第28章 文字と骨と、風の蛇行
戦後の町には、音が変な形で戻ってくる。静けさの中から突然割れるように聞こえる子どもの笑い声や、誰かが物を落とした音、破れた戸が風に叩かれる音。それらは、戦前には何でもない日常だった。しかし今では、町全体がそれを「生きている証拠」のように受け止めている。音があるということは、まだ生きているということだった。音があるから生臭く、そして哀しい。
少年は、朝の光をうすく受けながら井戸へ向かった。昨日よりも、井戸の水は濁っているように見えた。原因を考えても仕方がない。水というものは人間と違って理由を説明しない。ただ濁るだけだ。そこに何かが沈み、腐り、混ざり、変質して水は濁る。そういうものだ。
桶を沈め、引く。底から白い蠢きが見えた気がしたが、それももう気にしない。生き残るためには、目に映る不都合をしばしば「なかったことにする技術」が要る。気づいてしまうと、喉が渇いていても飲めなくなる。飲まないと死ぬ。だから、気づかないふりをする。人間は、忘れるために生まれるのだろう。
釜戸まで戻ると、少女がそこにいた。昨日とまったく変わらない服だが、表情がわずかに違った。何かを諦めたような、しかし同時に何かを握ったような、そんな顔をしている。
「おはよう」
「……眠れなかった」
少女は袋を抱えていた。中から紙がのぞいている。学校で配られた、破れた帳簿の裏紙だ。そこに、昨日書いたものが入っているのだろう。
「今日も来るんだ」
「行かないと、昨日の“気持ち”が嘘になるから」
「嘘でもいいじゃないか」
「嘘でいい日もある。でも、今日はまだ嘘にできない日」
妙に理屈めいた言い方だったが、少年はその意味をなんとなく理解した。言葉は、生きるためには役に立たないことが多いが、「選ばないと死んでしまう感情」の整理には使える。
火を起こし、湯を沸かし、ふたりで少しだけ飲む。湯だけの朝食は、まるで「今日に対する約束」のようなものだった。温かいものを飲んだということが、今日を生きる理由になる。
学校へ行くと、教室には昨日よりもさらに多くの子どもたちがいた。だが、皆が席に座っているわけではない。立ったまま黒板の文字を見ている子、机の下にいる子、窓から顔を出して外の空を眺めている子。教室は机の向こう側まで教室ではない。ただ、「そこに人がいる」だけで教室になる。ここはそういう場所だった。
教員は、また昨日と同じように黒板に字を書いていた。「骨」と書いてある。あまりに直接的すぎて、教室の空気がかすかにたわんだ。
「骨とは、身体の中心だ」
教員はチョークを握りながら言った。
「肉は腐り、皮膚は裂ける。骨だけが残る。では……心には骨があるのか?」
誰も答えない。そもそも、心そのものが、まだ戦争で傷み過ぎて柔らかい。
「心の骨は、“忘れないこと”だ」
教員は板書を続けた。チョークの粉が舞い、白が灰のように見える。
少女が、視線を落とした。少年がちらりと見ると、彼女の紙には昨日の続きの絵が描かれていた。白い器。揺れる液体。その隣に、小さな手が描かれていた。昨日はなかった“手”だ。それは、何かをすくおうとしている形に見えた。
「……何か、変えた?」
「うん。昨日は器だけだった。でも、器だけじゃ、飲めないでしょ?」
その言葉が、少年の喉の奥でつかえた。
人がものを飲むには、手と意志が必要だ。生きるとは、“飲み込む行為の連続”だ。飲めなければ死ぬ。手がなければ、意志がなければ、器があっても意味はない。
少年も、自分の紙をめくった。昨日書いた「灰」がまだそこにあった。灰。あらためて見ると、その字は驚くほど重かった。「白」ではなく「灰」を書いた自分の心が、何を選んだのか——まだ分からなかった。
「今日は、書くものがあるか?」
教員が言うと、どこからともなく腹の音がした。誰のものか分からない。皆の腹は似たような音を立てる。
少年は鉛筆を握った。
昨日より、少しだけ筆圧が強かった。紙が薄くひびく。
——今日、飲んだもの。
——今日、覚えていること。
紙の上に書かれた文字は、昨日よりも乱れていた。
白
粉
冷たさ
嫌な味
でも、腹に沈むこと
言葉はまとまりなく、どれも単語だった。
だが、それらの単語の塊が少年の「今日の胃袋」になっていた。
少女は、また絵を描いていた。今度は器の下に、小さな火が描かれていた。器を支える三本足の釜。その脚は、まるで少年が覚えている釜戸の影だった。
「昨日より、火が近くなってる」
「うん」
「どうして?」
「火がないと冷えて死ぬもん」
少女は絵の中に、ゆっくり火を描き足した。
その火は、大きくもなく、小さくもなく、ただ「そこにある」だけだった。
教員が教室をぐるりと回る。
少年の紙を見ると、少しだけ目を細めた。
「それは“灰”か」
「はい」
「灰とは、燃えたあとだ。では“燃える前のもの”は何だと思う?」
燃える前のもの——木か、紙か、油か。
少年は言葉に詰まった。
教員は続ける。
「燃える前は生きている。燃えたあとも形を残す。灰とは、生きた証であり、死んだ証でもある」
板書に「生」と「死」と書かれ、間に灰色のチョークが塗られた。
それは、灰ではなく、風の通り道のように見えた。
放課後、少女と並んで歩く。
配給所にはもう人はいなかった。
誰も残っていない空の地面には、こぼれた粉の白い跡が薄く残っていた。
「これ、たぶんミルクの粉なんだろうね」
「そうだな」
「この白が、お腹の中に入っただけで、少しだけ生き残れるなんて変だよね」
「変だ。でも、生きてること自体が変だ」
少女は笑った。
「変なままで生きていくしかないんだね」
釜戸に戻ると、灰は風で崩れていた。
うっすら残った火の匂いと、まだ消えない記憶の温度。
少年は紙を取り出し、灰の上にそっと置いた。
少女も、自分の紙をそこに並べた。
文字と絵と、火と灰が並んで揺れている。
「燃やす?」
「まだいい」
「また?」
「うん」
「灰になる前に、まだ“火になれるか”試してみたい」
少年がそう言うと、少女は少しだけ目を見開いて笑った。
「火になれるといいね」
「火になれなかったら?」
「灰のままで、もう少し生きればいい」
灰のまま生きる——
それは、死者でもあり、生者でもある状態なのかもしれなかった。
風がふたたび吹いた。
灰が揺れ、紙がゆっくりと動いた。
白い粉が宙に漂う。
骨のような粉だ。
日々、砕けては風に乗る。
少年は空を見上げた。
雲が流れていく。
白と灰が混ざった空だった。
それでも——その空は、昨日よりも高く見えた。
第29章 腐った芋と、人間の順番

戦後の空は、やけに広く見えた。瓦礫だらけの地面から見上げるせいだけではない。建物が軒並み崩れ、かつて「水平線だったもの」が今は山のように積まれ、その向こうに空がむき出しで張り付いている。空とは、いつだって「覆うもの」だったが、いまや町は逆に、空に覆われているようだった。
その朝、少年は焼け跡の地面から指先で芋を掘り出した。かつて配られた救援物資の袋の底に転がっていたものが、破れ、土に埋まり、そのまま放置されていた。それは昨日の雨でふやけ、甘いのか腐っているのか判別できない匂いを放っていた。
指でつまんだその塊は、半分ほど黒ずんでいる。生き物の死骸にも似ていた。芋は本来「食うもの」だが、ここまで腐ると、もはや「匂うもの」「疑うもの」「躊躇するもの」に変わる。戦争が終わっても、食物は簡単に「食べ物」に戻らない。それには時間がかかる。
少年はそれを捨てず、布に包んで持ち帰った。腐っていようと、芋は芋だ。生き延びるには、たとえ半分腐っていても「捨てる」という選択肢がない。
「何それ」
少女が、釜戸の横で声をかけた。
「芋。いたんでるけど」
「食べるの?」
「食べるしかない」
「……そうか」
少女の表情には、諦めと尊敬が同時に浮かんでいた。生き残る覚悟というのは、誰かが勝手に決めるものではない。腐った芋を前にして、それでも食べるかどうか決めた瞬間に、覚悟は生まれる。
二人は小刀で芋を裂いた。中はまだ白く、なんとか食べられそうだった。表面を削り落として湯に入れる。湯気が立ちのぼる。その匂いが、生きていた日々と、死んだ日々を一度に思い出させた。
湯が沸くまでの間、ふたりは黙って学校へ向かう。芋を湯に残したまま出ることに、矛盾を感じない。盗まれたら盗まれたで、それは誰かが生き延びたという証拠なのだ。
教室に入ると、昨日よりさらに人数が増えていた。机が足りない。子どもたちは椅子を奪い合ったり、床に座ったりしている。それでも、全員が何かしらの“席”を確保していた。席というのは、学校では「居場所」という意味以上に、「存在を認められた証」として必要なのだ。
「今日の授業は、“順番”について話す」
教員が板書しながら言った。
順番。
この言葉は、戦争中も戦後も、重たく響く。
食べ物の順番。
死ぬ順番。
残される順番。
救われる順番。
置いていかれる順番。
「順番を守れと言われると、人間はだいたい怒る。なぜなら、自分が後ろだったとき腹が立つからだ」
教員の言葉に、何人かが笑った。笑ったのは、多分昨日“後ろに並んでいた”者たちだ。
「だが、順番をなくすと、もっとひどいことが起こる」
「ひどいこと?」
誰かが聞いた。
「一番得をした者が、いつまでも一番になる」
教員はチョークを握りしめた。
「順番とは、不公平を少しずつ動かす仕組みなんだ」
板書には「前」と「後ろ」と書かれ、その間に一本の線が引かれていた。
「戦争中、大人たちは“国が先だ、お前たちは後だ”と言った」
静まり返る。
「戦後になっても、“復興が先だ、お前たちは後だ”と言う」
子どもたちは誰も声を出さなかった。
静けさは、怒りと諦めと眠気の混合物だった。
「今日から、お前たちには“自分の順番”を決める練習をしてもらう」
教員が言った。
え、と誰かが声を漏らした。
順番は「決められるもの」であって「選ぶもの」ではなかったのだ。
「ここに紙がある」
教員は、また破れた紙の束を持ってきた。
「そこに、“自分が後にしたいこと”と、“自分が先にしたいこと”を書く」
教室中が混乱しはじめた。
「戦争が終わった以上、“お前たちがどう生きたいか”を問われる時代になったんだ」
「そんなこと——」
ひとりの少年が言った。
「……考えたことない」
「考えたことのないことから書け」
教員は言い切った。
「書けないなら、線でもいい。ぐちゃぐちゃでもいい。それが“順番の外側”だ」
少年は紙を受け取った。
“先にしたいこと”
“後でしたいこと”
鉛筆を握っても、手が動かない。
字にしようとすると、喉の奥に何かが詰まる。
生きる順番。
死ぬ順番。
忘れる順番。
泣く順番。
怒る順番。
「順番」には、戦争で奪われた時間の影がつきまとう。
「……何書いた?」
少女が小声で聞いた。
少年は紙を見せた。
【先にしたいこと】
・火を起こす
・湯を沸かす
・食べる
【後にしたいこと】
・忘れる
・泣く
少女は、しばらく黙ってから言った。
「……ちゃんと生きようとしてる人の順番だね」
「そっちは?」
「見せない」
少女は紙を裏返した。
そこには、まだ文字がない。
空白だった。
「書けないときは、何もしないでもいいんだよ」
少年が言う。
「何もしないと、生きてる実感がなくなる」
「じゃあ……書くまで待つよ」
「待ってる間に、死ぬかも」
「そしたら順番は、もういらなくなる」
少女の目がふっと笑った。
それは、生きていくことを“面倒くさい冗談”として扱う笑い方だった。
放課後、ふたりは芋の湯に戻った。
釜戸の火はまだ残っていた。
芋は少しだけ柔らかくなっている。
「食べよう」
「うん」
ふたりで掬い、口に入れる。
腐った匂いはまだ消えていない。
だが、芋の甘さも消えていない。
「腐ってても……甘さは残るんだね」
「甘さが、生き物を呼び戻すんだ」
少女はうなずき、ゆっくり飲み込む。
味に涙は混ざらなかった。
泣く順番は、今日ではなかった。
「明日も、順番考えるのかな」
「多分」
「生きる順番と、死ぬ順番……どっちが先なんだろう」
「さあな」
少年は釜戸の中の火を見た。
風が吹くと火は揺れ、炎は細く、灰は軽く舞う。
「でも、火があるうちは“順番待ち”だと思うよ」
「火が消えたら?」
「順番が終わる」
少女は静かに答えた。
それは、教員の言葉よりもずっと、重くてはっきりしていた。
ふたりは灰を崩し、紙を並べ、火を見つめた。
芋の甘さと生臭さ、火と風、文字の空白、決められない順番。
そのすべてが、まだ「途中」だった。
——順番の途中で生きている。
それだけが、確かな実感だった。
(第三十章につづく)

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