佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第三十四章・第三十五章

目次

第34章 紙飛行機と、空の底に落ちない言葉

 その日の朝、風はいつもより強かった。

 瓦礫の角を越えて、焼け跡の屋根を越えて、井戸の水面を波立たせ、灰を巻き上げ、少年の頬に触れた。

 風の中に、声が混ざっているような気がした。

 昨日書いた“声の跡”が、本当に空に乗り始めたような気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも「気のせい」が戦後の生きる力になる時もある。

 少年は井戸から水を汲みながら、空を見た。

 鳴き声ひとつしない空に、妙な青さが広がっていた。

 それは、死者のいない青ではない。

 死者が積み重なった上にようやく見える青だった。

 釜戸に火を移し、湯を温める。

 火はまだ生きている。

 灰の中に残っている火は、誰かの記憶と似ている。

 消えたと思っても、呼吸を吹きかければまた灯る。

 少女が来た。

 風に髪を遊ばせながら。

「今日の風、ちょっと違うね」

「声が混ざってる」

「ほんとう?」

「ああ、多分」

 少女は湯飲みを受け取り、ふっと息を吹いた。

 湯の表面に小さな波紋が広がる。

 それが、誰かのささやきのように見えた。

「今日も学校、行く?」

「行く。……たぶん」

「たぶんって便利な言葉だね」

「全部は信じないって意味だ」

「全部信じたら、壊れちゃうもんね」

 二人は学校へ向かった。

 教室に入ると、黒板には一文字が大きく書かれていた。

 ■空

 教員が言った。

「今日は“空”について考える」

 そこに説明はなかった。

 説明しないことで、逆に言葉は重くなる。

「戦争中、空は“落ちてくるもの”だった」

 爆弾が落ちた。

 火が落ちた。

 焼夷弾が落ちた。

 空は地上を殺す場所だった。

「今の空はどうだ?」

 誰も答えない。

 空に期待する贅沢など、まだ誰にも備わっていない。

 教員は続けた。

「空は、“届かない言葉”の行き先だ」

「地面に残りきれなかった声や、聞かれなかった名前が行く場所だ」

 少年の胸が、少しだけ疼いた。

 “本当の自分の名前”も、きっと空へ流れていったままだ。

「今日は紙を折る」

 教員は言った。

「書くのではなく、“飛ばす”」

 机の上に紙束が置かれる。

 配給の帳簿の裏紙、電報の残骸、薬の包装紙——

 どれも均等ではない紙だ。

 だが、折れる。

「紙飛行機を作れ」

「そこに“声の跡”を書け」

 声を書き、それを飛ばす。

 届くかどうかは知らない。

 届かなくてもいいのかもしれない。

 空に向けて放つことで、言葉は「まだ死なない」。

 少年は紙を半分に折り、もう一度折り、形を作る。

 鉛筆で、昨日の文字を書き写した。

 ——呼ばれなかった名前

 少女は、自分の紙飛行機にこう書いていた。

 ——笑う前の息

 どちらも声になる手前の言葉だった。

 いや、もう声の形をしているのかもしれない。

「できた?」

「できた」

「飛ばす?」

「どこへ?」

「分からないところへ」

 教員は子どもたちを校庭に連れ出した。

 風が強くなっていた。

 空に色はなく、ただ高いだけだった。

「声は、地面に落ちる必要はない」

 教員が言う。

「空に落ちてもいい」

「届かなくてもいい」

「——届きたいままで、風に乗れ」

 一斉に紙飛行機が投げられた。

 白い紙が、骨のように空へ飛ぶ。

 声の跡が、風を切る。

 落ちるものもあれば、高く伸びるものもある。

 空の途中でくるくる回るものもある。

 少年の紙飛行機は、最初まっすぐ飛び、風に拾われて右へそれた。

 少女の紙飛行機は高く舞い、太陽の下で小さく光り、そのまま空の奥へ消えた。

「飛んだね」

「……ああ」

「名前、空に行った」

「おまえの声もな」

 少女は笑った。

 “まだ笑う前の息”じゃなく、本当に笑った。

「じゃあ、石」

「なんだ」

「名前、見つけなくても、生きられるんじゃない?」

 少年は、少し考えた。

「……名前がなくても、“呼ばれた”ことがあれば、生きられる」

「呼ばれた?」

「ああ。今、呼ばれた」

「それ、わたしのせいだね」

 風が吹いた。

 校庭の砂が舞う。

 紙飛行機がひとつ、遅れて空へ登る。

「来週、先生、また変な授業するかな」

「きっとする」

「また紙に書く?」

「書くだろうな」

「灰になっても?」

「灰になっても」

 二人は、帰り道を歩いた。

 “未来”と書いた紙をまだ持っている。

 燃やさず、埋めず、生かしたまま。

「ねえ石」

「なんだ」

「紙じゃなくてさ、いつか声で言える日が来るかな」

「何を?」

「未来とか、生きてるとか……笑うとか」

「来るかもしれない」

「どうして?」

「声は、火より長生きだから」

 夕陽が釜戸の灰を照らす。

 火がまだ残っている。

 紙の灰と声の跡が、風の中で混ざる。

 少年は思った。

——声は風になり

——風は火を揺らし

——火はまた言葉を残し

——言葉は空へ飛んでいく

 地面から空までは遠い。

 だが「届かないまま届こうとする」言葉は、

 死んだものにはならない。

 まだ終わらない。

 まだ消えない。

 まだ飛ぶ。

 紙飛行機は、見えないまま飛び続けていた。

第35章 雨の手前で、まだ濡れない言葉

 風の季節が終わりかけ、空は鈍い色を帯び始めていた。

 雲が増え、遠くの地平がぼやける。

 雨が来る。

 それは誰にでも分かることだった。

 だが、雨がどこから始まり、どこで止むのかは誰にも分からない。

 少年は釜戸の火を起こしながら、いつもより慎重に灰を払った。

 火と雨は仲が悪い。

 雨ひとつで人の生活が崩れる時代だった。

 天気予報などという贅沢はない。

 空を見て、風の匂いを嗅いで、勘で備えるしかなかった。

 井戸から汲んだ水は、いつもより冷たかった。

 季節が動くと、水の味も変わる。

 火を入れても、その冷たさは完全には消えない。

 それでも湯は湯になり、飲めば喉を潤す。

 生きるということは、火と水のあいだで身体を繋ぎ続けることだった。

 少女が、布で髪を覆って現れた。

「雨、来るよ」

「分かってる」

「火、消える?」

「まだ消さない」

 少女は湯飲みを受け取りながら、空を見た。

 雨雲はまだ遠かった。

 でも、“遠い”という言葉は信用できない。

 戦争のとき、空襲警報はいつも“遠い空襲”から始まった。

 気づけば頭上に落ちていた。

「今日の学校、あるかな」

「あるかどうかを考えるのが、もう習慣になってきた」

「授業も、生き延び方も、どっちも中断ばかりだね」

「終わらないだけ、ましかもしれない」

 二人は、湯で身体をあたためてから学校に向かった。

 校庭には、紙飛行機の残骸が散っていた。

 濡れた地面に張り付いたもの、風に運ばれて隅に溜まったもの。

 文字がかすれ、漢字の骨組みだけが残っている。

「声の跡、消えてる」

「いや、まだ残ってる」

「どこに?」

「言えなかった声は、雨が降る前に降ってる」

 少女は少し考え、うなずいた。

「雨って、声の掃除なのかな」

「そうかもしれない」

「だったら、濡れたい?」

「……まだ濡れたくない」

 教室に入ると、黒板には大きく一字があった。

 ■雨

 教員は、すでにそこへ立っていた。

 その服にも灰がついている。

 灰はすぐ落ちず、戦後の空気に溶けてしまう。

「雨について考える」

 教員はそう言った。説明はなかった。

 説明しない、というのがむしろ説明だった。

「雨は、火を消す。

 雨は、文字を流す。

 雨は、墓を崩す。

 雨は、匂いを変える」

 教員は、しばらく黙った。

 その沈黙に、戦中の空白が混ざる。

 人が死んだ音を忘れるように、人は雨音の中に身を沈める。

「だが——」

 教員はチョークを握りなおした。

「雨だけが、生き残った声を“土へ返せる”」

 少年は、胸の奥で何かが鳴るのを感じた。

 雨に消される声と、雨で土に戻る声。

 その違いは、どこにあるのか。

「今日は、“雨の前にある言葉”を書く」

「まだ濡れていない言葉を書け」

 紙が配られる。

 昨日よりしっとりしている。

 空気中の湿りがすでに紙に染みていた。

 少年は何を書けばいいか分からなかった。

 雨の前の言葉とは何か。

 それは、声になる手前の息とも違う。

 火に触れていない灰のようなものかもしれない。

 少女が、静かに紙へ鉛筆を走らせた。

 早い。

 悩むより先に書けるのが、少女の強さだった。

「書けた?」

「まだ」

「まだって便利な言葉だね」

「ああ。何でも先延ばしにできる」

「だけど、生きることを先延ばしにはできないよ」

 少年は、鉛筆を握りなおした。

 雨が降る前。

 一滴目が落ちる前。

 声が土に沈む前。

 紙に短く書いた。

 ——濡れる前の火

 少女が書いた文字を見せてくれた。

 ——消えない灰

 二人とも、雨に負けないものを書いていた。

 子どものくせに、まだ壊れたくないと思っていた。

 教員は、一枚一枚を見て回った。

 涙の代わりに湿気が紙を潤している。

 声の代わりに鉛筆の線が小刻みに震えている。

「雨はまだ降っていない」

 そう言いながら、教員は外を見た。

「雨は、言葉を消すために降るのではない」

「言葉を土へ戻すために降る」

 少年は考えた。

 火は空へ、声は風へ、言葉は土へ。

 すべて帰る場所があれば、死はただの移動なのかもしれない。

 授業が終わるころ、雷が遠く鳴った。

 雨の前の音。

 空がひび割れて、何かがこぼれようとしている。

 帰り道、少女が言った。

「ねえ、土に戻るって、死ぬってこと?」

「分からない」

「じゃあ、生きてるってどういうこと?」

「まだ土に戻らないってことじゃないか」

「じゃあ、まだ生きてるんだね」

「まだな」

 釜戸の前に戻る。

 火は弱く、小さくなっていた。

 その上に紙をかざすと、湿った風が吹いた。

 紙は燃えず、ただ揺れた。

「火も雨を待ってる気がする」

「火は土に戻れないからな」

「灰になっても?」

「灰になっても」

 少女は空を見た。

 大粒の雨が、まだ落ちてこない。

 空は濃い灰色をしている。

「雨が降るまで、どれくらいある?」

「分からない」

「分からないほうが、生きてる感じするね」

 少年は少し笑った。

 だが、笑ったことを自覚する前に、少女が言った。

「今、笑った」

「……そうか」

「じゃあ、生きてるよ」

 風が止み、空が重くのしかかる。

 雨はまだ降らない。

 けれど、降ることを知っている空気が、喉の奥にまで満ちていた。

 少年は、紙を胸にしまった。

 濡れる前に守るように。

 それが、生き延びるという反射だった。

 そして思った。

 ——雨が降っても、灰は消えない。

 ——雨が降っても、火の跡は残る。

 ——雨が降っても、まだ言葉は死なない。

 土に戻る前に、まだ書ける。

 まだ言える。

 まだ聞ける。

 雨は来る。

 だが、まだ降っていない。

 その“まだ”の時間に、

 子どもたちは静かに呼吸を続けていた。

(第三十六章につづく)

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