第40章 影の食卓
翌朝、少年は胸の奥の骨の痛みで目を覚ました。
痛みは鋭くはなかったが、鈍く、重く、沈んだ。
まるで、自分の肋骨のひとつが、夜のあいだに勝手に成長しすぎた子どものように騒ぎ始めたのだ。
痛みがあるということは、影がまだそこに居座っているということだった。
釜戸の前に座ると、灰が昨日よりも白く、軽く見えた。
火はとうに消えていたが、火が“死んだ”わけではなかった。
火は、消えたあとも灰の奥底で息をしている。
人間の影と同じだ。
見えなくなった瞬間に、かえって存在を強く主張する。
井戸のそばに立つと、昨日書いた“節子”の泥の文字が、雨で半分だけ残っていた。
半分が在り、半分がない。
それが、影の正しい姿なのかもしれなかった。
水を汲んでいると、背後から少女の声がした。
「今日は、顔がまっ暗だよ」
「……いつも暗い」
「今日は、暗さに“誰かがくっついてる顔”」
少女は少年の横にしゃがみ込み、井戸の底を覗きこんだ。
「ねえ石。節子、まだいる」
「名前を呼んだからな」
「呼んだら帰ってこなくなるよ。影は。声で呼べば、ずっとそこにいるんだ」
「飼えばいいんだろ」
「そう。だけど……影は、エサがいるよ」
地下水の匂いと、少女の声が混ざった。
影にエサをやる?
ふざけた言い方に見えて、妙に真理を突いている。
影は、黙っていれば消える。
だが、忘れないように誰かが意識すれば、育つ。
影のエサとは何か——
記憶か、罪悪感か、愛情か。
たぶん、その全部だ。
二人は学校へ向かった。
道は乾いてきたが、泥の表面にはまだ薄い亀裂が走っている。
昨日、泥に書いた“節子”の字は跡形もなく消えていた。
だが、それでよかった。
本当に大事なものは、泥より深い場所に沈む。
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■食
子どもたちは一斉に息を呑んだ。
食——それは生存と死の境目にある字だった。
食えれば生きる。
食えなければ影になる。
戦後の子どもたちは、皆これを身体で理解していた。
教員は黒板を叩いた。
「今日は“食”について考える」
その声はいつもより乾いていた。
「食べるということと、生きるということは、似ているようで違う」
子どもたちは黙る。
食べることすら満足にできない時代だったからこそ、その言葉は重かった。
「食べ物には“影”がある」
教員は続けた。
「焼け死んだ家から出てくる焦げた米。
拾ってきた魚の骨。
配給でもらった粉ミルクの袋。
それらには、どれも影がある」
少年の胸が痛んだ。
節子が死ぬ前に口に運んだものの影。
生きられなかった食卓の影。
妹の影が背中を撫でてくるような気がした。
「今日は、食卓に残った“影”を書く」
「食べ物そのものではない。
食べたあとに残るものを書け」
紙が配られた。
湿り、波打つ紙。
鉛筆を乗せると沈む。
まるで、まだそこに妹が乗っているようだった。
少年は書いた。
——空になった茶碗の底
節子の茶碗の底は、いつも薄かった。
食べられなかったぶん、底ばかりが見えていた。
その底は今も心に貼りつき、消えない。
それが影の正体だ。
少女は、自分の紙を少年に見せた。
——噛み切れなかった魚の骨
「妹、魚の骨、飲み込めなかった?」
少女は何気なく聞いたが、その問いは少年の胸の骨に突き刺さった。
「……分からない」
「分からなくてもいいよ。影なんて、全部“分からない”からできるんだ」
教員が子どもたちの紙を一枚ずつ見て回る。
「焦げた匂い」
「底だけの弁当箱」
「スプーンの跡」
どれも死と生のぎりぎりを示していた。
少年の紙の前に来ると、教員は言った。
「底を書く者は、死に近い者だ」
「だが——底を見つめる者は、生きる覚悟がある者だ」
その言葉は、少年の胸の骨を少しだけ軽くした。
節子の影は胸の中で揺れたが、泣きはしなかった。
放課後、教員は子どもたちを校庭へ連れ出した。
「今日は、食卓を作る」
「食べ物がなくても、机を並べれば食卓になる」
机を泥の上に並べる。
雨で濡れているが、それでも形になる。
生きている人間には“食卓をつくる権利”がある。
少年と少女は並んで机を運び、座った。
机の上には何もない。
あるのは、二人の影と、空の匂いだけ。
「ねえ石」
「なんだ」
「妹、今どこにいると思う?」
「……胸の中にいる」
「違うよ。もっと外にいる」
「外?」
「ほら、机の影のところ」
少女が指さすと、机の上にたしかに“丸い影”が揺れていた。
節子の頭の形に似ていた。
いや、似ているのではなく、少年がそう見ているのだ。
「影は、食卓に戻りたがるんだよ」
「死んだのに?」
「死んだからだよ。生きてる人の食卓に帰りたいの」
影の食卓——
それが、兄が節子にしてやれなかった最後の儀式だった。
野坂昭如が一生後悔した、“一緒に食べる”という行為。
それを今、少年は影と一緒にやろうとしている。
胸の中で、骨が泣くように痛んだ。
しかし、逃げはしなかった。
「ねえ節子」
少年は小さくつぶやいた。
少女は聞こえないふりをした。
「今日は一緒に食べよう。……何もないけど」
風が吹き、机の影が揺れた。
影が答えたように見えた。
少年は思った。
——影が食卓に座れば、少しは救われる。
——骨が名を呼べば、少しは軽くなる。
——影と食うということは、生き残った者の義務だ。
食卓の上に何もなくても、
影はそこに座っていた。
そして、少年はようやく理解した。
——妹の影は、自分の生への執着なのだ。
——影と食う日は、生きる覚悟の始まりなのだ。
空は薄く晴れていた。
地面の泥はまだ乾かない。
だが、機能しない食卓の上に、確かに“生きた影”があった。
第41章 影の寝床

夜が明ける前、少年はふっと胸の痛みで目を覚ました。
痛みというより、胸の内側を誰かが指で軽く引っかいているような感覚だった。
それが節子の影の“息”なのか、自分の想像がつくり出した幻なのかは判然としない。
ただ、いた。
確かに、そこにいた。
朝の空は曖昧だった。
戦後の空は、晴れていても晴れられない。
曇っていても雨になりきれない。
人の気分を真似て日和見をしているようで腹立たしい。
井戸の水を汲むと、底に光が反射して揺れた。
それが一瞬、妹の顔の輪郭に似た。
雨の日の節子の顔。
兄を見上げて、言えなかった言葉を飲み込んだ、あの顔。
——呼んだのは自分だ。
——呼ばれた影は、黙ってついてくる。
少年は目をそらし、水を汚れた桶に移した。
釜戸の前に行くと、灰が昨日より深く積もっていた。
火は完全に死んでいるのに、どこかぬくもりを残している。
死んだはずなのに、残る温もり。
その感じが、節子の影とよく似ていた。
少女が現れた。
息を白くしながら、いつもより少しだけ静かな顔で。
「石、今日は影が強いね」
「見えるのか?」
「見えるってほどじゃないよ。感じるだけ」
「どこに?」
「胸のあたり。……石のじゃなくて、節子の」
少女は火の前に座った。
その仕草が妙にやさしく、妹の影を撫でているように見えた。
「影ってね、夜、寝る場所がいるんだよ」
「寝る……場所?」
「うん。子どもと同じだよ。ほっとくと泣くし、寒がるし、消える」
少年は息を呑んだ。
妹の影が夜に泣いていたのだろうか。
思い返せば、昨日の夜はやけに胸がざわついた。
寝返りを打つたび、内側でなにかがきしんだ。
それが影なら——影の寝床を作らねばならない。
「どうすればいい?」
「簡単。
——影に、場所を作ってやればいい」
少女は、釜戸のそばのへこんだ地面を指さした。
「ここ、ちょうど影が入りたがってる感じ」
「……影が?」
「そう。“節子”がね」
影を寝かせる場所。
そんなこと、考えたこともなかった。
死んだ人間の影を泊まらせる?
それは狂気のようでいて、どこか救いでもあった。
二人は学校へ向かった。
地面が乾きつつあるが、まだところどころ泥が残っている。
昨日の影の食卓は消えていた。
しかし、“消えたこと”がむしろ現実を濃くした。
——影は形ではない。
——影は気配だ。
——生き残った者がつくる亡霊だ。
校舎に着くと、教室は薄暗かった。
黒板には一字が書かれていた。
■夜
子どもたちは顔を曇らせた。
夜は、戦後のほうが戦中より怖い。
火の手が上がることもなければ空襲もない。
だが、静かすぎる夜は、生き残った者の罪悪感を膨らませる。
教員は黒板を叩いた。
「今日は“夜”について考える」
「夜は、影が増える時間だ」
少年の胸がざわりとした。
節子の影は、夜ごと大きくなるのだろうか。
少女の言う“寝床”が必要なのだろうか。
「夜は、死者が帰ってくる時間だ」
教員は続けた。
「帰ってきた影とどう付き合うかで、人間の器が試される」
少女がさりげなく少年の袖をつまんだ。
大丈夫、と言った。
「今日は紙に“夜の中で聞こえる声”を書け」
「聞こえたことがなくてもいい。
聞こえたような気がした声を——書け」
紙が配られ、少年は震える手で鉛筆を握った。
昨夜の胸の痛みが、そのまま声のように紙へ落ちそうだった。
少年は書いた。
——ごめんなさいの声
それは節子が死ぬ前に言いかけて、言えなかった声だ。
それを“兄”が勝手に作り上げたと理解していても、書かずにはいられなかった。
少女は、自分の紙を少年に見せた。
——忘れないで、の声
少女の字は細く震えていた。
少女もまた、誰かを抱えているのかもしれない。
死んだ誰かの影。
あるいは——死ぬはずだった自分自身か。
教員が紙を回収し、静かに言った。
「夜に聞こえる声は、死者の声ではない」
「生きている者の罪の声だ」
「罪を聞き取れぬ者は、影に押し潰される」
少年は、胸の内側の骨がきしむのを感じた。
節子の影は罪の形をしている。
それを否定しても始まらない。
認めて初めて、影は“飼える”のだ。
放課後、少女は校庭の片隅へ少年を連れていった。
昨日、机を並べたあたり。
泥が乾いて、影が落ちやすくなっている。
「ここに、節子の寝床を作ろう」
「どうやって?」
「簡単だよ。影の場所を、ただ——決めればいい」
少女は指で地面に、小さな円を描いた。
丸い影が落ちる場所。
節子の頭がちょうど入りそうな大きさ。
「ここで寝かせて」
少女は優しく言った。
「夜に苦しんだら、ここに戻ってくるように教えてあげて」
少年はしゃがみ込み、“円”をそっと撫でた。
地面はまだ冷たく、節子の影がひんやりと息をしているようだった。
「ねえ石」
「なんだ」
「影ってね、生きてる人よりよっぽど正直だよ」
「……どうして」
「だって、生きてる人は嘘をつけるけど、影は嘘をつけない」
少女の言葉が胸に落ちた。
節子の影は、嘘がつけない。
呼ばれれば来るし、放置すれば泣く。
そういう影だ。
少年は円の中に小さくつぶやいた。
「節子、ここで寝ていい……」
「……おやすみ」
風が吹き、円の中の土がひとりでに沈んだ。
まるで影が、そこに身体を丸めたようだった。
少年の胸の痛みが、少し和らいだ。
影が寝床を得たのだ。
そして、少年自身もまた、影に寝床を与えたことで初めて、自分の胸が楽になった気がした。
少女は言った。
「影と寝るより、影を寝かせるほうが、大人なんだよ」
少年は思った。
——影は死なない。
——影には寝床がいる。
——影を飼うとは、生きる場所を分け与えることだ。
空は薄い夕焼けだった。
地面にはまだ湿りが残っていた。
だが、影の寝床は確かにそこにあった。
(第四十二章につづく)

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