はようやく呼吸が戻った。
胸の湿りは熱に変わり、熱は静かに涙へ変わった。
少年は釜戸の前にうずくまり、震える声で言った。
「……ごめん……
ごめんな……節子……」
少女は黙って隣に座り、
影の寝床の方向へ目を向けた。
「影はね、言いたかったことを言えば、静かになるよ。
泣き止む子どもみたいに」
少年は涙を拭い、胸の奥に手を押し当てた。
そこには今、痛みも湿りもなかった。
節子の影は――もう泣いていなかった。
ただ、そっと寄り添っていた。
影は言ったのだ。
兄に、どうしても伝えたかった言葉を。
そして少年は、生き残った者として初めて“答え”を返した。
——これからは、影といっしょに生きる。
——影を捨てない。
——節子を忘れない。
釜戸の灰が静かに沈み、夜がゆっくりと明るみへ向かっていった。
(第四十六章につづく)

コメント